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軍艦モノ

新月の闇、ソロモン海に伸びる航跡〜駆逐艦睦月の雷撃戦〜

作者: 仲村千夏

 1942年8月7日、深夜。

 ソロモン諸島沖。雲ひとつない新月の夜、海は墨のように黒く沈み返っていた。星も光を惜しみ、海面には味方も敵もその影を映さなかった。


 睦月は艦隊の一隻として、密かにラッセル諸島を南下していた。艦内灯はすべて消され、甲板には赤外線式の簡易信号灯だけが点滅を繰り返している。


 「前方、五千に敵艦……おそらく巡洋艦、複数。」


 見張り員の声が風に乗って艦橋に届く。すぐに緊張が走った。

 艦長の神谷中佐は双眼鏡を覗き込みながら、低く命じた。


 「総員、戦闘配置……雷撃戦に入る。」


 「了解!」


 若き水雷長・秋月大尉は喉の奥で息を呑んだ。

 手に汗を握ったまま、彼は艦橋を飛び出し、前甲板の発射管に向かった。

 睦月は夜戦に最適な位置を取ろうとしていた。

 敵艦隊は米軽巡2隻と、駆逐艦2隻と思われる。編隊を組んで進むその姿は、暗闇でもはっきり見えた。なぜなら、彼らは探照灯を使ってこちらを照らそうとしていたからだ。


 「敵艦、こちらに気付いていません。航行速度、約15ノット。進路、北東。」


 信号士が報告を送る。


 秋月は静かに頷き、魚雷発射装置に手をかけた。

 指が震えていた。これが、実戦初の魚雷発射任務――「雷撃一番」だった。


 頭上の艦橋から、神谷艦長の声が届く。


 「秋月、目標:敵巡洋艦。射距離二千。雷撃よーい。」


 秋月は息を整える。眼前には海と星だけ。だが、視線の先に確かに敵がいる。


 「射線よし……発射!」


 ドゥン!

 ドゥン!


 圧縮空気の爆音とともに、睦月の2門の魚雷発射管が、鋭い航跡を闇に刻んだ。

 

 沈黙の中、海が一瞬だけ明るく光った。

 命中。


 米巡洋艦の一隻が、雷撃をまともに受け、艦尾から炎を吹き上げた。

 しかし、その光は逆に睦月を照らし出すこととなった。


 「被弾注意! 敵、反撃に出るぞ!」


 艦長の叫びと同時に、米駆逐艦が回頭し、こちらに向かってくる。


 砲声。


 睦月の右舷に、水柱があがる。弾着は近い。


 秋月は無意識に身体を伏せた。だが、撤退など選択肢になかった。


 「まだ魚雷、二発残ってます!」


 「照準修正、照準角八度戻せ――!」


 睦月は旋回しながら、第二波の雷撃を敢行する。

 

 闇を切り裂くように、再び航跡が走る。

 それは、まるで静寂の夜に刻まれる白い署名だった。

 戦火に抗うための、駆逐艦睦月の名を刻むような。


 やがて海の向こうから二度目の爆発が聞こえ、敵艦が片舷に傾きながら沈んでいく。


 艦内にわずかな歓声が上がるが、それも束の間、睦月自身も被弾し、右舷機関に損傷を負う。


 「応急班、右舷後部へ急げ!」


 夜明け前、睦月は黒煙を引きながら、ソロモンの闇を抜けて北へと退いていった。

 

 東の空がわずかに白み始めた。

 それは夜戦の終わりを告げる色だったが、決して勝利の色ではなかった。


 睦月は辛うじて航行を続けていた。右舷は焼け焦げ、通信機器の一部は使用不能。艦尾の高角砲座は爆風で破壊され、そこにいた兵士の名札が甲板に転がっていた。


 だが、睦月は沈まなかった。


 「……秋月大尉。第二魚雷、命中確認。敵巡洋艦、沈没と推定。」


 通信兵が報告したとき、秋月はそれを聞いても、しばらく何も言わなかった。


 やがて、静かにうなずいた。


 「……あの魚雷も、一本目のように真っ直ぐ走ったか?」


 「はい。白い航跡を残して、一直線に。」


 秋月は空を仰いだ。新月の夜は終わり、空の黒が藍へ、そして灰色へと溶けていく。

 光が戻ってくる。

 でも、彼の心にはまだ、闇が残っていた。


 艦橋から後方を見やると、海面にかすかな波の痕跡が残っていた。

 夜の海に刻まれた白い線――それは魚雷が走った跡か、それとも睦月が生きていた証なのか。


 神谷艦長が呟いた。


 「見えるか、秋月……これが水雷屋の戦だ。決して、誰にも誇れるもんじゃない。」


 「……はい。」


 「だが、あの魚雷が、戦友を守った。それだけは確かだ。」


 秋月はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、航跡を目に焼き付けた。


 睦月は、ゆっくりと北へ向かっていた。

 誰にも見送られることなく、誰にも知られることなく。

 新月の闇に走った白い線だけが、その夜の戦いの証だった。


 やがて波がその跡を飲み込み、何もなかったように、静かなソロモンの海が広がっていった。

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