新大陸にて
「もうすぐで到着しますよ」
訛りのある英語と共に少年の船乗りが部屋に入ってきた。少し顔をしかめながら片手を上げて了解を示すとまだあどけなさを残す顔を、おそらく本人なりに一人前に整えて、せわしなく木の板を蹴る音を響かせながら戻っていった。
自分に割り当てられた船室の窓から外を見た。ここはいくつかある船室の内、正面が見通せる特等席だ。帆先の向こうにわずかだが、何か海に浮いているものの存在を確認する。今は一部しか見えていないが、実際はとても大きなものだということが私にはわかる。
こうして祖国を見るのは初めての体験だ。もし私が子供のころの私にこの体験を話したとしても、信じてはくれないだろう。少しばかり頭がいいだけの片田舎の少年では理解が追いつかない。
私は船室を振り向いた。そこには私の何もかもを変えた友人がいる。
学問のために都市に移り住んだ私の最初の友人だった。村一番の神童といわれた私より数倍の明晰さと知識を備えていた彼はまさに天才と呼ぶにふさわしい人物だった。
友人でありながら私は彼を師と仰ぎ、何度も教えを乞うた。彼は嫌な顔一つすることなく私に何でも教えてくれた。
ある日、そんな彼が私に相談があると言ってこんなことを告げたのだ。
「海の向こうを見てみないか」
私はそんな友人の頼みを鼻でせせら笑った。そんなものあるはずがない。時間の無駄だ、と。海の向こうなんてものは無い。ただそこには無限に広がる空のように、海が広がっているだけだ、と。
しかし、彼はそんな私の回答に満点を与えなかった。海の向こうには私たちと同じく人間が存在し、国があるというのだ。その正当性を彼は教授のように講義し始めたが、私にはさっぱりだった。今思えば当然だ。彼と私ではそれこそ天と地ほどの違いがある、たとえ彼が正しいことを言っていたとしても、当時の私には決して理解できるものではなかったのだ。
結局半ば押し切られ様な形で私は彼の船旅に同行した。何もなければウィスキー一杯という条件付きでの話ではあるが。
だが、旅をして驚くには私の方になってしまった。海の向こうには彼の説得通りのものがあったのだ。
そこには確かに人がいた。我々の国と同じく人間が暮らしていた。しかし、数日の調査の結果我々の国のような大規模な組織的体系はできていない、と結論付けた。半分当たっていたいうことでウィスキーの件は残念ながら諦めざるを得なかった。
そんな長かった驚きの旅ももうすぐで終わりだ。私は窓を離れ、壁際にある椅子に座った。そしてその前の机に広げられた二冊のノートを見つめた。
それは彼と私の旅の日記だ。それぞれ旅を始めてからのその時々の考えや思いが綴られている。
彼のノートを開いた。前半は彼にしかわからないであろうメモ書きや、推論などがびっしりと書いていた。まさに学者の手記といった感じだ。しかし後半になると飽きてきたのか文字数はどんどんと減り最後には空白のページが連続している。
その隣で私のノートを開いた。それは一般人の船旅らしく、今日は海がきれいだったやら、カモメに餌をやったやら、ごく平凡な一般的なことしが延々と綴られているだけだ。それでもこの道中を振り返るには十分な内容であった。
「とうとう旅も終わりだね。君のこの日記を付けるのも最後になりそうだね」
彼からの返答はない。帰路の間ずっとそうだ。私は肩をすくめた。自分の発見をいかに世間に公表するか、ということで頭がいっぱいなのかもしれない。彼はああ見えて自分の考えに没頭すると他のことに他のことに手が付かなくなる。しかし、こんな時ぐらい少しは喋ってくれてもいいじゃないか。
私は彼に非難の目を向けつつペンを取った。そしてまず自分のノートの最後のページを捲り、その右下に終わりを告げる三文字――E.N.Dを丁寧に書き記した。彼のノートにも同じことをした。彼はこう見えて物ぐさなところがある。私が書きでもしないと彼にとってのこの旅は永遠に終わらない。永遠にかの新大地、この船内を彷徨い続けることになってしまう。
彼の代わりに終わりを告げる三文字を書き終わり、ノートを閉じると再び荒々しく扉が開けられた。
「到着しましたよ!」
再び若い船員が連絡に来る。気がつけば長い船旅で慣れ親しんだ定期的な揺れもひどく穏やかなものになっていた。
私は彼の右手をとると、共に自分の船室を出た。出口付近では他の船乗りたちがその場で律儀に直立している。どうやら私と彼が降りるのを待ってくれているらしい。彼らにもこの旅の労いをかけつつ私は甲板から港へと降り立った。
迎えてくれる人は誰もいない。定期的に報告書は送っていたものの、誰もいないということは、出発前の私と同じく信じていない人が多いのだろう。ならばこれからはこの旅の成果を認知されるような行動をしていかなくてはならない。
(さあ、忙しくなるぞ)
しかし今だけは素直に帰郷を喜びたかった。あれこれを考えるのは明日の自室の私に任せるとしよう。
「さあ僕らの故郷に着いたよ。どうだい? 三年ぶりの英国の地は?」
私は右手で彼――彼の右手――彼の死体の右手を地面にそっと置いた。
しかし彼は一切の反応を示さなかった。