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海の神に捧げられた花

作者: 蒼乃つむぎ
掲載日:2026/10/24

ミレーネ村には、古くから伝わる言い伝えがあった。

百年に一度、海の神に花嫁を捧げなければ、海は荒れ、村は大波に呑まれて滅びるという。

崖と山に囲まれた村の人々の暮らしを支えているのは、海で獲れる魚だった。

村人たちは海を恐れ、敬い、百年ごとの儀式を受け継いできた。


今年は、その儀式が行われる年。

花嫁に選ばれたのは、メリアという娘だった。

彼女に両親はいない。

幼い頃に家族を亡くし、村長の屋敷で使用人として育てられた。

食事の支度、掃除、洗濯、薪割り。

年齢に見合わない仕事を任されても、嫌だとは言えなかった。

役に立たなければ居場所を失うと、何度も言い聞かされてきた。

いつか自分も家族のように扱ってもらえるかもしれない。

メリアはここで、そんな期待を抱けなくなるほど長い時間を過ごしてきた。


村長にとってメリアは、いつまでも都合のよい働き手でしかなかった。

村長はメリアを呼びつけ、淡々と告げた。

「お前が花嫁に選ばれた」

一瞬、何を言われたのかわからなかった。

「……花嫁ですか」

「ああ。村を救う大切な役目だ。やっとお前もこの村に育てられた恩を返せるな」

村長は、彼女の返事を待たなかった。

メリアに拒否する権利など、最初からないのだ。

その日から、彼女は花嫁として扱われた。

白い衣を着せられ、髪を整えられ、村の者たちから祝福の言葉をかけられた。

誰もが口々に、村のために命を捧げることを称えた。

「海の神も、きっとお喜びになるでしょう」

「これでまた、百年は安泰だ」

「お前は村の恩人だよ」

そのたびに、メリアは何も言わずに微笑んだ。


儀式の日、村人たちは崖の上に集まった。

頭上には厚い雲が広がり、波はいつもより高かった。

村人たちは迷う様子もなく、祈りの言葉を唱えていた。

メリアは海へ目をやった。

どこまでも続く青い水面。

その下に、海の神がいるのだという。

「それでは、花嫁を海へ」

村長の声が響いた。

メリアの腕を、村の男たちがつかんだ。

足がすくんだ。

しかし、周囲を見渡しても、誰も彼女を助けようとはしなかった。

人々の祈りの声に押され、メリアは崖の先へと連れていかれた。

身体が宙に浮く。

目の前の景色がひっくり返り、青い海が迫ってくる。

水面に叩きつけられた衝撃で、息が詰まった。

冷たい水が全身を包む。

白い衣が水を吸って絡みつき、手足は思うように動かなかった。

遠ざかっていく水面の光。


誰かに必要とされたかった。

ただ、それだけだったのに。

伸ばした手は、何もつかめなかった。

やがて、視界が暗くなった。

最後に見えた揺れる光が海面のものだったのか、メリアにはわからなかった。

そして、意識は途切れた。


◇


目を開けると、青い光が揺れていた。

メリアはゆっくりと身体を起こした。

そこは、見知らぬ場所だった。

白い石で造られた広間。

高い天井。

柱に刻まれた古い文様。

壁の隙間から差し込む青い光が、床に揺らめく影を落としている。

魚たちが群れをなして泳ぎ、見たこともない生き物が、光をまとって通り過ぎていく。

「ここは……」

声は、思ったよりもはっきり響いた。

海の底にいるはずなのに、息ができる。

身体も、どこも痛くなかった。

メリアは自分の手を見た。

白い衣は濡れているようにも見えたが、不思議なことに、水を含んだ重さはなかった。

夢だろうか。

そう思って頬をつねろうとしたとき、背後から声がした。

「目が覚めたか」

声に振り返ると、ひとりの青年が立っていた。

銀色を帯びた青い髪。

透き通るような肌。

人間と同じ上半身の下には、青と銀の鱗に覆われた尾が伸びていた。

その姿は恐ろしいというよりも、現実離れした美しさを持っていた。

深い海の色をした瞳には、底の見えない静けさが宿っている。

「あなたは……?」

青年は答えず、どこか疲れたように視線を逸らした。

「……人間は、愚かだな」

その言葉に、メリアは戸惑った。

なぜ、そんなことを言うのだろう。

「海の神様ですか?」

青年は少しだけ眉を寄せた。

「そう呼ばれたこともあったな」

メリアは慌てて頭を下げた。

「私は、ミレーネ村のメリアと申します。助けていただき、ありがとうございます」

「礼を言われるようなことはしていない。お前がここへ流れ着いただけだ」

「ここは……」

メリアは辺りを見回した。

淡い光が差し込む広間。

白い石で造られた柱。

壁の向こうには、どこまでも青い海が広がっている。

「神殿ですか?」

「ああ」

「では、儀式は成功したのですね」

安心した様子のメリアをみて、青年の眉間に皺が寄った。

「何故、喜ぶ」

「村を守るための儀式ですから」

「……守るため、か」

青年は短く答えた。

その表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。

「何をお望みでしょうか」

「人間の娘に望むことなどない」

「そう、なのですか」

それなら、これからどうすればいいのだろう。

村へ戻ったところで、待っているものは何もない。

かといって、望まれてもいない相手のもとに居座るわけにもいかなかった。

メリアが考え込んでいると、青年は小さく息を吐いた。

「……行くところがないのなら、ここにいればいい」

「よろしいのですか?」

「どうせ行くあてもないのだろう」

少し突き放すような言い方だった。

それでも、メリアには十分だった。

「ありがとうございます」

メリアは素直に頷いた。

青年は一度だけ彼女を見てから、尾を揺らした。

「ついてこい」

広間を横切り、隣の部屋へと向かう。

メリアもその後を追った。


ひとつの部屋に入ると寝台があり、壁際には棚が並んでいた。

奥は壁で仕切られておらず、白い柱が幾本も立ち並んでいる。

その向こうには、青い海と色とりどりの珊瑚が広がっていた。

メリアは思わず足を止めた。

海底の岩場には、花びらを幾重にも重ねたような珊瑚が、静かに根を下ろしている。

その合間を、小さな魚たちが縫うように泳いでいた。

海藻が潮の流れにそよぎ、魚の鱗や水中を漂う微かな光が、きらきらと瞬いている。

「……きれい」

ぽつりと零れた言葉に、青年が振り返った。

「海の中は、こんなに美しいのですね」

メリアは柱の向こうを見つめた。

村で暮らしていた頃、海は魚を獲る場所であり、暮らしを支えるものだった。

海をゆっくり眺めるような時間はなかった。

こんなにも静かで美しい世界が広がっているとは知らなかった。


「ここを使え」

青年の声に、メリアは我に返った。

「ありがとうございます。旦那様」

メリアが深く頭を下げると、青年はわずかに顔をしかめた。

「私はお前の主人ではない。旦那様などと呼ぶな」

「申し訳ありません」

「セイランだ」

「はい、セイラン様」

メリアはもう一度、丁寧に頭を下げた。

セイランはその様子をしばらく眺めていたが、やがて興味を失ったように部屋を出ていった。

ひとりになったメリアは、再び柱の向こうへ目を向けた。

色とりどりの魚たちが泳ぎ、光を受けた鱗がきらめく。

その景色をメリアは時間を忘れて見入っていた。

誰かのために働くことばかりで、自分のために時間を使ったことなどなかった。

美しいものを、ただ美しいと思いながら眺めている。

それだけなのに、ずっと空っぽだった心が、少しずつ満たされていくようだった。


どれくらいの時間が経ったのだろう。

気づけば、柱の向こうを泳ぐ魚たちの顔ぶれが変わっていた。

岩陰に身を潜めるものが増え、代わりに、淡い光をまとった小さな生き物たちが姿を見せている。

やがて、海の色が少しずつ明るさを増していった。

朝だ。

そう思ったのは、長年の習慣からだった。

村長の屋敷では、朝になれば仕事を始めなければならなかった。

メリアは立ち上がった。

何かしなければ。

そう思って部屋を出て、最初に目を覚ました広間へと戻る。

白い石の床を見渡し、せめて床でも磨いた方がいいだろうか、と考えていると、

「何をしている」

不意に声がした。

振り返ると、セイランが立っていた。

「おはようございます、セイラン様。何か私にできることはありませんか?」

「ない」

あまりにも即答され、メリアは言葉に詰まった。

「ですが、何もせずにいるのも……」

「ならば、神殿の中を好きに見て回ればいい」

「見て回る、ですか?」

「ああ。私にいちいち尋ねる必要はない」

セイランはそれだけ言うと、神殿の奥へ姿を消した。

しばらく考えた末、メリアもその後を追うように神殿の奥へ向かった。

やがて、古びた祭壇が目に入った。

長い年月を経た石には、静かな気配が満ちていた。誰かが祈りを捧げている様子はない。

メリアは祭壇の前に立つと、そっと両手を組んだ。

「ありがとうございます」

命を救われたこと。

こんなにも美しい景色を見られること。

そのひとつひとつを思い返し、感謝した。


それからは、朝と夜に祭壇へ行くのが、メリアの日課になっていた。

ある朝、ふと思った。

祈りを捧げるなら、何かを供えてはどうだろう。

海の中にも、花のように色鮮やかなものがたくさんあった。

祭壇の前に何かを飾れば、華やかになるかもしれない。

何にしようか考えていると、祭壇の足元に小さな貝殻が落ちているのを見つけた。

それを拾おうと手を伸ばしたが、指先は貝殻をすり抜けた。

「あれ?」

不思議に思い、もう一度手を伸ばす。

今度は指先でそっと包み込むようにしてみたが、やはり触れることはできなかった。

メリアはしばらく自分の手を眺めていたが、やがて小さく頷いた。

自分は人間で、ここは海の神の世界だ。息ができるだけでも奇跡なのだから、触れられない。そういうものなのだろう。

美しいものに触れられなくても、それを美しいと思う心まで失ったわけではない。

メリアは祭壇の前で手を組み、静かに目を閉じた。

「今日もありがとうございます」

誰に届く祈りなのかはわからない。

それでもメリアは、穏やかな時間を過ごせることに感謝した。


◇


そうして日々を過ごすうちに、メリアは少しずつ神殿での暮らしに馴染んでいった。

彼は口数が少なく、愛想もよくなかったが、メリアが知らない海の生き物を見つけると、その名を教えてくれた。

危険な潮の流れがある場所へ近づこうとすれば、短く注意してくれた。

メリアが話しかければ、面倒そうな顔をしながらも、きちんと返事をしてくれた。

それだけのことが、メリアにとっては心地よかった。

ただ、ひとつ不思議に思っていることがあった。

セイランは、いつも神殿の中にいた。

海の話を聞かせてくれることはあっても、神殿の外へ出ていく姿を見たことはない。

柱の向こうにはどこまでも広い海が続いているというのに、彼はいつも、この場所に留まっていた。

「……セイラン様」

「何だ」

メリアは、少し迷ってから口を開いた。

「セイラン様は、神殿の外へは行かないのですか?」

セイランの尾が、ゆるやかに揺れた。

「私はここから出られない」

「出られない……?」

「生贄の命を対価に、この海の底に縛りつけられているのだ」

メリアは目を見開いた。

「生贄の命を、対価……?」

百年に一度、花嫁を海へ捧げる儀式。

村では、海の神に守ってもらうために必要なのだと聞かされていた。

「この儀式は、海の神様に守ってもらうために必要なのだと……」

「私は、人間の暮らしに興味はない」

その横顔には、いつもの静けさとは異なるものがあった。

「それなら、何のために……」

思わずこぼれた言葉に、セイランが目を向けた。

「人間は、私から一枚の鱗を奪った」

セイランは淡々と語った。

「それを奪われ、私は本来の力を失い、人間たちがその力を利用している」

メリアは、言葉を失った。

村の教えとセイランの話は、まるで違っていた。

「力を完全には扱えぬようだが、暮らしを豊かにするには十分らしい」

メリアは故郷の村を思い出した。

ミレーネ村は、昔から漁に恵まれていた。

嵐が近づいても被害は少なく、魚が獲れない年もほとんどなかった。

村人たちは、それを海の神の加護だと信じていた。

村長の屋敷に並ぶ高価な調度品や、身につけていた立派な装飾品も、幼い頃から見慣れたものだった。

けれど、あの豊かさは本当に神の加護によるものだったのだろうか。

メリアは俯いた。

「では、私は……」

言いかけて、メリアは口を閉じた。

自分は、セイランが奪われた鱗を取り戻せないよう、彼を海の底に縛りつけるために利用されていたのだ。

胸の奥が、ひやりと冷たくなった。

自分の意思など、誰も尋ねなかった。

村長に命じられたことをこなし、花嫁に選ばれれば、それを受け入れるしかなかった。

そうすることが当たり前なのだと思っていた。

だからだろうか。

人間たちに力を奪われ、この海の底に縛りつけられているというセイランの話が、他人事とは思えなかった。

彼の気持ちがわかるなどとは言えない。

それでも、自分の意思とは関係なく生き方を決められることが、どれほど理不尽なことなのか、メリアは知っていた。


「……鱗を取り戻せば、セイラン様の力は戻りますか?」

「ああ。本来の力を取り戻せば、ここに縛られることもなくなるだろう」

メリアは顔を上げた。

「私、村へ戻ってみます」

「何をするつもりだ」

「鱗がある場所に心当たりがあるので探して来ます」

セイランが、わずかに眉を寄せた。

「村で一番豊かなのは村長です。村長の屋敷に立ち入りを禁じられた部屋があります」

幼い頃、掃除のために扉に手をかけただけで、村長にひどく叱られたことがある。

理由を尋ねることさえ許されなかった。

あの部屋からは淡い光が漏れ出ていた。

何か手がかりが見つかるかもしれない。

「お前には関係のないことだ」

「ここにいてもいいと、言ってくださったのはセイラン様です」

メリアは静かにセイランを見つめた。

「セイラン様にも自由になってほしいと思うんです」

「……恩を返せなどと、私は言っていない」

「恩返しだけではありません。私がそうしたいと思ったから」

やがて、セイランは尾をひと振りし、低く告げた。

「……好きにしろ」

突き放すような言葉だった。

けれど、続いた声はわずかに低かった。

「鱗が手に入らなくても、ここに戻ってこい」

メリアは目を瞬かせたあと、ふっと微笑んだ。

「はい。ありがとうございます」

セイランは、そんな彼女をしばらく見つめていた。

「……人間は、愚かだ」

呟いた声には怒りではなく、かすかな悲しみが滲んでいた。


◇


メリアはセイランに一礼すると、神殿を後にした。

柱の向こうへ進み出た、そのときだった。

ふわりと、身体が浮き上がった。

驚いて足元を見下ろす。

泳いでいるわけでもないのに、メリアの身体はゆっくりと海面へ向かって上昇していた。

振り返ると、神殿から青い光が差していた。

揺らめく光は、まるで彼女を見送っているかのように、静かに海の中を照らしている。

神殿が少しずつ遠ざかっていく。

柱の向こうに広がる景色も、そこを泳ぐ魚たちの姿も、次第に淡い光の中へ溶けていった。

不思議と、寂しさはなかった。

まるで、神殿が背中を押してくれているようだった。

メリアは胸元にそっと手を当て、もう一度だけ振り返った。

「行ってきます、セイラン様」

その声は、誰にも届かないまま、青い海へと溶けていった。


やがて、頭上に淡い光が見えた。

メリアの身体は、水の流れに導かれるように、ゆっくりと浮かび上がっていった。

遠くに崖が見える。

波の向こうには、見慣れた海岸が広がっていた。

メリアは静かに岸へ近づき、波打ち際で振り返った。

「待っていてください、セイラン様」

届くはずのない声でそう告げ、彼女は村へ続く道を歩き始めた。

崖沿いの細い道を進み、木々の間を抜ける。

見慣れた景色が目の前に広がっていた。

幼い頃、何度も歩いた道。

薪を拾いに立ち寄った林。

村に近づくと、人々の話し声が風に乗って聞こえてきた。

メリアは思わず足を止めた。

あの人たちは、自分が死んだと思っているだろう。

もし姿を見られたら、どんな顔をするだろうか。

驚くだろうか。

それとも、海から戻ってきた自分を、もう一度生贄にしようとするのだろうか。

考えるだけで、身体が震えた。

それでも、足を止めるわけにはいかなかった。

セイランの鱗を取り戻す。

それだけを胸に、メリアは再び歩き出した。


村長の屋敷は、以前と変わらぬ姿で建っていた。

石造りの壁も、正面の扉も、庭先の井戸も。

見慣れた場所なのに、今はそこがひどく冷たく見えた。

メリアは屋敷の様子をうかがいながら、庭の隅へ回り込んだ。

この時間なら、村長は村の集会所にいるはずだ。

屋敷の使用人たちも、昼の支度を終えれば、それぞれの仕事で持ち場を離れる。

どの部屋が普段使われていて、どこに人が立ち入らないのか。

食料を運び込む裏口が、どのくらいの間、開け放たれているのか。

幼い頃から、命じられた仕事をこなすために隅々まで把握してきた場所だった。

その記憶が、今になって役に立つ。


裏手の小さな扉は、予想どおり開いていた。

メリアは周囲を確かめてから、中へ滑り込んだ。

台所にも、居間にも、人の気配はない。

廊下には昼の光が差し込み、磨かれた床に細長い影を落としていた。

かつてなら、ここを歩くたびに誰かの呼び声が飛んできたものだ。

食器を片づけろ、床を拭け、薪を運べ。立ち止まっている暇などなかった。

けれど今は、誰も彼女を呼ばない。

メリアは音を立てないように、屋敷の奥へ進んだ。

奥の部屋の扉は、細く開いていた。あれほど立ち入りを禁じていたのに、鍵もかけていない。

儀式が終わり、気が緩んでいるのだろうか。

メリアは隙間に身体を滑り込ませた。

部屋の中央には、見慣れない透明な覆いを載せた台座があった。

その中に、銀色の鱗が飾られている。

メリアは足を止めた。

透明な覆いは、まるで水を固めて形にしたかのようだった。

向こう側がはっきりと見えるのに、そこに何かがあるようには思えない。

不思議なものだった。

ガラス。

高価な品だと聞いたことはあった。

この屋敷には、そんなものまである。

その富は、セイランから力と自由を奪い、百年ごとに人の命まで犠牲にして築かれたものだった。

メリアは、透明な覆いの中にある銀色の鱗を見つめた。

「……返してもらいます」

メリアは台座へ近づき、縁に指をかけようとしたが、指先は何にも触れなかった。

「……え?」

メリアは戸惑い、もう一度手を伸ばした。

今度は、透明な表面を確かめるように掌を押し当ててみる。

それでも、何の感触もなく、手は覆いをすり抜けた。

メリアは息を呑んだ。

何度試しても、結果は同じだった。

覆いにも、台座にも触れられない。

鱗をつかもうとしても、指先は何の抵抗もなく通り抜けてしまう。

目の前にあるのに。

ほんの少し手を伸ばせば届くはずなのに。

手にすることができなかった。

「どうして……」

震える声が、静かな部屋に落ちた。

メリアは自分の手を見つめた。

いつもと変わらない、自分の手だ。

神殿で貝殻に触れられなかったときも、海の底では不思議なことがあるものだと、自分を納得させていた。

けれど、今は違う。

ここはかつて自分が暮らしていた場所だ。

ひとつの考えが浮かんだが、その先を考えるのが怖かった。

セイランの鱗に目を向ける。

「……ごめんなさい、セイラン様」


メリアが屋敷を出ると、道端では、女たちが魚を干しながら話をしていた。

幼い子どもが走り回り、男たちは網の手入れをしている。

メリアはそのすぐそばを通ったが、誰も彼女を見なかった。

まるでそこにいないかのように。

「……」

メリアは海岸に立ち、波を見つめた。

帰る場所はひとつしかない。

メリアは海へ足を踏み入れた。


◇


神殿に戻ると、セイランは広間にいた。

彼はメリアの姿を見ると、すぐに近づいてきた。

メリアは俯いた。

「……取り戻せませんでした」

セイランは何も言わなかった。

メリアは唇を噛みしめ、続けた。

「鱗は村長の屋敷にありましたが」

言葉が途切れた。

セイランの顔を見ることができなかった。

「触れられませんでした」

メリアは自分の手を見た。

「ここで触れられないのは、人間と海の生き物の違いなのだと思っていたのです」

セイランは黙って聞いていた。

「私は、死んでいるのですね」

広間に静寂が満ちた。

セイランは否定しなかった。

それが答えだった。

メリアは胸の前で両手を握りしめた。

「……やはり、そうでしたか」

声は震えていたが、涙は出なかった。

海へ沈められた時に、自分はもう死んでいたのだ。

「どうして、教えてくださらなかったのですか」

責めるつもりはなかった。

ただ、知りたかった。

セイランはしばらく黙っていた。

「お前が自分で気づくまで、待っていたのだ」

「セイラン様……」

「真実を教えよう」

メリアが頷くと、セイランは静かに続けた。

「お前の身体はあの日、海で失われた」

メリアは目を閉じた。

あのとき、海の中で感じた苦しさ。

遠ざかっていく光。

伸ばした手が、何もつかめなかったこと。

すべてが、ひとつにつながった。

「では、私は……」

「今ここにあるのは、お前の魂だけだ」

セイランの声は、ひどく静かだった。

「お前の前にも、生贄として捧げられた娘がいた。彼女もまた、魂だけでここに留まっていた」

メリアは、ためらいがちに尋ねた。

「その方は……」

「村人たちを憎んでいた。自分を生贄にした者たちを。そして私のことも。」

メリアは目を見開いた。

「セイラン様のことも、ですか?」

「私がここにいるから、自分は生贄にされた。そう考えていたのかもしれないな」

「今どちらに……?」

「お前が来た日に、静かに消えていった」

メリアは息を呑んだ。

「自分と同じように生贄にされたお前を見て、何かを悟ったのかもしれない」

セイランはわずかに目を伏せた。

「最後に何を思ったのか、私にはわからない。ただ、彼女はもう、憎しみに縛られてはいなかった」

メリアは俯いた。

その人も誰にも助けてもらえず命を奪われた。そして長い間、憎しみを抱えて過ごしていた。

「どうして……」

メリアの声が掠れた。

「どうして、私たちが死ななければならなかったのでしょう」

メリアは顔を覆った。

「……ごめんなさい。セイラン様も力を奪われて、つらいのに」

「いい」

セイランは短く言った。

「お前が何を感じようと、それを責めるつもりはない」

セイランの言葉に、胸が締めつけられた。

誰かに、そんなふうに言ってもらったことはなかった。

「……ありがとうございます」

メリアは小さく頭を下げた。

これから先、どう過ごせばいいのだろう。

村人たちを憎み続けることもできる。

いつか彼らが報いを受けることを願いながら、怒りを抱えて過ごすこともできる。

メリアはゆっくりと息を吐いた。


「……私は残された時間を、憎しみだけで過ごしたくありません」

セイランは黙って彼女を見た。

「村の人たちを許したわけではありません」

メリアは正直に告げた。

「でも、あの人たちのことばかり考えていたら、私の時間はずっと、あの人たちのものになってしまいます」

彼女は神殿の外を見た。

「私、もっと海を見ていたいです。セイラン様のお話も聞きたいです。ここで過ごせることに感謝をしたい」

メリアは少しだけ笑った。

「せっかく、こんなに美しい場所にいられるのですから」

セイランは、しばらく彼女を見つめていた。

「……そうか」

「お役に立てませんが、ここにいてもいいですか?」

「お前がここにいることを、私は拒まない。好きなように過ごせばいい」

メリアは深く頭を下げた。

「ありがとうございます、セイラン様」

今度の礼には、心からの安堵が込められていた。

そのとき、神殿の奥から淡い光が溢れ出した。

メリアははっとして振り向いた。

「セイラン様、あの光は……?」

セイランは神殿の奥を見つめていた。

その表情が、いつもと違っていた。

「神殿が、お前を呼んでいる」

「私を……?」

「行くぞ」

セイランに導かれ、メリアは祭壇へ向かった。

幾重にも刻まれた文様が青白く輝き、床に描かれた円形の文様がゆっくりと光を放っている。

メリアが祭壇の前に立つと、光が彼女を包み込んだ。

温かかった。

海の底にいるのに、春の日差しに包まれているような、穏やかな温もりだった。

やがて光が収まり、メリアは自分の手を見た。

何も変わっていない。

けれど、足元に落ちていた小さな貝殻が目に留まり、メリアはそっと手を伸ばした。

指先が貝殻に触れた。

確かな感触があった。

指先に伝わる硬く、滑らかな表面。

メリアは息を呑んだ。

「……触れられる」

震える手で、貝殻を拾い上げた。

ここへ来て初めて、自分の手で物を持つことができた。

「セイラン様……!」

振り返ると、セイランが静かに彼女を見ていた。

「神殿が、お前を巫女として認めたのだ」

「巫女……?」

「お前は毎日、ここで祈りを捧げていた。恨みも、見返りもなく」

「……私で、よろしいのでしょうか」

メリアの声が震えた。

「セイラン様の力を取り戻すこともできなかったのに……」

セイランは、メリアの手にある貝殻へ目を向けた。

「誰でもなれるものではない。お前だから、神殿は応えたのだ」

メリアは貝殻を握りしめた。

初めて、誰にも命じられずに選んだことを、認めてもらえた。

「ありがとうございます、セイラン様」

メリアは深く頭を下げた。

「決めたのは神殿だ」

「それでも、私は嬉しいのです」

「……そうか」

セイランの声は穏やかだった。


◇


神殿の巫女として認められたメリアの日常には、変化があった。

神殿の中でなら、物に触れることができるようになったのだ。

しかし、神殿の外へ出ると、再び何にも触れられない。

神殿が、その内側に限って、世界に触れることを許してくれただけだ。


祈りを捧げ終えたメリアは、神殿の外を見た。

海は今日も青く広がっていた。

いつか、自分の魂がこの海を離れる日が来るだろう。

それまでに、セイランの力が戻る日は来るのだろうか。

メリアにはわからない。

彼女は祭壇に並べられた貝殻に目を落とした。

貝殻は青い光を受けて、淡く輝いていた。

海の底で、メリアは静かに微笑んだ。

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