何もない部屋
これはあくまでも物語です。
もう一度いいます。これはあくまでも"物語"です。
静かにドアをノックする。
「失礼いたします。……はじめまして。カウンセラーとして、今日あなたとお話しするために伺いました。学校からは『話を聞いてきてほしい』とだけ頼まれていて、あなたの名前も、これまでどんな毎日を過ごしてきたのかも、私は何も聞いていません。話したくないことは無理に言わなくて大丈夫です。あなたのペースで、少しだけ声を聴かせてくれませんか」
少年は伏せ目がちに言った。
「……そうですか。何もない部屋ですがどうぞ」
拒絶の声ではなかった。ただ、何も期待していない人の声だった。
机と椅子とテレビしかない部屋だった。勧められた椅子に腰を下ろすと、少年が小さく笑う。
生活の匂いがしない。壁にも床にも、誰かが暮らした跡がなかった。
「少し不気味ですよね」
「いいえ。余計なものがなくて、静かに過ごせそうな部屋だと思いました」
「ではまず自己紹介を。名前は盈。名字はまぁいいでしょう。高校一年生です。学校は、おわかりですよね」
「盈さん、とお呼びしても? 教えてくれてありがとうございます」
「ええ。ではまず最初に。これは、兄がちょうど四週間前に死んだのが始まりでした」
私は一瞬だけ視線を落とし、それからまっすぐ盈の目を見た。
「……お兄様が。話してくれてありがとうございます」
「ええ。気持ちよかったですよ。本当に」
私は表情を変えず、ただ頷いた。
引きつりそうになる頬を、意識して動かさなかった。ここで目をそらせば、この子は二度と本当のことを話さない。そんな気がした。
「それが最初に出てきた言葉なのですね。そのまま聞かせてください」
「へえ、お姉さんは肝が据わってますね。大体の人はここで顔をひきつらせるのに」
「肝が据わっているわけではありません。感情は、教科書どおりの悲しみだけではないと知っているだけです」
盈はふっと表情を和らげた。
「まぁ、兄が死んだのは別にいいんです。ただ、両親が葬儀で忙しくて、ほとんど家に帰らなくなりましてね」
「ご飯はどうされているのですか? ご両親が帰らないことを、どう感じていますか」
「すごく気持ちがいいですよ。だって、何をしても許されるわけですから」
「……誰にも咎められない自由、ですね」
自由、と彼は言った。けれど、がらんとした家に一人きりで過ごす高校生が語るには、あまりに満ち足りた声だった。孤独を、少しも痛がっていない。
「ええ。ちなみに、私が不登校になったのは三日前からです。だからこんなことは一切関係ないのですがね」
「三日前に、何があったのですか?」
「その前に、話す必要がありますね。兄が死んでちょうど一週間の頃です。……いえ、何もありませんでした。ニュースで、五歳の女の子が行方不明になったと言っていたくらいで」
三日前の話を聞いたのに、盈は遠回りをしている。順番に並べること自体を、楽しんでいるように見えた。
「そのニュースを、盈さんはどう見ていましたか」
「横目に見て、家を出ました。学校に行って、帰り道に、どこかで見たことのある子どもを見かけたんです」
私は思わず身を乗り出した。
「行方不明の女の子が、目の前に?」
「まさか。漫画じゃありませんよ。甥っ子でした。きっと、両親の手伝いに来たおばさんが連れてきたんでしょう」
「……失礼しました。それで、その後は」
「だから言ったじゃないですか。何もなかったんですよ」
盈は笑っている。笑っているのに、私の問いだけが宙に浮いた。深読みだと言われるほど、深読みしたくなる自分がいた。
部屋の隅で、テレビが勝手に点いた。
アナウンサーの声が、虚ろに響く。『三週間前から行方が分かっていない、五歳の男の子について――』
画面に映った顔写真は、盈の顔にどこか似ている気がした。
「……今映っている男の子。あの日、帰り道で見かけたという」
「ええ、甥っ子です。それがどうかしましたか」
私は盈の顔を見つめた。
「あの日から、ずっと行方不明だと言っています。あなたは、あの子をどこへ連れて行ったのですか」
「ははは。漫画の読みすぎですよ、お姉さん。甥っ子の近くにおばさんがいたので、挨拶して帰りました。だから、この日は何もなかったんです」
「……ごめんなさい。深読みしすぎました」
私は息を吐いた。テレビはいつの間にか消えていた。
安堵したはずなのに、胸の奥に小さな棘が残っていた。納得したのは言葉だけで、体のほうは、まだ納得していない。
「次は、兄が死んで二週間目。雨の日でした。あの日は少し特別でね。彼女ができたんです」
「彼女、ですか」
「ええ。一緒に帰りました。ただそれだけです。ですが夜、ニュースを見ていたら、彼女の家が全焼したと流れてきましてね。彼女は、いまだ行方不明です」
言葉が出なかった。
家が燃えた夜のことを、盈は天気の話でもするように語った。
「……その夜、あなたはどんな気持ちでしたか」
「とても気持ちが良かったんです。まぁ、こんな年もあるよな、と思いました。きっと神が見ていたんだろうなって」
「神様が」
神、という言葉が、少しも大げさに聞こえなかった。盈にとっては、それが一番自然な説明なのだ。それが何より恐ろしかった。
「ええ。では最後の話をしましょう。兄が死んで三週間目。よく晴れた日でした。両親もようやく落ち着いて、時々顔を見せるようになっていました。その日は、家族で兄の墓参りに行くことになっていたんです」
「……」
一週間ごとに、何かが起きている。私はその規則に気づき始めていた。気づきたくなかった。数字を数えようとする頭を、必死で止めた。
「ですが当日、私が熱を出しましてね。両親だけで行きました。熱はすぐに引きました。きっと前日のテストの知恵熱だろうと思って、ニュースをつけたんです」
「何の、ニュースでしたか」
「さぁ。何だと思いますか?」
盈は少し微笑んだ。
またテレビが点いた。
『速報です。本日――』
画面に映っていたのは、毎朝鏡で見ている顔だった。
私は何も言えなかった。喉が、からからに乾いていた。心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
見間違いだと言い聞かせた。けれど、写真の中の私は、今日と同じ服を着ていた。
「……すみません。少し、気分が悪くて。今日は、ここまでにさせてください」
声が震えないようにするだけで精一杯だった。ここにいてはいけない。理由も分からないまま、体だけがそう叫んでいた。
「……そうですか。では、玄関まで案内しますよ、お姉さん」
盈は静かに立ち上がった。
「……ありがとう。助かります」
「ええ。さようなら、お姉さん」
ドアが閉まる。金属音が、やけに重く廊下に響いた。
「今日はね、兄が死んでちょうど四週間なんですよ」
閉ざされたドアの向こうから、盈の呟きが聞こえた。
四週間前に、兄。 三週間前に、甥。 二週間前に、彼女。 一週間前に、両親。
そして、今日。
私は廊下で立ち尽くした。握りしめたスマートフォンに、指が震えていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせた。深く息を吸って、冷たい床を踏む感触に意識を向ける。
テレビに映った顔も、盈の呟きも、証拠は何一つない。一週間ごとに人が消える、なんて。数字が揃って見えたのは、私が数えたいように数えたからだ。張りつめた神経が、現実を歪めて見せているだけかもしれない。
そう、あれはきっと、現実とは違う何かだった。あの部屋の、あの空気の中でだけ起きた、悪い夢のようなもの。
一度、ここから離れよう。温かいものを飲んで、眠って、明日になれば笑い話になる。もしそれでも震えが止まらなければ、そのときは同僚に話せばいい。
私は一度も振り返らず、外の光が差し込む出口へ歩き出した。
一週間が過ぎた。
メモの住所と、マンションの部屋番号が間違っていないことを確かめる。引き継ぎ資料には、『前任者が突然連絡不通になり、引き継ぎが未完了』という一言だけが添えられていた。
大きく深呼吸をして、ドアベルを押す。静寂ののち、ゆっくりとドアが開いた。
立っていたのは、どこか影を帯びた、穏やかな笑みの少年だった。
その笑顔を見た瞬間、理由もなく、前任者のことを思った。
「はじめまして、盈さん。今日からあなたのカウンセリングを担当します。急な交代で、混乱させてしまったらごめんなさいね」
「引き継ぎが十分ではなくて、あなたのことはまだ分からないことばかりです。だからこそ、あなたのペースで、しっかりお聞きしたいと思っています。……お部屋に入ってもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ、お姉さん」
「何もない部屋ですが」
少年は、私の肩越しに微笑んだ。
「これはあくまでも物語ですよ。……ね」
少年は、こちらを見ていた。
完




