こぼれ湯
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ん? つぶらやくん、さすがに湯せんはもういいんじゃないかい?
あの音、すでにお湯自体がなくなって、鍋の底が焦げ付きそうな気配だと思うんだけど? 早く、早く確かめようよ!
ほらみい、危ないところだったな。これ、底にひっつくと後が面倒なんだよねえ。お鍋も湯せんしていたやつも。ヘタしたら包装されているところが破れて、中身がでろ~んとこぼれてしまうところさ。
ひとまず、こいつを回収して……よし、大丈夫そうだ。このまま退避させよう。ガスの元栓もちゃんと締めておいてよ。
うん、これで一件落着。念のため、吹きこぼれした部分がないか確かめた方がいいよ、つぶらやくん。
――火がちゃんとついていたんだし、そうそう事故の心配もないだろって?
いやいや、何が起きているかは分からないよ~?
そりゃ、吹きこぼれでコンロの火が消えているのは危険きわまりない。でも、ブツが何かからこぼれるって、それだけで惨事をおこす可能性を持っているんだ。さっきの袋やぶれの心配もそのためだよ。
実際に、ものがこぼれるとどうなるのか。ちょっと僕の昔の話を聞いてみないか?
お風呂。
生まれてこのかた、まったく入ったことがないという人は少数派だろう。身体を洗うことは長く生きるうえでのポイントのひとつ。汚い状態はどうしても身体の調子を壊しやすいからね。
生まれてしばらくは、大人の手を借りて入れてもらうだろうけど、それなりに大きくなってからは一人で入るようになるはずだ。
僕はたっぷりお湯が入った湯船につかるのが好きだったからね。いつも浴槽のふちギリギリまでお湯をためていた。
当時は体積の概念を学ぶ前だったからねえ。自分がお風呂に入ると、どうして水があふれていくのか不思議でしょうがなかった。
不思議は興味をひくもので、興味をひかれたら独り占めしたくなる。どうしてお風呂の水があふれるのかの理由を親にたずねる、という方向に僕はいかなかった。黙ってひたすら、この奇妙な現象に身をゆだね、面白がっていた。
そんな入浴が一年あまり続いた後。
その日もたっぷりお湯を入れて、お風呂へ入る僕。
このころは入浴剤にはまっていて、その日はかんきつ系のオレンジ入浴剤をチョイス。わざわざお風呂に入る順番を最後にさせてもらい、とことん楽しむプランにしていた。
うちはみんな、眠るのが早い。寝静まったころに、とっぷりとお湯へつかってのんびりするのが僕にとっての至福のときだった。
入浴剤で黄色くなったお湯。丹念に体を洗った後で、その中へ肩までつかる。
音を立てて流れていくお湯たち。それを聞きながら、今日一日の疲れも一緒に吐き出すかのごとく「は~」と盛大にため息をついたところで。
ずぞぞ……。
あえて言葉にするなら、そのような音が聞こえてきた。
排水口へ水が流れ込むときの音じゃない。それなら聞きなれていて、即判別がつく。
今回のは、ラジオにまぎれるノイズ音に近い。近いけれども、人があえて音を立てて口へ水を吸い込んでいくような気配を感じる。
ちょうど、浴槽の脇にある排水口が音の元だと判断。試しに立ち上がって、風呂の水のかさを減らし、あふれないようにしてみる。
水が入らなくなってからも、しばらく様子をうかがう。これ以上の音はしてこない。
次にシャワーを手に取った。お湯を出し、同じように排水口へ注いでみるも、こちらも同じだ。先ほどのような反応は見られない。
そしてあらためて浴槽のお湯を突っ込んでみるや、例の「ずぞぞ……」だ。
――入浴剤に反応する、何かが潜んでいる?
もはやゆっくり入浴を楽しむゆとりなど吹っ飛んでしまい、僕はお風呂の栓をあけて、さっさとあがってしまうことにした。
入浴剤入りじゃ、洗濯で再利用するのもはばかられるから、流してもいいとは親からもいわれている。そのまま着替えて、足早に浴室を後にした僕だけど、ほんの数十分後。
浴室から響く大音量に、現場へかけつけた。家族も起き出してきていたから、あえてどんけつで到着し、浴室に自分がいなかったことを示すアリバイ工作も欠かさない。
浴室の床、特に例の排水口付近に大きい穴が開いていたんだ。浴槽そのものも三分の一程がむしり取られたかのように乱暴な断面をさらし、無残なかっこうになっている。
とても人の力でできる所業ではない。お風呂は大工事が行われて、今ではもう先の出来事の爪痕は残っていないな。
ただ必要以上に湯がこぼれる事態については、僕は敏感になってね。以降はせいぜい半身浴くらいにとどめているんだ。




