海の神に捧げられた花
ミレーネ村には、古くから伝わる言い伝えがあった。
百年に一度、海の神に花嫁を捧げなければ、海は荒れ、村は大波に呑まれて滅びるという。
崖と山に囲まれた村の人々の暮らしを支えているのは、海で獲れる魚だった。
村人たちは海を恐れ、敬い、百年ごとの儀式を受け継いできた。
今年は、その儀式が行われる年。
花嫁に選ばれたのは、メリアという娘だった。
彼女に両親はいない。
幼い頃に家族を亡くし、村長の屋敷で使用人として育てられた。
食事の支度、掃除、洗濯、薪割り。
年齢に見合わない仕事を任されても、嫌だとは言えなかった。
役に立たなければ居場所を失うと、何度も言い聞かされてきた。
いつか自分も家族のように扱ってもらえるかもしれない。
メリアはここで、そんな期待を抱けなくなるほど長い時間を過ごしてきた。
村長にとってメリアは、いつまでも都合のよい働き手でしかなかった。
村長はメリアを呼びつけ、淡々と告げた。
「お前が花嫁に選ばれた」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……花嫁ですか」
「ああ。村を救う大切な役目だ。やっとお前もこの村に育てられた恩を返せるな」
村長は、彼女の返事を待たなかった。
メリアに拒否する権利など、最初からないのだ。
その日から、彼女は花嫁として扱われた。
白い衣を着せられ、髪を整えられ、村の者たちから祝福の言葉をかけられた。
誰もが口々に、村のために命を捧げることを称えた。
「海の神も、きっとお喜びになるでしょう」
「これでまた、百年は安泰だ」
「お前は村の恩人だよ」
そのたびに、メリアは何も言わずに微笑んだ。
儀式の日、村人たちは崖の上に集まった。
頭上には厚い雲が広がり、波はいつもより高かった。
村人たちは迷う様子もなく、祈りの言葉を唱えていた。
メリアは海へ目をやった。
どこまでも続く青い水面。
その下に、海の神がいるのだという。
「それでは、花嫁を海へ」
村長の声が響いた。
メリアの腕を、村の男たちがつかんだ。
足がすくんだ。
しかし、周囲を見渡しても、誰も彼女を助けようとはしなかった。
人々の祈りの声に押され、メリアは崖の先へと連れていかれた。
身体が宙に浮く。
目の前の景色がひっくり返り、青い海が迫ってくる。
水面に叩きつけられた衝撃で、息が詰まった。
冷たい水が全身を包む。
白い衣が水を吸って絡みつき、手足は思うように動かなかった。
遠ざかっていく水面の光。
誰かに必要とされたかった。
ただ、それだけだったのに。
伸ばした手は、何もつかめなかった。
やがて、視界が暗くなった。
最後に見えた揺れる光が海面のものだったのか、メリアにはわからなかった。
そして、意識は途切れた。
◇
目を開けると、青い光が揺れていた。
メリアはゆっくりと身体を起こした。
そこは、見知らぬ場所だった。
白い石で造られた広間。
高い天井。
柱に刻まれた古い文様。
壁の隙間から差し込む青い光が、床に揺らめく影を落としている。
魚たちが群れをなして泳ぎ、見たこともない生き物が、光をまとって通り過ぎていく。
「ここは……」
声は、思ったよりもはっきり響いた。
海の底にいるはずなのに、息ができる。
身体も、どこも痛くなかった。
メリアは自分の手を見た。
白い衣は濡れているようにも見えたが、不思議なことに、水を含んだ重さはなかった。
夢だろうか。
そう思って頬をつねろうとしたとき、背後から声がした。
「目が覚めたか」
声に振り返ると、ひとりの青年が立っていた。
銀色を帯びた青い髪。
透き通るような肌。
人間と同じ上半身の下には、青と銀の鱗に覆われた尾が伸びていた。
その姿は恐ろしいというよりも、現実離れした美しさを持っていた。
深い海の色をした瞳には、底の見えない静けさが宿っている。
「あなたは……?」
青年は答えず、どこか疲れたように視線を逸らした。
「……人間は、愚かだな」
その言葉に、メリアは戸惑った。
なぜ、そんなことを言うのだろう。
「海の神様ですか?」
青年は少しだけ眉を寄せた。
「そう呼ばれたこともあったな」
メリアは慌てて頭を下げた。
「私は、ミレーネ村のメリアと申します。助けていただき、ありがとうございます」
「礼を言われるようなことはしていない。お前がここへ流れ着いただけだ」
「ここは……」
メリアは辺りを見回した。
淡い光が差し込む広間。
白い石で造られた柱。
壁の向こうには、どこまでも青い海が広がっている。
「神殿ですか?」
「ああ」
「では、儀式は成功したのですね」
安心した様子のメリアをみて、青年の眉間に皺が寄った。
「何故、喜ぶ」
「村を守るための儀式ですから」
「……守るため、か」
青年は短く答えた。
その表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。
「何をお望みでしょうか」
「人間の娘に望むことなどない」
「そう、なのですか」
それなら、これからどうすればいいのだろう。
村へ戻ったところで、待っているものは何もない。
かといって、望まれてもいない相手のもとに居座るわけにもいかなかった。
メリアが考え込んでいると、青年は小さく息を吐いた。
「……行くところがないのなら、ここにいればいい」
「よろしいのですか?」
「どうせ行くあてもないのだろう」
少し突き放すような言い方だった。
それでも、メリアには十分だった。
「ありがとうございます」
メリアは素直に頷いた。
青年は一度だけ彼女を見てから、尾を揺らした。
「ついてこい」
広間を横切り、隣の部屋へと向かう。
メリアもその後を追った。
ひとつの部屋に入ると寝台があり、壁際には棚が並んでいた。
奥は壁で仕切られておらず、白い柱が幾本も立ち並んでいる。
その向こうには、青い海と色とりどりの珊瑚が広がっていた。
メリアは思わず足を止めた。
海底の岩場には、花びらを幾重にも重ねたような珊瑚が、静かに根を下ろしている。
その合間を、小さな魚たちが縫うように泳いでいた。
海藻が潮の流れにそよぎ、魚の鱗や水中を漂う微かな光が、きらきらと瞬いている。
「……きれい」
ぽつりと零れた言葉に、青年が振り返った。
「海の中は、こんなに美しいのですね」
メリアは柱の向こうを見つめた。
村で暮らしていた頃、海は魚を獲る場所であり、暮らしを支えるものだった。
海をゆっくり眺めるような時間はなかった。
こんなにも静かで美しい世界が広がっているとは知らなかった。
「ここを使え」
青年の声に、メリアは我に返った。
「ありがとうございます。旦那様」
メリアが深く頭を下げると、青年はわずかに顔をしかめた。
「私はお前の主人ではない。旦那様などと呼ぶな」
「申し訳ありません」
「セイランだ」
「はい、セイラン様」
メリアはもう一度、丁寧に頭を下げた。
セイランはその様子をしばらく眺めていたが、やがて興味を失ったように部屋を出ていった。
ひとりになったメリアは、再び柱の向こうへ目を向けた。
色とりどりの魚たちが泳ぎ、光を受けた鱗がきらめく。
その景色をメリアは時間を忘れて見入っていた。
誰かのために働くことばかりで、自分のために時間を使ったことなどなかった。
美しいものを、ただ美しいと思いながら眺めている。
それだけなのに、ずっと空っぽだった心が、少しずつ満たされていくようだった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
気づけば、柱の向こうを泳ぐ魚たちの顔ぶれが変わっていた。
岩陰に身を潜めるものが増え、代わりに、淡い光をまとった小さな生き物たちが姿を見せている。
やがて、海の色が少しずつ明るさを増していった。
朝だ。
そう思ったのは、長年の習慣からだった。
村長の屋敷では、朝になれば仕事を始めなければならなかった。
メリアは立ち上がった。
何かしなければ。
そう思って部屋を出て、最初に目を覚ました広間へと戻る。
白い石の床を見渡し、せめて床でも磨いた方がいいだろうか、と考えていると、
「何をしている」
不意に声がした。
振り返ると、セイランが立っていた。
「おはようございます、セイラン様。何か私にできることはありませんか?」
「ない」
あまりにも即答され、メリアは言葉に詰まった。
「ですが、何もせずにいるのも……」
「ならば、神殿の中を好きに見て回ればいい」
「見て回る、ですか?」
「ああ。私にいちいち尋ねる必要はない」
セイランはそれだけ言うと、神殿の奥へ姿を消した。
しばらく考えた末、メリアもその後を追うように神殿の奥へ向かった。
やがて、古びた祭壇が目に入った。
長い年月を経た石には、静かな気配が満ちていた。誰かが祈りを捧げている様子はない。
メリアは祭壇の前に立つと、そっと両手を組んだ。
「ありがとうございます」
命を救われたこと。
こんなにも美しい景色を見られること。
そのひとつひとつを思い返し、感謝した。
それからは、朝と夜に祭壇へ行くのが、メリアの日課になっていた。
ある朝、ふと思った。
祈りを捧げるなら、何かを供えてはどうだろう。
海の中にも、花のように色鮮やかなものがたくさんあった。
祭壇の前に何かを飾れば、華やかになるかもしれない。
何にしようか考えていると、祭壇の足元に小さな貝殻が落ちているのを見つけた。
それを拾おうと手を伸ばしたが、指先は貝殻をすり抜けた。
「あれ?」
不思議に思い、もう一度手を伸ばす。
今度は指先でそっと包み込むようにしてみたが、やはり触れることはできなかった。
メリアはしばらく自分の手を眺めていたが、やがて小さく頷いた。
自分は人間で、ここは海の神の世界だ。息ができるだけでも奇跡なのだから、触れられない。そういうものなのだろう。
美しいものに触れられなくても、それを美しいと思う心まで失ったわけではない。
メリアは祭壇の前で手を組み、静かに目を閉じた。
「今日もありがとうございます」
誰に届く祈りなのかはわからない。
それでもメリアは、穏やかな時間を過ごせることに感謝した。
◇
そうして日々を過ごすうちに、メリアは少しずつ神殿での暮らしに馴染んでいった。
彼は口数が少なく、愛想もよくなかったが、メリアが知らない海の生き物を見つけると、その名を教えてくれた。
危険な潮の流れがある場所へ近づこうとすれば、短く注意してくれた。
メリアが話しかければ、面倒そうな顔をしながらも、きちんと返事をしてくれた。
それだけのことが、メリアにとっては心地よかった。
ただ、ひとつ不思議に思っていることがあった。
セイランは、いつも神殿の中にいた。
海の話を聞かせてくれることはあっても、神殿の外へ出ていく姿を見たことはない。
柱の向こうにはどこまでも広い海が続いているというのに、彼はいつも、この場所に留まっていた。
「……セイラン様」
「何だ」
メリアは、少し迷ってから口を開いた。
「セイラン様は、神殿の外へは行かないのですか?」
セイランの尾が、ゆるやかに揺れた。
「私はここから出られない」
「出られない……?」
「生贄の命を対価に、この海の底に縛りつけられているのだ」
メリアは目を見開いた。
「生贄の命を、対価……?」
百年に一度、花嫁を海へ捧げる儀式。
村では、海の神に守ってもらうために必要なのだと聞かされていた。
「この儀式は、海の神様に守ってもらうために必要なのだと……」
「私は、人間の暮らしに興味はない」
その横顔には、いつもの静けさとは異なるものがあった。
「それなら、何のために……」
思わずこぼれた言葉に、セイランが目を向けた。
「人間は、私から一枚の鱗を奪った」
セイランは淡々と語った。
「それを奪われ、私は本来の力を失い、人間たちがその力を利用している」
メリアは、言葉を失った。
村の教えとセイランの話は、まるで違っていた。
「力を完全には扱えぬようだが、暮らしを豊かにするには十分らしい」
メリアは故郷の村を思い出した。
ミレーネ村は、昔から漁に恵まれていた。
嵐が近づいても被害は少なく、魚が獲れない年もほとんどなかった。
村人たちは、それを海の神の加護だと信じていた。
村長の屋敷に並ぶ高価な調度品や、身につけていた立派な装飾品も、幼い頃から見慣れたものだった。
けれど、あの豊かさは本当に神の加護によるものだったのだろうか。
メリアは俯いた。
「では、私は……」
言いかけて、メリアは口を閉じた。
自分は、セイランが奪われた鱗を取り戻せないよう、彼を海の底に縛りつけるために利用されていたのだ。
胸の奥が、ひやりと冷たくなった。
自分の意思など、誰も尋ねなかった。
村長に命じられたことをこなし、花嫁に選ばれれば、それを受け入れるしかなかった。
そうすることが当たり前なのだと思っていた。
だからだろうか。
人間たちに力を奪われ、この海の底に縛りつけられているというセイランの話が、他人事とは思えなかった。
彼の気持ちがわかるなどとは言えない。
それでも、自分の意思とは関係なく生き方を決められることが、どれほど理不尽なことなのか、メリアは知っていた。
「……鱗を取り戻せば、セイラン様の力は戻りますか?」
「ああ。本来の力を取り戻せば、ここに縛られることもなくなるだろう」
メリアは顔を上げた。
「私、村へ戻ってみます」
「何をするつもりだ」
「鱗がある場所に心当たりがあるので探して来ます」
セイランが、わずかに眉を寄せた。
「村で一番豊かなのは村長です。村長の屋敷に立ち入りを禁じられた部屋があります」
幼い頃、掃除のために扉に手をかけただけで、村長にひどく叱られたことがある。
理由を尋ねることさえ許されなかった。
あの部屋からは淡い光が漏れ出ていた。
何か手がかりが見つかるかもしれない。
「お前には関係のないことだ」
「ここにいてもいいと、言ってくださったのはセイラン様です」
メリアは静かにセイランを見つめた。
「セイラン様にも自由になってほしいと思うんです」
「……恩を返せなどと、私は言っていない」
「恩返しだけではありません。私がそうしたいと思ったから」
やがて、セイランは尾をひと振りし、低く告げた。
「……好きにしろ」
突き放すような言葉だった。
けれど、続いた声はわずかに低かった。
「鱗が手に入らなくても、ここに戻ってこい」
メリアは目を瞬かせたあと、ふっと微笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
セイランは、そんな彼女をしばらく見つめていた。
「……人間は、愚かだ」
呟いた声には怒りではなく、かすかな悲しみが滲んでいた。
◇
メリアはセイランに一礼すると、神殿を後にした。
柱の向こうへ進み出た、そのときだった。
ふわりと、身体が浮き上がった。
驚いて足元を見下ろす。
泳いでいるわけでもないのに、メリアの身体はゆっくりと海面へ向かって上昇していた。
振り返ると、神殿から青い光が差していた。
揺らめく光は、まるで彼女を見送っているかのように、静かに海の中を照らしている。
神殿が少しずつ遠ざかっていく。
柱の向こうに広がる景色も、そこを泳ぐ魚たちの姿も、次第に淡い光の中へ溶けていった。
不思議と、寂しさはなかった。
まるで、神殿が背中を押してくれているようだった。
メリアは胸元にそっと手を当て、もう一度だけ振り返った。
「行ってきます、セイラン様」
その声は、誰にも届かないまま、青い海へと溶けていった。
やがて、頭上に淡い光が見えた。
メリアの身体は、水の流れに導かれるように、ゆっくりと浮かび上がっていった。
遠くに崖が見える。
波の向こうには、見慣れた海岸が広がっていた。
メリアは静かに岸へ近づき、波打ち際で振り返った。
「待っていてください、セイラン様」
届くはずのない声でそう告げ、彼女は村へ続く道を歩き始めた。
崖沿いの細い道を進み、木々の間を抜ける。
見慣れた景色が目の前に広がっていた。
幼い頃、何度も歩いた道。
薪を拾いに立ち寄った林。
村に近づくと、人々の話し声が風に乗って聞こえてきた。
メリアは思わず足を止めた。
あの人たちは、自分が死んだと思っているだろう。
もし姿を見られたら、どんな顔をするだろうか。
驚くだろうか。
それとも、海から戻ってきた自分を、もう一度生贄にしようとするのだろうか。
考えるだけで、身体が震えた。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
セイランの鱗を取り戻す。
それだけを胸に、メリアは再び歩き出した。
村長の屋敷は、以前と変わらぬ姿で建っていた。
石造りの壁も、正面の扉も、庭先の井戸も。
見慣れた場所なのに、今はそこがひどく冷たく見えた。
メリアは屋敷の様子をうかがいながら、庭の隅へ回り込んだ。
この時間なら、村長は村の集会所にいるはずだ。
屋敷の使用人たちも、昼の支度を終えれば、それぞれの仕事で持ち場を離れる。
どの部屋が普段使われていて、どこに人が立ち入らないのか。
食料を運び込む裏口が、どのくらいの間、開け放たれているのか。
幼い頃から、命じられた仕事をこなすために隅々まで把握してきた場所だった。
その記憶が、今になって役に立つ。
裏手の小さな扉は、予想どおり開いていた。
メリアは周囲を確かめてから、中へ滑り込んだ。
台所にも、居間にも、人の気配はない。
廊下には昼の光が差し込み、磨かれた床に細長い影を落としていた。
かつてなら、ここを歩くたびに誰かの呼び声が飛んできたものだ。
食器を片づけろ、床を拭け、薪を運べ。立ち止まっている暇などなかった。
けれど今は、誰も彼女を呼ばない。
メリアは音を立てないように、屋敷の奥へ進んだ。
奥の部屋の扉は、細く開いていた。あれほど立ち入りを禁じていたのに、鍵もかけていない。
儀式が終わり、気が緩んでいるのだろうか。
メリアは隙間に身体を滑り込ませた。
部屋の中央には、見慣れない透明な覆いを載せた台座があった。
その中に、銀色の鱗が飾られている。
メリアは足を止めた。
透明な覆いは、まるで水を固めて形にしたかのようだった。
向こう側がはっきりと見えるのに、そこに何かがあるようには思えない。
不思議なものだった。
ガラス。
高価な品だと聞いたことはあった。
この屋敷には、そんなものまである。
その富は、セイランから力と自由を奪い、百年ごとに人の命まで犠牲にして築かれたものだった。
メリアは、透明な覆いの中にある銀色の鱗を見つめた。
「……返してもらいます」
メリアは台座へ近づき、縁に指をかけようとしたが、指先は何にも触れなかった。
「……え?」
メリアは戸惑い、もう一度手を伸ばした。
今度は、透明な表面を確かめるように掌を押し当ててみる。
それでも、何の感触もなく、手は覆いをすり抜けた。
メリアは息を呑んだ。
何度試しても、結果は同じだった。
覆いにも、台座にも触れられない。
鱗をつかもうとしても、指先は何の抵抗もなく通り抜けてしまう。
目の前にあるのに。
ほんの少し手を伸ばせば届くはずなのに。
手にすることができなかった。
「どうして……」
震える声が、静かな部屋に落ちた。
メリアは自分の手を見つめた。
いつもと変わらない、自分の手だ。
神殿で貝殻に触れられなかったときも、海の底では不思議なことがあるものだと、自分を納得させていた。
けれど、今は違う。
ここはかつて自分が暮らしていた場所だ。
ひとつの考えが浮かんだが、その先を考えるのが怖かった。
セイランの鱗に目を向ける。
「……ごめんなさい、セイラン様」
メリアが屋敷を出ると、道端では、女たちが魚を干しながら話をしていた。
幼い子どもが走り回り、男たちは網の手入れをしている。
メリアはそのすぐそばを通ったが、誰も彼女を見なかった。
まるでそこにいないかのように。
「……」
メリアは海岸に立ち、波を見つめた。
帰る場所はひとつしかない。
メリアは海へ足を踏み入れた。
◇
神殿に戻ると、セイランは広間にいた。
彼はメリアの姿を見ると、すぐに近づいてきた。
メリアは俯いた。
「……取り戻せませんでした」
セイランは何も言わなかった。
メリアは唇を噛みしめ、続けた。
「鱗は村長の屋敷にありましたが」
言葉が途切れた。
セイランの顔を見ることができなかった。
「触れられませんでした」
メリアは自分の手を見た。
「ここで触れられないのは、人間と海の生き物の違いなのだと思っていたのです」
セイランは黙って聞いていた。
「私は、死んでいるのですね」
広間に静寂が満ちた。
セイランは否定しなかった。
それが答えだった。
メリアは胸の前で両手を握りしめた。
「……やはり、そうでしたか」
声は震えていたが、涙は出なかった。
海へ沈められた時に、自分はもう死んでいたのだ。
「どうして、教えてくださらなかったのですか」
責めるつもりはなかった。
ただ、知りたかった。
セイランはしばらく黙っていた。
「お前が自分で気づくまで、待っていたのだ」
「セイラン様……」
「真実を教えよう」
メリアが頷くと、セイランは静かに続けた。
「お前の身体はあの日、海で失われた」
メリアは目を閉じた。
あのとき、海の中で感じた苦しさ。
遠ざかっていく光。
伸ばした手が、何もつかめなかったこと。
すべてが、ひとつにつながった。
「では、私は……」
「今ここにあるのは、お前の魂だけだ」
セイランの声は、ひどく静かだった。
「お前の前にも、生贄として捧げられた娘がいた。彼女もまた、魂だけでここに留まっていた」
メリアは、ためらいがちに尋ねた。
「その方は……」
「村人たちを憎んでいた。自分を生贄にした者たちを。そして私のことも。」
メリアは目を見開いた。
「セイラン様のことも、ですか?」
「私がここにいるから、自分は生贄にされた。そう考えていたのかもしれないな」
「今どちらに……?」
「お前が来た日に、静かに消えていった」
メリアは息を呑んだ。
「自分と同じように生贄にされたお前を見て、何かを悟ったのかもしれない」
セイランはわずかに目を伏せた。
「最後に何を思ったのか、私にはわからない。ただ、彼女はもう、憎しみに縛られてはいなかった」
メリアは俯いた。
その人も誰にも助けてもらえず命を奪われた。そして長い間、憎しみを抱えて過ごしていた。
「どうして……」
メリアの声が掠れた。
「どうして、私たちが死ななければならなかったのでしょう」
メリアは顔を覆った。
「……ごめんなさい。セイラン様も力を奪われて、つらいのに」
「いい」
セイランは短く言った。
「お前が何を感じようと、それを責めるつもりはない」
セイランの言葉に、胸が締めつけられた。
誰かに、そんなふうに言ってもらったことはなかった。
「……ありがとうございます」
メリアは小さく頭を下げた。
これから先、どう過ごせばいいのだろう。
村人たちを憎み続けることもできる。
いつか彼らが報いを受けることを願いながら、怒りを抱えて過ごすこともできる。
メリアはゆっくりと息を吐いた。
「……私は残された時間を、憎しみだけで過ごしたくありません」
セイランは黙って彼女を見た。
「村の人たちを許したわけではありません」
メリアは正直に告げた。
「でも、あの人たちのことばかり考えていたら、私の時間はずっと、あの人たちのものになってしまいます」
彼女は神殿の外を見た。
「私、もっと海を見ていたいです。セイラン様のお話も聞きたいです。ここで過ごせることに感謝をしたい」
メリアは少しだけ笑った。
「せっかく、こんなに美しい場所にいられるのですから」
セイランは、しばらく彼女を見つめていた。
「……そうか」
「お役に立てませんが、ここにいてもいいですか?」
「お前がここにいることを、私は拒まない。好きなように過ごせばいい」
メリアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、セイラン様」
今度の礼には、心からの安堵が込められていた。
そのとき、神殿の奥から淡い光が溢れ出した。
メリアははっとして振り向いた。
「セイラン様、あの光は……?」
セイランは神殿の奥を見つめていた。
その表情が、いつもと違っていた。
「神殿が、お前を呼んでいる」
「私を……?」
「行くぞ」
セイランに導かれ、メリアは祭壇へ向かった。
幾重にも刻まれた文様が青白く輝き、床に描かれた円形の文様がゆっくりと光を放っている。
メリアが祭壇の前に立つと、光が彼女を包み込んだ。
温かかった。
海の底にいるのに、春の日差しに包まれているような、穏やかな温もりだった。
やがて光が収まり、メリアは自分の手を見た。
何も変わっていない。
けれど、足元に落ちていた小さな貝殻が目に留まり、メリアはそっと手を伸ばした。
指先が貝殻に触れた。
確かな感触があった。
指先に伝わる硬く、滑らかな表面。
メリアは息を呑んだ。
「……触れられる」
震える手で、貝殻を拾い上げた。
ここへ来て初めて、自分の手で物を持つことができた。
「セイラン様……!」
振り返ると、セイランが静かに彼女を見ていた。
「神殿が、お前を巫女として認めたのだ」
「巫女……?」
「お前は毎日、ここで祈りを捧げていた。恨みも、見返りもなく」
「……私で、よろしいのでしょうか」
メリアの声が震えた。
「セイラン様の力を取り戻すこともできなかったのに……」
セイランは、メリアの手にある貝殻へ目を向けた。
「誰でもなれるものではない。お前だから、神殿は応えたのだ」
メリアは貝殻を握りしめた。
初めて、誰にも命じられずに選んだことを、認めてもらえた。
「ありがとうございます、セイラン様」
メリアは深く頭を下げた。
「決めたのは神殿だ」
「それでも、私は嬉しいのです」
「……そうか」
セイランの声は穏やかだった。
◇
神殿の巫女として認められたメリアの日常には、変化があった。
神殿の中でなら、物に触れることができるようになったのだ。
しかし、神殿の外へ出ると、再び何にも触れられない。
神殿が、その内側に限って、世界に触れることを許してくれただけだ。
祈りを捧げ終えたメリアは、神殿の外を見た。
海は今日も青く広がっていた。
いつか、自分の魂がこの海を離れる日が来るだろう。
それまでに、セイランの力が戻る日は来るのだろうか。
メリアにはわからない。
彼女は祭壇に並べられた貝殻に目を落とした。
貝殻は青い光を受けて、淡く輝いていた。
海の底で、メリアは静かに微笑んだ。




