生物教室とその愉快な仲間達
『亀吉の会』本部は、私達の通う都内某高校の生物教室に設置されている。整然と椅子と長机が並び、実験に使う様々な道具は棚に仕舞われている。不気味なホルマリン漬けも一緒だ。そして朝は何故かじめっと湿り、昼は太陽の光が眩しいのでカーテンを締め切り電灯も性能が悪いので薄暗く、夕方はなんだか良く分からない集団が活動の本拠地にしているという、一般生徒から見れば近寄りがたい教室である。
朝昼晩、生物教室には亀が一匹いる。
彼の生活する最高級の広い水槽は徹底的に磨きぬかれ、中には厳選された石が設置され、傍に置いてある亀用の餌は極上。そして亀吉に触ろうとする生徒を見張る為、監視カメラまで付けられている。
水槽の前には木製の立派なネームプレートが立てられている。そこらの家の表札より余程立派なそれには、『亀吉』という文字が美しい草書体で彫られ、文字の上には金箔が張られている。
夕方、生物教室には人が五人ほどいる。
一人は何かの漫画を面白そうに読み (彼は受験生である) 、一人はスクリーンを使い自分で持ってきた据え置きゲーム機を楽しみ (彼女も受験生である、そして個人によるスクリーンの使用と校内へのゲーム機の持込みは禁止されている) 、一人は人差し指で倒立をするというトレーニングを無表情で行い (彼は人間である) 、一人はそんな彼らに興味を払う事もなく生徒達の成績表を作成している (彼女は教師である) 。
そして私は一人、ぼーっとしている。
『亀吉の会』に入った最初の頃こそ岩戸先輩の天才的なゲームプレイに目を瞠っていたものの、最近は少し慣れてきてしまい、逆に普通の人がゲームをしているのを見ると哀れに思えるようにさえなってきた。
時々対戦しないかと訊かれるが、ゲームに無縁らしい黒野くんはまだしも小森先輩まで全く歯が立たないとなれば、私なんぞが出て行く幕ではない。スキルが違いすぎるのだ。
成績表を付け終わったのか、生物教師兼『亀吉の会』会長、我らが焼津先生は軽くのびをする。
「どうですか、今回は」
暇なので訪ねてみる。
「んー? えっとね、平均点は56点だね」
焼津先生はノートPCの画面を眺めつつ、ぼんやりとした口調で答える。
「低いですね」
「でしょー? でも長谷川さんは32点よ」
ふぅん。
「相変わらず阿呆だな」
ボソッと呟く岩戸先輩を睨むとすぐに顔を逸らす。それでも画面を見ずにコントローラーを素早く動かし、モンスターを薙ぎ倒していく。長く黒い髪を背中まで垂らした後ろ姿に、暫し、少しだけ嫉妬する。まさに美。正面はもっと美。
先生もする事が無くなったのか、岩戸先輩よりはかなり短めの髪をくるくるといじりつつ、私の隣に座ってぼーっとスクリーンを眺めている。教師なのに注意しないんですね、焼津先生。
と、おもむろに黒野くんが人差し指倒立から跳び上がり、空中で一回転半した後つま先から綺麗に着地した。なんだこいつ。
そのままゆっくり亀吉の水槽の前まで歩いて行き、極上亀の餌を取り出して亀吉に与える。ああ、もうそんな時間か。
「……最近、なんもなくて暇だな」
こちらもボソッと呟く小森先輩。受験生なんだから勉強でもしてればいいんじゃないですか?
「……じゃあなんかやる?」
岩戸先輩が軽く提案する。
「やる」
即答する小森先輩。
「黒野くん頼んだぁ」
コントローラーを掴んだまま、餌を仕舞い終わったばかりの黒野くんに声を掛ける。
「分かりました」
特に不満そうな顔をする訳でもなく、寧ろどことなく嬉しそうに返答している。まあ岩戸先輩美人だもんなぁ。
「えっと……ああ、オッケー、よし……」
何か呟く声の後に、彼は亀吉の甲羅に手を乗せる。
「亀吉さま亀吉さま、どうか暇な私達に、何か事件をお与え下さい」
直後、亀吉の甲羅は光り輝き、生物教室と私達を、淡い金色の光で包み込む。例の最高級水槽はもちろん、実験器具の一つ一つ、そしてホルマリン漬けでさえもが神聖な物に見える。小森先輩の手にある漫画も、まるで何かの聖典のように神々しく感じられる。
綺麗な光景だ。
岩戸先輩もゲームの手を止めて、その光景に見蕩れている――と思ったらスクリーンにはミッションクリア後のリザルト画面が表示されている。丁度終わったからちょっと見てるだけか、成程。
頭上から厳かな声が響き渡る。
『よかろう』
突然、金色の光は消えた。黒野くんは水槽から離れ、ご褒美を上げようとしているのか、再び極上亀の餌に手を伸ばしている。終わり方はなんだか呆気ない。
「おーい黒野、今回はどんぐらいチャージされてた?」
「黄色だから……二段階目ですね」
「成程」
納得したように小森先輩は頷く。私はまだ、亀吉のどこを見て色を判断しているのか、そして何段階目まであるのか、そもそも段階って何かとか良く分かっていない。まあ別にどうでもいいよね!
「……まだかな……」
「私はまだだと思うよ。久々にゲームやる?」
彼女は小森先輩に、二つ目のコントローラーを差し出す。
「それもいいな」
二人で何かゲームを始めてしまったのを見て黒野くんは顔を顰めるが、特に何を言う訳でもなく、私と先生のいる長机に一緒に座る。
「あー教師辞めたい」
「時々脈絡もなく投げやりにならないで下さいよ」
「じゃあ辞めたくない」
「それは良かった」
雑談をしている内に下校時間は近づく。
「そういえば小森くんと岩戸さん、今日って十時までずっと課外授業ある日じゃなかったっけ」
思い出したように焼津先生が声を掛ける。
「いいです」「ゲームです」
二人の端的な答えを拡張すると、
「面倒臭いし必要無いので課外授業はなんにも取ってないです」
「ゲームがしたいので課外授業はなんにも取ってないです」
になるだろうと予想される。
「成程、先生良く分かる分かる」
分かっちゃう先生すごい。
「あー負けた」
「お、前より粘ったじゃん」
次々に瞬殺され続ける小森先輩のキャラを見続けるのにも飽き、ああ後五分で活動終わりタイムだなぁなんて考えていると。
ガ……ガララッ……ガラッという、自信無さ気に引き戸を開ける音が発生した。
ゲーム中の二人は特に気にする事もなくゲームを続ける。というか多分気付いてない。教師が来たんだったらどうするつもりなんだろう。というかここにもう既に生物教師いるけど。
「あ、あのー」
ゲームスクリーンを少し驚いた目で見つつも、弱弱しい声でその生徒は言った。
「あのー、ちょっとご相談が……」
小森先輩と岩戸先輩は、まだまだゲームに夢中だった。
結局長さ変わんね まいっか