時計塔の兄弟
カツカツカツ……
階段を駆け上がる子気味の良い音が響く。
カツカツカツ……
小さな靴が動き回る。急ぐように早めるとたり、今度は躊躇うように歩調が遅くなっていた。それでも私は止まることなく足を動かした。
そんな私の不規則な歩調に合わせてカチリ、カチリ、と何かものがかすれあうような規則的な音が聞こえてくる。思わず顔をしかめる。
カツカツ、カチリ、カツカツ、カチリ……
不協和音だ。どちらかの音ーーいや、後になって聞こえてきた規則的な音が消えればいいのに。
やがて片方の音が消える。残念ながら、規則的な音のほうではない。不規則の音のほうだ。
そしてその主であった私ーーヴィアナは屋上にたどり着いた。
そこには一人の男性ががいた。彼は私に気が付くと軽く手を挙げた。思わず合いかけた視線をそっぽに逸らす。
「今日も来たかい。来客なんて君だけだよ。こんな時計塔になんて誰も来ないさ」
男、ルーノアが自嘲気味につぶやく。一方の私は事務的にただ用件だけを述べた。
「手紙を持ってきただけよ」
「今日はいくつ?」
「5通」
「へえ、意外に多いものだねぇ……あ、疲れただろう。珈琲でも淹れようか」
私は丁寧に断りを入れると、手紙を近くのテーブルに置いて踵を返そうとした。しかしその前にルーノアに手を握られた。
「少し休憩しなよ、忙しい仕事もいいけどちょっとは休憩しないと体を壊すよ。わが妹よ」
抵抗を試みようとしても無駄だった。兄ーールーノアの方が圧倒的に強い。ヴィアナは諦めたようにひかれるまま手を引かれ、兄の思惑通り椅子に着席させられてしまった。
この町には時計塔が一つ存在する。
塔の最上階は時計盤の裏になっている。四方のうち二方向が壁、一面は壁が取り払われてそのまま外観が見れる。そして、残った一つは多くの歯車がゆっくりと動いている。一つの大きな歯車がぴったりと時計盤の裏に張り付き、その周りを小さな歯車が取り囲み巨大なそれを動かしている。それらが動くたびに発せられる
質素な机といくつかの椅子がある。そのうちの一つに座っていた。
目の前の壁には無数の歯車が複雑そうに配置され、それらが乱れることなく回っている。その度にカチリ、カチリ、と音がする。
ヴィアナは落ち着かなげに目を左右へと向けている。
この町はとても静かだ。技術発展が一歩遅れたこの町ではこの時計塔は異質な存在だった。古めかしい外観こそ溶け込んではいるが、その中はというと、正反対の技術の塊だ。ヴィアナはどうもこの騒がしい空間がのが苦手だった。
ふいに少しの異音が混じった。注意しなければ聞こえないほどの僅かだった歪みは、あっという間に大きくなりすぐに嫌でも耳に入ってくるようになった。
ヴィアナは手で耳をふさいだ。ぎゅっと固く目も瞑る。まるでその異質なものを拒絶するかのように、強く。
やがて何かを取り外すような音がして、すべての音が止まった。少女が目を開けると
すべての歯車がそこで停止していた。
「もう使い物にならないな……昔からかわらないな、この音はやっぱり嫌いか」
外した歯車を適当に床に置くと、もう片方の手にに二つのカップを乗せたトレイを持って、ルーノアがきた。彼はヴィアナにカップを一つ渡すと、残ったもう一つで自分も珈琲を飲み始めた。
ヴィアナはカップを覗き込んだ。真っ黒だ。兄はコーヒーの中には何もいれない。一方の私は、それは少し苦手だったりする。少しずつ口をつけるながら、ちらちらと落ち着かなげに兄の様子をうかがっていた。一方の彼はそんな妹を知ってか知らずか、ただカップを傾けてコーヒーを楽しんでいる。
ビュウ、と二人の間に風が通り抜けた。決して強いものではなかったが、やけに風切り音が大きく聞こえた。
普通の兄弟ではありえないぎこちない空間。
「兄さんはこんな場所に縛られてていいの?」
ヴィアナはやがて沈黙に耐え切れなくなったかのように、口を開けた。
元々私と兄さんの父親はこの時計塔の管理を任された家だった。だから私と兄さんも幼いころから毎日のように、この時計塔に来て様々なことを教えられていた。時計盤の操作や毎日すること、壊れた時の修理の仕方など数を一々上げるときりがない。
私はそんな日々が嫌だった。この街にそぐわない歯車の音もだが、それ以上になぜこんなことをしなくてはいけないのか、という気持ちが常にあった。
毎日、日が昇る前から起こされ、まだ薄暗い中、瞼を擦りながら父親に時計塔を登らされ、くたくたになるまでずっとそこにいなくてはならなかった。嫌で途中でこっそり逃げ出したことも何度もあった。母親から聞く、普通の町娘のように日が昇ってから起き始め、同年代の女の子と仲良くなって、楽しくおしゃべりしながら過ごす生活を夢見ていた。
しかし、少し前、私たちの両親は突然なくなってしまう。兄はそれまでと変わらぬ生活を望み、妹はかねてからの願いを叶えるために時計塔を去った。
それ以来ヴィアナは兄のことがわからない。町で手紙の配達をするようになって、兄のもとへ訪れることになっても、記憶にある彼と何ら変わらぬ様子で歓迎される。逃げ出した妹を無視するでもなく、叱ったりすることなく。
「私のことを嫌っているならそう言って。もうここには来るなって」
逃げ出した私は彼の好意をどんな顔をして受ければいいのかもわからず、ただ差し出されるがままそれを受け取っていた。
それをどうしていいかわからなかったから。いらない、と切り捨てるほうがよかったのかもしれない。だがそうせずにそれをただ渡されるがままもらい続けていた。
ルーノアはヴィアナの話をすでに飲み干したコーヒーカップを手で弄びながら聞いていたが、話が終わるとそれをテーブルの上に置いた。
「なんかよそよそしくなっていたと思ったら、そんなこと思ってたのか……ただ、俺は別に何とも思っていないよ。ヴィアナの好きなように生きていればそれでいいと思っている。俺も好きにやっているしな」
「でも私は……」
「でも、もどうもない。俺がここに残ったのは親父の家がどうとかそういうのとはまた別だよ」
するとルーノアはおもむろに立ち上がり、町が見える側に行くと、
「俺はここから見える景色が好きなんだ。昔からな」
そして、自分の後ろを指さした。
「確かにここの仕事はつらいところもある。でもそれ以上に俺はここから見える町が好きだったんだ。仕事が嫌でこっそり抜け出している誰かの姿もよく見えたし、それを追いかけている誰かの姿もよく見えた。ここに立っていると、この町のすべてがわかるんだ」
ヴィアナも立ち上がり、ルーノアの隣に並んだ。
確かにそこには町すべてが見渡せた。毎日手紙を届ける家々も、友達もすべてがまるでまるごと小さくなってしまったかのようにそこに存在していた。
(これが、)
ルーノアの見ている町。
私のちっぽけな視点のと違い、広い大きな視点。あまりの差に溜息をついた。これではかなわない。私が大きいと思っていたことも、兄にとってはここから見える建物のようにごくごく小さいことだったのだ。
「まあ、俺は好きに生きてるからさ、お前もあんまり難しいこと考えないで元気にしていけよ。じゃあお前もそろそろ仕事に戻れよな」
そういうと彼は照れくさそうに私の横から離れていった。私はしばらくその景色ーー兄の視点を目に焼き付けるように見ていた。