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何もない部屋

作者: 米欠ける3
掲載日:2026/10/15

これはあくまでも物語です。

もう一度いいます。これはあくまでも"物語"です。




静かにドアをノックする。

「失礼いたします。……はじめまして。カウンセラーとして、今日あなたとお話しするために伺いました。学校からは『話を聞いてきてほしい』とだけ頼まれていて、あなたの名前も、これまでどんな毎日を過ごしてきたのかも、私は何も聞いていません。話したくないことは無理に言わなくて大丈夫です。あなたのペースで、少しだけ声を聴かせてくれませんか」


少年は伏せ目がちに言った。

「……そうですか。何もない部屋ですがどうぞ」

拒絶の声ではなかった。ただ、何も期待していない人の声だった。


机と椅子とテレビしかない部屋だった。勧められた椅子に腰を下ろすと、少年が小さく笑う。

生活の匂いがしない。壁にも床にも、誰かが暮らした跡がなかった。


「少し不気味ですよね」

「いいえ。余計なものがなくて、静かに過ごせそうな部屋だと思いました」

「ではまず自己紹介を。名前は盈(みつる)。名字はまぁいいでしょう。高校一年生です。学校は、おわかりですよね」

「盈さん、とお呼びしても? 教えてくれてありがとうございます」

「ええ。ではまず最初に。これは、兄がちょうど四週間前に死んだのが始まりでした」

私は一瞬だけ視線を落とし、それからまっすぐ盈の目を見た。

「……お兄様が。話してくれてありがとうございます」

「ええ。気持ちよかったですよ。本当に」


私は表情を変えず、ただ頷いた。

引きつりそうになる頬を、意識して動かさなかった。ここで目をそらせば、この子は二度と本当のことを話さない。そんな気がした。

「それが最初に出てきた言葉なのですね。そのまま聞かせてください」

「へえ、お姉さんは肝が据わってますね。大体の人はここで顔をひきつらせるのに」

「肝が据わっているわけではありません。感情は、教科書どおりの悲しみだけではないと知っているだけです」


盈はふっと表情を和らげた。

「まぁ、兄が死んだのは別にいいんです。ただ、両親が葬儀で忙しくて、ほとんど家に帰らなくなりましてね」

「ご飯はどうされているのですか? ご両親が帰らないことを、どう感じていますか」

「すごく気持ちがいいですよ。だって、何をしても許されるわけですから」

「……誰にも咎められない自由、ですね」

自由、と彼は言った。けれど、がらんとした家に一人きりで過ごす高校生が語るには、あまりに満ち足りた声だった。孤独を、少しも痛がっていない。

「ええ。ちなみに、私が不登校になったのは三日前からです。だからこんなことは一切関係ないのですがね」

「三日前に、何があったのですか?」


「その前に、話す必要がありますね。兄が死んでちょうど一週間の頃です。……いえ、何もありませんでした。ニュースで、五歳の女の子が行方不明になったと言っていたくらいで」

三日前の話を聞いたのに、盈は遠回りをしている。順番に並べること自体を、楽しんでいるように見えた。

「そのニュースを、盈さんはどう見ていましたか」

「横目に見て、家を出ました。学校に行って、帰り道に、どこかで見たことのある子どもを見かけたんです」


私は思わず身を乗り出した。

「行方不明の女の子が、目の前に?」

「まさか。漫画じゃありませんよ。甥っ子でした。きっと、両親の手伝いに来たおばさんが連れてきたんでしょう」

「……失礼しました。それで、その後は」

「だから言ったじゃないですか。何もなかったんですよ」


盈は笑っている。笑っているのに、私の問いだけが宙に浮いた。深読みだと言われるほど、深読みしたくなる自分がいた。

部屋の隅で、テレビが勝手に点いた。

アナウンサーの声が、虚ろに響く。『三週間前から行方が分かっていない、五歳の男の子について――』

画面に映った顔写真は、盈の顔にどこか似ている気がした。

「……今映っている男の子。あの日、帰り道で見かけたという」

「ええ、甥っ子です。それがどうかしましたか」


私は盈の顔を見つめた。

「あの日から、ずっと行方不明だと言っています。あなたは、あの子をどこへ連れて行ったのですか」

「ははは。漫画の読みすぎですよ、お姉さん。甥っ子の近くにおばさんがいたので、挨拶して帰りました。だから、この日は何もなかったんです」

「……ごめんなさい。深読みしすぎました」

私は息を吐いた。テレビはいつの間にか消えていた。

安堵したはずなのに、胸の奥に小さな棘が残っていた。納得したのは言葉だけで、体のほうは、まだ納得していない。


「次は、兄が死んで二週間目。雨の日でした。あの日は少し特別でね。彼女ができたんです」

「彼女、ですか」

「ええ。一緒に帰りました。ただそれだけです。ですが夜、ニュースを見ていたら、彼女の家が全焼したと流れてきましてね。彼女は、いまだ行方不明です」

言葉が出なかった。

家が燃えた夜のことを、盈は天気の話でもするように語った。

「……その夜、あなたはどんな気持ちでしたか」

「とても気持ちが良かったんです。まぁ、こんな年もあるよな、と思いました。きっと神が見ていたんだろうなって」

「神様が」


神、という言葉が、少しも大げさに聞こえなかった。盈にとっては、それが一番自然な説明なのだ。それが何より恐ろしかった。

「ええ。では最後の話をしましょう。兄が死んで三週間目。よく晴れた日でした。両親もようやく落ち着いて、時々顔を見せるようになっていました。その日は、家族で兄の墓参りに行くことになっていたんです」

「……」

一週間ごとに、何かが起きている。私はその規則に気づき始めていた。気づきたくなかった。数字を数えようとする頭を、必死で止めた。

「ですが当日、私が熱を出しましてね。両親だけで行きました。熱はすぐに引きました。きっと前日のテストの知恵熱だろうと思って、ニュースをつけたんです」

「何の、ニュースでしたか」

「さぁ。何だと思いますか?」


盈は少し微笑んだ。

またテレビが点いた。

『速報です。本日――』

画面に映っていたのは、毎朝鏡で見ている顔だった。

私は何も言えなかった。喉が、からからに乾いていた。心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。

見間違いだと言い聞かせた。けれど、写真の中の私は、今日と同じ服を着ていた。


「……すみません。少し、気分が悪くて。今日は、ここまでにさせてください」

声が震えないようにするだけで精一杯だった。ここにいてはいけない。理由も分からないまま、体だけがそう叫んでいた。

「……そうですか。では、玄関まで案内しますよ、お姉さん」

盈は静かに立ち上がった。

「……ありがとう。助かります」

「ええ。さようなら、お姉さん」


ドアが閉まる。金属音が、やけに重く廊下に響いた。

「今日はね、兄が死んでちょうど四週間なんですよ」

閉ざされたドアの向こうから、盈の呟きが聞こえた。

四週間前に、兄。 三週間前に、甥。 二週間前に、彼女。 一週間前に、両親。

そして、今日。

私は廊下で立ち尽くした。握りしめたスマートフォンに、指が震えていた。

落ち着け、と自分に言い聞かせた。深く息を吸って、冷たい床を踏む感触に意識を向ける。

テレビに映った顔も、盈の呟きも、証拠は何一つない。一週間ごとに人が消える、なんて。数字が揃って見えたのは、私が数えたいように数えたからだ。張りつめた神経が、現実を歪めて見せているだけかもしれない。


そう、あれはきっと、現実とは違う何かだった。あの部屋の、あの空気の中でだけ起きた、悪い夢のようなもの。

一度、ここから離れよう。温かいものを飲んで、眠って、明日になれば笑い話になる。もしそれでも震えが止まらなければ、そのときは同僚に話せばいい。

私は一度も振り返らず、外の光が差し込む出口へ歩き出した。




一週間が過ぎた。

メモの住所と、マンションの部屋番号が間違っていないことを確かめる。引き継ぎ資料には、『前任者が突然連絡不通になり、引き継ぎが未完了』という一言だけが添えられていた。

大きく深呼吸をして、ドアベルを押す。静寂ののち、ゆっくりとドアが開いた。

立っていたのは、どこか影を帯びた、穏やかな笑みの少年だった。

その笑顔を見た瞬間、理由もなく、前任者のことを思った。

「はじめまして、盈さん。今日からあなたのカウンセリングを担当します。急な交代で、混乱させてしまったらごめんなさいね」

「引き継ぎが十分ではなくて、あなたのことはまだ分からないことばかりです。だからこそ、あなたのペースで、しっかりお聞きしたいと思っています。……お部屋に入ってもよろしいでしょうか」


「ええ、どうぞ、お姉さん」

「何もない部屋ですが」

少年は、私の肩越しに微笑んだ。

「これはあくまでも物語ですよ。……ね」

少年は、こちらを見ていた。




完



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