表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

グリーヴス家の醜聞

 兄のカインがこの世を去って神の国に入ったのは、半年前のこと。

 この国の名誉ある伯爵として、かつて女王陛下の杖に口づけを許された兄・カイン・グリーヴスは……。



「毒殺だ」


 私は湿った新聞を膝の上に広げ、眉間を指先で押さえた。

 早朝、ロンドンの霧の中を運ばれてくる新聞はいつもじっとりと湿っている。

 紙に鼻を近づければ、町の香りがした。

 霧と、ガス灯と、紳士淑女の香り……インクの上にまで霧をまとっているようで、嫌になる。

「続くねえ……ここ数日で3件。その前は刺殺が4件。少し前にあった売春婦ねらいの殺人事件も解決しちゃいないのに。女王陛下はさぞお嘆きのことだろうね」

 淡々と呟いて私は目を細める。早朝前の薄暗い部屋は、空気に青い色が滲んでいる。

 蝋燭の一つもないこの部屋は、重苦しいほどに薄暗い。潰れたような新聞の印字は読みにくい。

 それでも私は頑なに光を拒んだ。

 光は私にとって、眩しすぎる。

「ええっと。なになに……塔の下の公園で、サクラの花が開花……ああ、数年前にジャポネから運んだ苗がようやく成長したのか。ふうん。これは良いニュースだ」

「……旦那様」

 ぽう、と手元が明るくそまった。赤い光は目に痛すぎて、私は思わず顔を伏せる。

「やめろ」

「またこのような暗い場所で……お体に触ります。どうか、日の当たるバルコニーにおいでください。せめてランプか、暖炉のお側に」

「相変わらず君は口うるさいね、ロバート」

 私は新聞で顔を半分隠し、苦笑する。音もなく私の後ろに立っていたのは、執事のロバートだった。

 けして猫背にならない真っ直ぐで細い体、汚れの一つもない黒のスーツに、いつでも磨き上げたばかりの革の靴。

 およそ彼が焦っているところを、私は見たことがない。

 年は私より一つ上の40歳ほどだが、すでに髪は白色に近い。元は巻き気味の赤毛であったはずだ。私と同じく。

 しかし苦労が多いのか、彼は実年齢よりも相当に老けて見えた。その顔に髭なぞ整えれば似合いそうなものだがなぜか彼はそれを頑なに拒否し、生えてきても剃り落としてしまう。

 彼曰く『手間のかかる旦那様がいるので、髭を整える時間がもったいないのです』だそうだ。

「旦那様には体を労って頂かなければ」

「……僕が兄のように死んでしまうと、この伯爵家がなくなってしまうから……かな」

 つぶやいて、私はロバートを横目で見る。ロバートの顔に一瞬だけ悲しみが生まれ、そして彼は薄い唇の端を噛みしめた。

「……そのようなこと」

 私は手元の新聞に目を落とす。刻まれた日付を見て、そしてため息をついた。

「ああ。妙に気持ちがざわつくと思ったよ。今日は……兄が死んで、ちょうど半年目じゃないか」

 何という偶然だ。私は日付を、そっと指で撫でる。

「思い返せば、あれは秋の頃だった。兄は……見事に毒で散ったのだった」

 私は薄暗い部屋の隅を見つめて、眉間を押さえる。兄の顔が脳裡にぼんやりと浮かび、そして消える。

 確か兄は、50歳かそれくらい。若すぎる死だ。唐突な死だ。

「死の口づけは誰も拒めはしない……か」

 私は柔らかい背もたれに、背中を預ける。暖かさが体中に広がった。

 柔らかすぎるこの椅子も、美しく刺繍が施されたカーテンも、いつまでたっても慣れやしない。寛げば寛ぐほどに頭の芯が痺れる。

 おかげで、頭痛がすっかり癖になった。

「たった、半年前……か。それとも、もう、半年か……」

 兄が死んで半年。

 私がこの屋敷に入り、兄の……数代にわたって受け継がれてきた伯爵家当主の位を……継いでちょうど半年になるのだ。

 この派手で豪奢で享楽的な生活は私の皮膚にはあわない。頭痛だけではない。目眩もするし半年の間、睡眠障害が続いている。

 こうして暗い部屋でじっとしている時間だけが、心安らかでいられる。

「しかし、毒で死ぬなど、非常に貴族然としているじゃないか。だいたい、歌劇に出てくる貴族は毒で死ぬものだ。寿命で死ぬなど貴族らしくない。兄は却って名誉が守られて喜んでいるかもしれない……」

「……」

 思わずつぶやいた一言に、ロバートは無言となる。その間があまりに冷たくて、私は彼の腕をそっとなでた。

「すまない。君は兄によく仕えてくれたんだった。もう……何十年も兄の顔を見ずにいた僕とは違って」

 正直なところ、私が最後に兄と……生きている兄と……会ったのは20年ほど前のことである。ここまで没交渉だと、兄とはいえまるで他人だ。

 兄の葬式で、私は涙一つ出なかった。

 おかげで今でも悲しみはチリほどにもわいてこない。そもそも、私は兄に対して親愛の情を持ったことがない。

「兄は立派だったらしいね。体格は名誉ある曾祖父に似て立派。立ち振る舞いは先代の父に似て見事な傲慢っぷり、戦わせれば北欧神話のオーディンのように強く、顔は自信に満ち……」

「ご立派な方でした」

 ロバートは抑揚のない声でいう。私を気遣うように、こちらに目もくれない。

「そうだね」

 私は苦笑し、自分の細い指を見下ろした。

「……僕とは違う」

 一方、私といえば、幼い頃から病弱だ。雪が降れば風邪をひき、肉を食えば腹を壊した。

 兄が肉をくらって酒を飲む横で、幼い私は紅茶とココアと不味いビスケットだけで過ごしたものである。

 そんな私を見限ったのか、周囲の大人達は幼少の私を田舎村の別荘に押し込んで、その存在をすっかり無いものとした。

 それが辛かった訳じゃない。むしろ人嫌いで偏屈な私にとっては幸いであった。

 その場所は、山と草原と、目に痛いばかりの緑。そして少しばかり南に下れば海や島を見ることもできる、美しきウェールズの田舎。

 穏やかで暖かく、そして悲しいくらい何もない。

 その別荘で私は何十年もの間、勉強と療養に費やした。

「兄は立派だった。30歳そこそこで亡き父の跡を継いで伯爵となり、それから20年、この家を守ったのだから」

 父は20年前、馬車の転落事故でこの世を去った。

 それが殺人だったのか、事故だったのか、いまだはっきりしない。伯爵家の醜聞を恐れ、兄を含む貴族たちがこぞってその死を内密な物としたからである。

 おそらく、父は殺されたのだろう。今の私はそう確信している。 

 父が亡くなり、その跡を継いだのは、兄。

 兄は父の葬儀を立派に勤め上げ、その終わりに私を呼び出した。そのころ私は20歳になるかならないか、それくらいだったように思う。

 久しぶりに会った兄は、驚くほどに父とそっくりになっていた。赤の巻き毛にブラウンの瞳。屈強な体。

 私が父から継いだのは、髪と目の色だけだ。ひょろひょろと痩せぎすで色も白い私に向かって兄は明らかに侮蔑の目を向けた。

 そして兄は私に冷たく言い放ったのである。


『お前は、なにがしたい?』


 それは身内の暖かさなど一切感じさせない冷たい言葉だった。兄弟の会話にしては、あまりに冷たい一言だった。


『お前がしたいことをしなさい。ただし、家には今後一切関わらぬように』


 病弱で意志薄弱な次男では、伯爵家のために働くことなどできない。

 兄は彼なりの最大限の優しさで言ったのだろう、と今ならわかる。

 家のために役立たないお前を追い出すこともできるが、せめてもの情愛で生かしてやろう。そのかわり、なにをしたい? できるだけ外の世界に出ずにすむ、役にも立たない犯罪にもならない、そんな一生涯の趣味を言いなさい……と。

 私はそんな兄の冷たい優しさを受け入れた。

 どうせ私には、ロンドンの華やかなりし社交界へ飛び込む勇気などないのである。ドレス姿の女性も、フロックコートの男もみな、私にとっては恐怖の対象でしかなかったからだ。

 だから私は言ったのだ。

 医学と化学の勉強をさせてもらえるのならば、あばらや暮らしでもかまわないと。

 そして私は再び、ウェールズの別荘に引きこもることとなる。それから20年、私は世間を棄てて田舎に引きこもっていたのである。

「兄は優しかったよ。こんな僕でも生きて良いと言ってくれた。半年前までは、まるで夢のような毎日だった……」

「確かに半年前まで旦那様は気ままに実験などをされていたようですが」

 ロバートは細い眉をひそめて私を見る。

 そしてサイドテーブルを横目にみた。その上には、ごちゃごちゃと……彼のいうところの「おもちゃ」が転がっている。

「ウェールズでも、そのような、おもちゃで遊ばれていたのですか?」

 彼は真っ白な手袋でおもちゃの一つを手にとった。クリスマスオーナメントのような、丸い銀の固まり。振ればカラカラ音をたてる。

「これは?」

「小さな携帯用の花火だよ。地面に打ち付けると地面に花火が散るんだ。まあまだ試してないけれど……計算上はね」

「このような、危ないことばかり」

 ロバートはそれを私から離れた場所にそうっと、置く。そして気むずかしい顔で私をみる。

「あの美しいウェールズで外にも出ずに、このようなことばかり?」

「ああ。お前も昔……一年ほど、あの田舎で一緒に暮らしたのだったな。うん。綺麗な町だ。美しい空気の町だ。しかし覚えているだろう、強い日差しを浴びると僕は熱が出るたちでね」

 ああ。麗しの我がウェールズ!

 しかし、私はその春の夏の秋の冬の空気を知らない。

 美しい緑が雨に打たれ、日差しを浴び、紅葉し、雪が積もる様をまじまじと見たことはない。

 私は外が嫌いである。

 春夏秋冬、屋敷の薄暗い部屋に籠もってひたすらに実験を繰り返した。実験結果を発表するわけでも、学会に立つわけでもない。私の楽しみだけで終わる実験の数々。

 ……その楽しかった20年近い日々も、半年前で終わってしまった。

「ずっと実験ばかりされていたのですね」

「そうなんだ。もう少しで完成しそうなのだよ。塗るだけで傷が一瞬でふさがる魔法のような薬とか、一口飲むだけで一気に酔っぱらう酒とか……」

 こん。と、ロバートが壁を指で叩く。そこは明け方の淡い光の中でも分かるくらい、黒く焦げていた。

「そんな魔法で壁を焦がされたのですか」

「いや、これはその携帯用花火のプロトタイプを作っている時に……」

「お屋敷を飛ばされる気ですか」

 ロバートはにこりとも笑わない。この堅実かつ生真面目で融通の利かない男は、父の時代からこの屋敷に仕えている。

 父が死んでからは兄を主として、兄が死んだあとは私を主として。ロバートは完璧な執事だった。

「確かに半年前まではご自由な身分でいらっしゃった。でも、今は違うのです。旦那様」

 ロバートは白い手袋に包まれた自身の手首をきつく掴んだ。

 これは彼の癖のようなものだった。白い手袋の下の掌もきっと、皺が寄っているのだろう。私は彼が手袋を外したところを見たことがない。

「アレックス・グリーヴス」

 彼は威厳に満ちた声で、ブラウンの瞳で、私の名を呼び私を見た。

「あなたは女王陛下から正しく継承を受けた、グリーヴス家の当主なのですから」

「……女王陛下も、僕みたいな継承者がきてさぞや気落ちしただろうね。でも彼女が愛しているのは僕ではなく、グリーブスの名だ。この名を持つものは一切の義務を免除され、贅沢を存分に味わえる。すべては百年近く昔の大戦争時、蛮族にさらわれかけた女王陛下を救出した……我が偉大なる曾祖父様のおかげでね」

「清く正しくご立派なお家柄です」

「……だからこそ」

 私はやせた腰を、椅子に深く押し込んだ。

「降ってわいた、本当に”幸運”だ」

 私は椅子に深く腰をかけたまま、嫌みっぽく吐き捨てた。

 そして私は周囲を眺め見た。そこは私が屋敷のなかに特別にしつらえさせた特別な部屋である。

 穴蔵のように薄暗く、埃くさく、かび臭い。アルコールランプに、白い粉を詰め込んだガラス瓶や物差し、ペン、人体の模型図。そんなものが所狭しと並ぶ部屋。

 椅子やカーテンは高級品だが、それ以外はロンドンの市場で揃えさせた三級品だ。

 半年前まで住んでいたウェールズの別荘、そこにある私の部屋をそのままこの部屋に再現させた。

 ロバートの反対を受けるかと思いきや、彼は案外あっさりとそれを認めた。

 条件はソファを高級品にすることだけだ。その理由は「安物だと腰を痛めるから」という、彼らしい理由である。

 おかげで、この豪奢な伯爵家の中で、この部屋だけが唯一私を慰める場所となっている。

「青天の霹靂とはこのことだよ。そもそも僕が伯爵の地位に立つことなぞ、あり得ない話だったじゃないか。兄にもし何かがあったとしても、兄には息子が二人いた……まあ甥の一人は手の付けようもない馬鹿だったがね。それに父の妹……伯母もいた。叔母には息子だっていた……性格は悪い男だったが……ほらみろ。兄が一人死んだところで僕に順番なぞ回ってくるはずもない。なのに」

 緑色の液体が詰められた、曇りガラスの瓶を私は振る。

 と、激しい音をたてて煙があがった。ガラスにひびが入り、私はあわててそれを机に手放す。

 ロバートは眉一つ動かさず、胸のナプキンを取り出すと私の手の汚れを拭った。

「……なのに兄が天国へ旅立つ半年前に甥二人が馬車の事故でそろって死亡。そしてその直後、叔母と従兄弟が船からの転落死、そして兄が死ぬ三日前に叔父が毒殺。おかしなもんだ、まるでお膳立てでもされたように、僕に伯爵の杖が降り落ちてきた」

 兄の葬式で、どこぞの貴族の男が私を指していったものだ。「幸運な男」と。

 もちろん私は真っ先に疑われた。こと、兄と叔父に関して言えば毒死である。怪しい化学やら医学を学んでいた私は真っ先に疑われ、あやうく監獄送りになる直前であった。

 愚かな警察たちは、私の扱う薬と二人を襲った毒の違いもわからないのだ。

 そもそも、二人を殺した毒は、尋常なものではない。

 ……伯爵家の血を引く人間たるもの、多少の毒では死なない。

 ふつうの人間を殺せる程度の毒は、我々のような貴族にとってみれば腹を壊す程度のものである。

 つまり、彼らは相当な毒で殺された。それはただの連続殺人などではない。確実な、殺意がそこにある。

「周囲には何とでも言わせておけばいいのです。あなたは女王陛下の祝福を得て、位を授かったのですから」

 ロバートは静かに言う。

「それにあまり過去のことを振り返られますな。また、お気持ちが沈まれてしまう。そしてまた、お体に障ります」

 彼はいつでも冷静で、そして鋭く真面目だ。真面目過ぎるきらいはあるが。

「半年前も、熱を出されて一週間も寝込まれたではないですか」

「……ああ」

 外を飛ぶ鳥の声を聞いて、私は不意に現実に引き戻された。

 兄が死んで半年というこの節目に、私はついつい過去へ引きずられたらしい。

 懐かしがろうが悔やもうが、どちらにしても兄も父も死んだ。私が現当主であることは、どうしようもない現実なのである。

「……ところで、なぜこんな朝早くからここに来たのかね、ロバート。まだ朝の紅茶の時間には早すぎるだろう」

「ああ、忘れるところでした」

 彼は汚れ一つない白手袋を打ち鳴らす……と、音もなく扉が開き、庭師のジョンが大きな箱を大儀そうに運んできた。

 それは白い木箱である。つややかで白い、真四角の箱。

 大男であるジョンは抱えたそれを、ようよう床におく。

「これは?」

「その前に……最近、屋敷で怪しい影をみたという使用人がいたのです」

 ロバートは箱を開けようとする私をとどめて、言う。

「なんだそれは、僕は聞いていないぞ」

「まだ不確定情報ですので伏せておりました。まだ詳細は掴みかねておりますが、目撃情報が立て続けに起きております。もしかすると、先代様を襲った男が……」

「お前はまだ、兄のことを忘れられないんだな」

 私は目を細めて、ロバートをみる。

 彼は唇をかみしめて顔を逸らした。が、そんな顔をみせたのも一瞬のこと。

 ロバートはあっさりとその表情を押さえ込む。彼は、完璧な男だ。

「私は執事として、仕事をこなすばかりです」

「それで? 兄を襲ったかもしれない怪しい影が出たことと、その荷物の因果関係は?」

「……こちらを旦那様への贈り物に」

「贈り物? お前が? 僕に?」

 ロバートはすぐさま、表情を消して箱を軽く撫でる。

「ほんのおまじない程度の、まあ、他愛のないものですが……このお守りをそばに置いておけば、毒にかかりにくくなる伝承があるそうです」

 ロバートはゆっくり、箱の蓋をはずす……と、甘い香りが広がった。

 煙いような、甘いような不思議な香り……どこかで嗅いだことのある香りだ。鼻を動かしやがて私は膝をたたいた。

「伽羅だ。これは香のにおいだな。昔……東洋趣味をこじらした時に、商人から買い上げたことがあるぞ。あれはずいぶんと高いんだ」

「先日、市場でみつけてきたのです。珍しいものですので、旦那様にぜひと思い」

 その香りは、私がかつて買い上げたものよりもっと良質である。

 胸の奥に甘酸っぱい記憶が蘇ることを、押さえることができなかった。

 ……もう10年も前になるだろうか。

 私は突然、東洋趣味をこじらせたことがある。医学を志す人間ならば一度は陥る麻疹のようなものである。

 医学の誕生は我が国やヨーロッパにおいてではない。それは遙か古代、アジアの地によって起きたのだ。

 それを辿っていくうちに私はすっかり東方の世界に魅せられ、その興味はやがて陶器や書、絵などにも移っていった。

 なかでも東洋の海に浮かぶ小さな島国。ジャポネの美しい絵画や香りにすっかり傾倒し、金の続く限りオランダ商人から買いあさったものである。

 かの国は貿易をひどく絞っているせいで品数はいつも希薄。商人にはひどく足下をみられたものだが……。

「やれやれ、大きな荷物だね。僕の部屋におけるかな」

 かつての思い出が私の声を震わせる。

 この屋敷にも、気に入ったいくつかの品々は持ち込んでいる。そこのコレクションが増えるのは、望外の喜びだった。

「お部屋に運ばせますので、どうぞそちらでゆっくりと、中のご確認を」

「いやいや、せっかくだ。ここで開けていくよ」

「しかし旦那様……」

「ん……?」

 箱をそっとのぞき込むと、むっと伽羅が香る。

 むせるほどの香りだ。甘く、スパイシーで、そして色気がある。

 香りを飛ばすように手で振り払い中に手を入れてみると、油紙がいくつも折り畳まれて詰められている。このサイズだと、壷か陶器だろうか。それにしては、軽そうではあるが。

「ロバート……」

 慎重に油紙を取り除き、私はその中を覗く。そして、光で中のものを確認し終えた時、私は驚きのあまり思い切り後ろに尻餅をついていた。

「ロバート! なんだ、これは!」

「え。ですから、お守りですと……」

 ロバートは動揺する色さえみせず、目を細める。

「お側に置いておくだけで、毒の事故を防ぐのだそうです」

「人じゃないか! しかも娘だ!」

 箱の中に入っていたのは……詰められていたのは、少女である。

 彼女はまるで膝を抱えるような形を取らされ、箱の奥に詰められていた。

 黒く艶やかな髪は顎のあたりで切りそろえられ、箱を揺らすとゆらゆらと揺れた。

 そうっと手を差し入れて触れると、その柔らかな皮膚は血の気配を持っていた。鼻先に指をおけば、かすかだが暖かな息を感じる。

「……生きている!」

 私は慌てて箱の中に腕をつっこみ、少女を引き上げる。彼女は強い薬で眠らされているのか、まるで抵抗もない。死んだようにがくりと首がうなだれ、美しい髪が私の腕を打った。

 悲しいくらいに、細く軽い娘だ。

「これは……ジャポネの娘だ。このドレスを見たことがある」

「ジャポネ……?」

「東洋の小さな国だよ。僕は昔フランスで遊学していたせいで言葉がいまだに混じることがある……いや、そんなことはどうでもいい」

 娘はまだほんの10歳ほどではないだろうか。東洋の娘の年代はわからない。しかし顔は幼く、髪の質も若い。

 彼女は花の描かれた美しいドレスをまとっている。腰のあたりを黄色のベルトで縛っていて、それは長く垂れていた。それはドレスではなく、ジャポネのキモノというのである。こんな見事な品をみたことなどない。彼女は正真正銘の、ジャポネの娘である。

「なんて、ひどいことを……眠らせて箱に詰めるなんて……ロバート、君が彼女をこんな目に会わせたのか」

「いえ……あの……」

 ロバートは私の怒りに驚いたように数歩退き、背をただした。

「そのような形で、売られていたので……」

「売られていた……? お前はなにを言っているのだ。まさか、ロバート。これを奴隷商人から買い付けてきたと言うんじゃないだろうね」

「……」

 にらみつけるとロバートは俯く。彼にしては珍しい表情だが、私はかまわず続けた。

「僕はね、ロバート。海の向こうで商人たちが行っている、人買いの真似など断固したくないのだ。言っておいたはずだ。そのようなこと、僕の信念に反すると」

 床を殴ると、その音で少女がぱちりと目をあけた。なんと、美しい漆黒の目!

 彼女は目をみひらき、小さな頭をまっすぐに持ち上げる。顔に血の気が生まれ、頬は紅を落としたように明るくなった。

 しかし彼女は自分の置かれた異様な光景にようやく気づいたように、一度大きく震える。

 濡れたような黒い目で周囲を見渡し、やがて口を押さえ、私の腕から力一杯逃げ出した。

「すまない、恐ろしいだろう。でも大丈夫だよ」

 彼女は子猫のように私の腕から飛び出すなり、木箱の裏に這うように逃げ出す。

 彼女を捕らえていた牢獄というべきその箱に、縋るよう逃げる様は哀れですらあった。

「こんな小さな箱に詰められていたんだ……恐ろしかったろう。ああ。なんて可哀想なことを」

 見たところ、怪我などはないようだ。飢えてもいないようだ。おそらく閉じこめられてからさほどの時間はたっていないのだ。

 しかし、おびえの色が深い。声も出せないほどに震え、子猫のように小さく身を丸めている。

「大丈夫だよ。僕は医者だ……資格はないが……知識はある。ああ、言葉がわからないかな……安心して。大丈夫。君を傷つける気などない」

 身振りで私は少女に伝えようとするが、彼女は震えたまま。こちらをみることもしない。

 数歩下がっていたロバートだけが、妙に落ち着き払って腹立たしいほどだ。

「ロバート、お前もなにか声を掛けなさい。あの子はひどく怯えている」

「お気に召しませんでしたか……しかし商人がいうには、この少女を側におけばあらゆる毒が解毒されるのだと」

「そんな馬鹿な迷信があったものだ。こんな娘が、どうして僕の体に入ってくる毒を防いでくれるのだ。外からできる解毒なぞあるものか。少女の肉でも千切って食えというのかね」

 いらだちをこらえてロバートに言い放てば、彼は生真面目そうに目を細めた。

 そのような効果があるのか、考え込むような顔である。その青白い顔にぞっとして私は彼を睨んだ。

「冗談に決まってるじゃないか。嫌な想像をさせるなロバート。僕はこれでも化学と医学を20年学んだ。人間を一人側に置くだけで消せる毒などはない。お前は商人に騙されたのだ」

「返品して参りましょうか。それとも一晩、お側においておかれますか」

「僕にそんな趣味はないぞ」

 今日のロバートは、彼にしては気味の悪い冗談ばかりを言う。

 話の通じない執事との会話を打ち切って、私は娘をみる……と、彼女は部屋の隅で再び崩れ落ちていた。極度の緊張と恐れが彼女の意識を奪ったのだろう。

「ああ、可哀想に……」

 そっと近づき、その細い喉に触れる……と、私の指が震えた。

(喉が、切られている?)

 少女の細く艶やかな首には、それに似つかわしくない膨らみがあった。

 ロバートに見つからないように私は彼女の襟をゆるめ、覗き見る。

 見えるか見えないか程度の、細い傷だ。昨日今日の怪我ではない。古い傷だ。しかし、それは深く、確実に彼女の声帯をつぶしている。

 だから、声が出せなかったのである。

 こんな鮮やかな傷、ただの怪我ではあるまい。誰かに意図的に、彼女は声帯だけを潰されている。

 ……なんのために?

 しかし運のいいことに、彼女はまだ生きている。ただ細い眉が苦悶にゆがんでいる。

 目の端に浮かんだ涙が幾筋も頬を伝わって地面に散る。その症状を私は知っている。ある種の、質の悪い眠り薬である。

「ロバート、たしか……余っている部屋があったな」

「旦那様のお部屋に置いておかれませ」

「彼女は壷じゃないんだぞ、ロバート!……余った部屋があったな。と聞いている」

 細い彼女の体を抱き上げ、私はロバートを見る。執事は冷たい目で私を見ていたが、やがて小さくため息をついた。

「ええ。ございます。お客人用のお部屋が、10部屋ほど」

「どこでもいい。あそこに気付けのハーブと、湯を運ばせろ。そしてメイドを呼んでくれ」

「……では、あのそばかすの娘がよいでしょうね。年頃がこの子と近いですし」

 嫌みなロバートの口調を無視して、私は颯爽と薄暗い部屋を出る。

 廊下にでると、いやらしいほど豪奢な輝きが私を包み込む。伯爵家はそれに相応しく、部屋も廊下もどこもかしこも眩しすぎる。

 廊下に控えていたメイドたちが一斉に、私を見る。

 ……ああ。気持ちが悪い。

「娘をどうなさるのです」

「しばらく、預かるしかないだろう。通訳を呼べ、きちんと言い聞かせた上で、この子は国に返そう」

 腕の中で寄る辺もない少女が苦しそうに身悶えする。

 私はそれを見て、哀れみだけを感じるのである。

 彼女はまだ幼い。これほどの娘であれば、親もあるだろう、兄弟もあるかもしれない。急に娘が消えれば誰もが彼女の安否を案じているはずだ。

 そして娘もまた、家族を求めて泣くはずだ。しかし彼女は目覚めるなり、まるで獣のように震えた。父や母を探す気配もなかった。彼女は家族の記憶がないのだ。

 ……家族に愛された記憶を、持たないのかもしれない。

 気の回しすぎだろうか、しかし、私は彼女の中に自分を見たのである。

 幼い頃、家族に捨てられた私自身の影を見たのである。

「それまで彼女は僕の客人だ。彼女に無礼な物言いは許さないぞ」

 冷たいロバートの視線を弾き飛ばして私は屋敷中に響くよう、言い放つ。

 皮肉なことに、それは私が伯爵になってはじめて放った、命令らしい命令であった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ