9,努力して呼吸する
全員で出かけた楽しい時間も、まったりと過ごした癒されるような午後のティータイムも、温かいクールを抱きしめてうとうとした穏やかな時も。幸せな時間はあっという間に過ぎていった。次の日仕事から帰ったオネットはコートを脱ぐと、夕食の席についていただきますの前に皆の顔を見つめ、お兄ちゃんの顔になった。
「明日から2週間ぐらい王家の公務の護衛をすることになったから、暫く家をあけることになるんだ。その間は皆極力外出は控えて、仲良くやってね!」
オネットはそう言ってにっこり笑った。そしていただきまーす!と言った。しかし今日はその声に続く者は誰もいなかった。
「え…、2週間も…?」
エフォールが不安げな声を上げた。皆動揺を隠しきれない様子だ。オネットが一日中家を留守にすることは度々あったが、精々朝早く出て夜遅く帰るのが最高だ。2週間も帰らないことなんて初めてだし、こんなに急に予定が入ることも珍しい。普通ならひと月前には予定を聞かされ、オネットは自分の手帳にそれをメモする。だが、だからと言って止めるなどという選択肢はなく、暫くして皆小さくいただきますと言ってご飯を食べ始めた。冷めて少しぬるくなった親子丼が、ゆっくりとお腹を満たしていくのを感じた。いつも通りのオネットに、皆本当に言いたい言葉をかけることはできず、そのまま眠りについた。次の日の朝メルベイユーがいつもの時間に起きると、オネットはもう身支度を済ませていつでも出発出来る格好だった。いつもは身軽なオネットも、さすがに最低限ではあるが、泊まり道具などを手にしていた。メルベイユーに気づいたオネットが笑って白いコートを手に取った。
「待て、皆を起こしてくる。」
そう言ったメルベイユーをオネットは静かに止めた。
「いや、こんな時間に起こすわけにはいかないよ。皆には行ってくるって伝えといて。」
そう言うとオネットはコートを羽織り、扉を開けてまだ夜も開けていない街へと歩いて行った。大切な任務らしく急ぎ足のその姿は、メルベイユーに声をかける暇さえ与えてくれなかった。オネットの姿が見えなくなって、メルベイユーは静かに玄関の扉を閉めた。パタンという小さな音と共にメルベイユーはふぅ、と息を吐いた。小窓を開けて、初夏の爽やかで、まだ温かみを含んだ風を招き入れる。メルベイユーの細い黒髪が揺れ、邪魔そうな前髪を退かした。その深く濃い青は、まだ薄暗い空を真っ直ぐに見つめていた。風に揺れたオネットの風鈴の音が、少し早めの夏を告げた。これからの2週間、オネットがいない間は極力家から出ない。それがこの期間を安全に乗り切る唯一の方法だと、メルベイユーは思った。この家に住んでいるのは過去に何かあった者ばかりだ。エフェメールのように狙われるような存在もいる。今まではオネットが騎士として、スピトゥピットが知られざる剣士としてこの家族を守っていた。でもオネットがいない今、大人と戦い勝てるような剣の使い手はスピトゥピット1人だけだ。それにスピトゥピットの得意は一対一の近距離戦。人数が多ければ多いほど、確実にこちらが不利だ。確実に仕留めようとするスピトゥピットとは違い、オネットは相手が戦えないような状態にして、とどめは刺さない。先に戦える者を減らしていく戦法なのでオネットがいれば、多少相手の人数が多くてもまだ大丈夫だ。故に、オネットのいない今、外に出ることは危険なのだ。
「気をつけろよ。」
メルベイユーは少しずつ明るくなってきた空を見上げ、皆が言いたくて言えなかった言葉をそっと口にした。そしてゆっくりと窓を閉め、朝食の準備へと移り、メルベイユーはサンドイッチを沢山作った。いつもの癖でオネットの分まで作ってしまい、メルベイユーは大量のサンドイッチを眺め、困ったように笑った。ピュールとルポゼとスピトゥピットが起きてきた。メルベイユーは小さく笑っておはよう、と言った。3人もおはようと返し、顔を洗い、サラダを並べるのを手伝う。少ししてエフェメールが起きて来て、いつものようにピュールが寝坊組の2人を起こしに行く。10分ほどの格闘の末、2人がよたよたと起きてくる。2人とも顔を洗い、食事の席に着く。沈黙が流れる。いつもならオネットが真っ先にいただきますを言い、それに続けばよかった。少し気まずい時間が流れ、メルベイユーが小さく呟いた。
「作りたての方がおいしいから、早く食べよう。いただきます。」
その言葉に続いて、ぽつりぽつりといただきますの声が上がる。みずみずしいトマトやレタスの挟まったサンドイッチは、噛むたびにシャリと、いい音がし、とても美味しかった。卵とマヨネーズのクリーミーなサンドイッチは、塩こしょうの絶妙なバランスが、1つの作品としてまとめている。ミルクを飲みながらサンドイッチを沢山食べ、お腹いっぱいになった。一日中家の中にいて、することもなくなったのでベッドでごろごろと寝たり、やる事がないので皆退屈だと感じていた。そんな中でメルベイユーはスピトゥピットの姿がないのに気がついた。ゆっくりと二階へ上がると、剣を振る音が聞こえる。扉を開ければそこには1人で剣を振り続けるスピトゥピットがいた。メルベイユーは部屋に入り、スピトゥピットに声をかけた。
「俺にももっと剣を教えてくれないか?」
メルベイユーに気がついたスピトゥピットは、鋭い眼で微笑んだ。
「いいよ。僕はメルベイユーは鍛錬すればすごく強くなると思うよ。」
そう言ってスピトゥピットはメルベイユーの木刀を差し出した。メルベイユーは受け取り、すぐさま構えた。もっと自分が強ければ、オネットがいないだけでこんなに不安にならなかったのに。皆を不安にさせることもなくて、いつもみたいにあったかくて優しい空気を作り出すことも出来たのに。メルベイユーの頭の中では、そんな思いがぐるぐると渦巻いていた。強くなりたい。スピトゥピットとメルベイユーはそれから手合わせすることも多くなり、空気はまだ息をしづらいもので、そんな状態が続いた。
でも、2週間経ってもオネットは帰って来なかった。
オネットが生けた黄色い花は、萎れてぐったりと下を向いていた。花は、自分を真っ直ぐに見上げるクールと目が合った。