AI進み恋せよ乙女
村田香梨はスマートフォンを片手に、学生街のオープンカフェに1人ですわっていた。香梨はN大学に通う理学部の2年生だ。春の昼下がりの日差しの下で、飲みかけの紅茶の置かれたテーブルにパラソルの影がおちている。
香梨はスマートフォンのアプリを開いた。
『恋愛相談アプリ〈キューピット〉にようこそ。チャット型AI〈マコト〉をご指名いただき、ありがとうございます。わたしのモットーは謹厳実直です。あなたの恋愛のいかなるお悩みにもお答えできます』
香梨はアプリの音声入力をオンにした。
「わたしの2年先輩の彼氏が、わたしと会いたがらないみたいなんです」
『あなたの2年先輩の彼氏が、あなたと会いたがらないみたいなのですね』
〈マコト〉の回答がものすごい速さで表示されだす。
『それはあなたの被害妄想の可能性があります。彼氏はなにかの事情で、たんに時間の都合がつかないだけなのです。あなたはそれを自分が原因だと思いこんでいるのです。あなたと会う機会が少なくなった理由を彼氏にたずねてみてください』
「彼氏は就職活動に忙しいと言っています」
『では、そうなのです。彼氏はあなたの2年先輩なので4年生です。就職活動は去年の暮れから始まっています。春先のいまはいっそう忙しくなっている時期です。あなたの彼氏の主張には一定の根拠があります』
でも、と香梨は反論しようとする。
「よう、待たせて悪かったな。真剣そうにスマホでなにやってんの?」
真壁星矢が、香梨の手もとの画面をのぞきこもうとする。
「なにもやってない」
香梨は反射的にスマートフォンをテーブルの下に隠した。
星矢は髪を短くかり、日に焼けた、ほりの深い顔立ちをしている。黒いスーツがあまり似合っていない。このあと会社訪問があると言っていた。眉をひそめた彼のいぶかしげな視線が、テーブルの蔭の香梨の手もとをうかがっている。
星矢は天文サークルの2年先輩の彼氏だ。3年生だった去年、星矢はサークル部長をつとめていた。そんな彼と付き合いだしてから九か月になる。ここで恋愛相談アプリを利用しているのは知られたくない。彼の行動をあやしんでいると思われるのは気まずいし、AIに相談しているのが気恥ずかしくもある。
「ふうん」星矢がさし向かいにすわった。
近づいてきたウェイトレスに、待ちあわせただけだから、とオーダーを断わっている。
「このところ忙しそうね。わたしと会うのが悪いみたい」
「そう言うなよ。過酷な就職活動のあいまをぬって、こうして馳せ参じたんだぜ」
「30分も遅刻よ。急がないと間にあわないじゃない」
星矢とはプラネタリウム〈ミルキーウェイ〉に行く約束をしていた。春の新しいプログラムがいまかかっているのだ。14時からの上映まであと15分もない。ここから上映館までは徒歩10分ほどの距離だ。
「まあ、待てって。トイレぐらい行かせてくれよ」
星矢がオープンテラスの席を立って、店内に急ぎ足で入っていった。
香梨は真壁の姿が消えたので、AI〈マコト〉に相談を再開した。
「彼氏はわたしと会っていても、あまり楽しそうではありません。わたしの話をうわの空で聞いていたり、気のない返事をしたりします。それをとがめると、急に不機嫌になったり、怒りだしたりします」
『あなたは彼氏の言動に不審をいだいているのですね。彼氏のそんな言動の原因があなたにあるとは限りません。彼氏なりの悩みや問題をかかえているのでしょう。彼氏は就職活動に忙しいそうですね。就職試験や面接のことで頭がいっぱいなのかもしれません。そうした活動がうまくいっていないのかもしれません。就職活動の進みぐあいについて、彼氏にたずねてみてください』
そうだろうか、と香梨は〈マコト〉の回答に納得がいかない。
「彼氏の気持ちがわたしから離れているのではないでしょうか」
『あなたは彼氏の浮気を疑っていませんか。それは取りこし苦労の可能性があります。女性の脳は情報収集にすぐれています。右脳と左脳をつなぐ脳梁が太く、左右の脳ですばやく情報交換ができます。あなたは、最近の彼氏の行動と、以前の彼氏の行動を比較し、ささいな変化を見つけました。そこに違和感をおぼえ、彼氏の不審な言動が浮気によるものだと決めつけているのです』
だって、と香梨は反論しようとする。
「いつまでメールなんてやってるんだよ。上映開始に間にあわなくなるじゃないか」
星矢がトイレから戻ってきていた。待ちあわせに30分も遅刻したとは思えない横柄な態度だ。さあ、行くぞ、と不機嫌そうに香梨をうながした。
2人は〈ミルキーウェイ〉に急いで向かった。赤信号にことごとくつかまり、ロビーの券売所に着いたときには開演時間を2分過ぎていた。
「途中入場はできません」と券売所の係員に断わられた。
春の新プログラムの上映時間は40分で、次回は午後3時からになっていた。
「それは無理だ。4時から就職説明会だって香織に言ってあったよな」
「星矢が遅れてきたからじゃない」
「そうむくれるなって。きのう香梨がプラネタリウムを見たいって急に電話してくるから、就活のあいまをぬって、こうして時間をつくったんじゃないか。こんな小春日和のおだやかな日に、ネクタイしめて、リクルートスーツに身をかため、ふだん履きなれない革靴で汗だくになって走らされたんだぜ」
なにが『小春日和のおだやかな日』だ。山口百恵の『秋桜』の歌詞じゃないか。おまえはさだまさしか、と香梨は腹がたった。
プラネタリウムはあきらめ、星矢の会社訪問までに30分ほど時間があいた。香梨は星矢に誘われて、劇場ロビーのカフェの席についた。
星矢はいらいらした様子で、2人の会話ははずまなかった。
「春のプログラムは4月中やってるじゃないか。別に今日じゃなくてもいいだろ。こんどの日曜にでも連れてってやるよ」
「だって、いくつもの星のおりなすロマンを無性に観賞したくなったのよ」
「星座なんて、天球上の恒星の並びかたを、神話上の神や人、動物、物になぞらえただけだろ。太陽系からの見かけの配置にすぎないんだぜ」
星夜の幻想より就活の現実がいまは最優先だ、と天文サークル部長だったとは思えない発言をのこし、星矢は〈ミルキーウェイ〉を立ちさった。
香梨はすぐに恋愛相談アプリを開いた。いままでの経緯を音声入力でこと細かに報告し、星矢に対する不平不満をぶちまけた。
瞬時に、AI〈マコト〉の画面に文字列が並びだす。
『小春日和は、晩秋から初冬にかけての春のような陽気をさします。4月半ばのいまの季節に使うのは誤用です。また、冬の季語でもあります』
そんなトリビアなんかどうでもいい。
「彼の気持ちがわたしから離れているんです。他にいい人ができたに違いありません。わたしと会う回数が減ったのはそのためなんです」
『あなたは彼氏と付き合いだして9か月になります。慣れあいになっているのではないですか。熟年夫婦は2人でいて会話がなくても気づまりにならないものです』
わたしは20歳のうら若き独身だ。
「だって、彼氏はわたしと会いたがらないし、2人でいても楽しくなさそうだし、急に不機嫌になったり、いらいらしたりします。いまも、プラネタリウムを観賞するより、就活が大事だと立ち去りました」
『あなたは、彼氏が浮気していると最初から決めつけていませんか。彼氏のいままでになかったちょっとした変化の全てを浮気とむすびつけて考えているのです。解答を〝浮気〟と定め、あなたの妄想のままに、等式のほうをやりくりしているのです。彼氏の不審の答えは別にあるのかもしれません。そんな女性特有の脳の作用について、あなたにお勧めの書籍を三点ご紹介します』
もういい、と香梨はアプリを閉じた。
翌日、休講で4限目に空きができたので、香梨は暇つぶしに学生食堂に向かった。この時間の学食は長テーブルに十数人の学生がいるだけだった。奥まったテーブルの端に、同じクラスの小百合がスマートフォンを食いいるように見つめ、しきりに操作している。近づいて、その手もとをのぞきこむと恋愛相談アプリ〈キューピット〉だ。
「遊び人の〈オサム〉はなんて答えてるの?」
「やだ、見ないでよ」小百合がスマートフォンを胸に当てた。「人の恋の悩みをのぞき見するなんて、せんさく好きもいいところじゃない」
「ごめんごめん」と香梨は小百合の隣の椅子に腰かけた。
〈キューピット〉には、いろいろなキャラクターのAIが恋愛アドバイザーとして用意されている。遊び人の〈オサム〉を選んだ小百合のセンスがよくわからなかった。
「〈オサム〉はわたしにとっても優しいの。わたしの話を親身になって聞いてくれるし、共感もしてくれる。人間の彼氏とは大違い」
そういうアプリだからね、と香梨は白けてしまった。
で、と小百合が好奇の顔を向けた。「謹厳実直の〈マコト〉はどう?」
「うーん。真面目すぎるかなあ。わたしの相談にはきちんと答えてくれるけど、やたら理詰っぽいのよねえ。わたしに共感するどころか、反対の意見ばっかり返してくる。その筋道だけはたっているのよ」
「女どうしで、なにこそこそ話しあってるんだ?」
星矢と、彼の2人の友人が、テーブルの反対側に立っていた。3人とも黒いスーツ姿だ。今日はこのあと、合同就職説明会があると聞いていた。
「〈マコト〉の品定め」小百合がそう口走った。
「違うちがう」香梨は慌てて立ちあがった。反射的にスマートフォンを背後に隠している。
「〈マコト〉っていうのは香梨の――」小百合が言いかけて、
「やめてよ」香梨はつい大声になっていた。恋愛相談アプリを利用しているのは女どうしの秘密だと、小百合とは約束してあったはずだ。
香梨は、小百合の腕を引いて立ちあがらせ言葉を続ける。
「つぎの講義の準備があるから。就活がんばってね。応援してるよ」
星矢の視線が、背中にまわした香梨の手をうかがっている。
「おまえ、このところ暇さえあればスマホばかりいじってるよな」
「なんでもないです」小百合がわってはいった。
早くしないと間にあわなくなるよ、と小百合に押しだされるように香梨は学生食堂を出た。4限目の講義の始まったキャンパスに人影はまばらで、昼過ぎの日差しがテラスの石畳に校舎の短い影をおとしている。
「〈キューピット〉のことは女どうしの秘密だから」と小百合が人差し指を唇にあてた。
どの口が言うのかと香梨はあきれた。
「そうだ」小百合がスマートフォンをスクロールする。
これ、と差しだされた写真に香梨は驚いた。
黒いスーツの男女がアパートの外階段を下りたところだった。画像を拡大すると、20歳くらいの女と笑いあっているのは星矢に間違いなかった。星矢とその見知らぬ女はリクルート姿だっだ。画面の手前に黒いボンネットが写りこんでいて、車の蔭から隠し撮りしたらしい。
「なに、これ? どういうこと?」
「さあ」と小百合はそっけない。「友達として、いちおう知らせておこうと思って」
「星矢とこの女はこのあとどうしたの? どこかに出かけたの?」
「知らない。わたしはせんさく好きじゃないから」
先週、4限を終えた小百合が帰宅のさい、星矢のアパートのそばを通りかかって目撃したそうだ。星矢たちのあとはつけなかったという。気のきかない友人だ。
「じゃあ、つぎの講義でね」
小百合が足早に去り、大学の敷地に香梨は1人とりのこされた。
理学部の教室で、5限の授業が始まっている。香梨は講義に集中できなかった。頭にあるのは、小百合に見せられた画像だ。香梨の前の席では、その撮影者が授業そっちのけでスマートフォンを操作している。
香梨はAIに相談してみようかと迷ってやめた。〈マコト〉は何十もの根拠をあげて、香梨の疑いを否定してくるだろう。ここは香梨が自分の目で確かめるしかない。2人は就職活動を通じて知りあったのではないか。今日、開催されるというK市合同就職説明会にも、いっしょに参加しているのではないか。
香梨はスマートフォンで検索をかけた。
K市が主催する合同説明会は3時半から6時半までとネットにあった。その説明会には、地元の企業を中心に24社の人事担当者が集まるらしい。会場の市民ホールは、N大学から電車で30分ほどだ。
5限が終わると、「今日の夕食はどうする?」と小百合が聞いてきた。「出かけるところがあるから」と香梨は教室を飛びだした。
K市市民ホールの駐車場に着いたのは午後6時半前だった。説明会は3時半から6時半までとネットにあった。香梨はホールの玄関の柱に身をもたせ、スマートフォンで調べものをするふりで閉会を待った。
6時40分をまわったところで、出入り口のほうが騒がしくなった。黒系のスーツの上下に白いシャツの集団がホールからあふれだした。そのなかで1人だけ私服の香梨は場違いに感じられた。ここで気おくれしている場合じゃない。香織は、参加者の群れのあいだに、星矢の日に焼けた顔を探した。
見つけた。スマートフォンを片手に、ガラス扉のそばに立ち止まっている。星矢に連れはいなかった。香梨はひとまず安堵した。けれど、写真の女の正体がわかったわけじゃない。知りたくない結末が先延ばしになっただけだ。星矢に声をかけようかどうしようかと迷った。香梨は意を決した。
星矢――呼びかけようとして、
「お待たせ」写真のあの女がホールからあらわれた。
香梨は柱の陰にとっさに隠れた。どうしてそうしたのか、自分でもわからなかった。隠れる必要なんかないじゃない。わたしのほうが悪いみたいじゃない。
「遅いぞ、明奈。いつまでトイレに入ってるんだ?」
「混んでいたのよ」と妙になれなれしく星矢に寄りそう。
「日が暮れちまう」と怒ったふりで星矢が顔をしかめて見せているようだ。
香梨は柱にぴったりくっついたまま身動きひとつできなかった。なんだかドラマのワンシーンを演じているようだった。市民ホールの駐車場におりた暮色に、就職希望者の黒いリクルートスーツがなじんでいる。
星矢と明奈が連れだって歩きだした。2人が歩道に出たところで、香梨は柱から体を引きはなした。あの2人の行き先を確かめないと――。香織はなにかにあやつられるような足どりであとを追いだした。
駐車場のブロック塀の出口まで来て、香梨は足を止めた。
金網フェンスを背に、星矢と明奈が信号待ちをしていた。どうしよう、星矢に声をかけようか。隣にいる女性は誰ですか。星矢とはどういう関係ですか。
信号が青に変わった。
香梨は声をかけられずに、その場に立ち止まった。
2人が横断歩道を歩きだした。渡った先のイタリアンレストランの外階段を上がっていく。二階は窓ガラスが道路に面している。女が男の肩をたわむれに叩く。2人の背中ごしに、男女の顔が笑っている。
信号が点滅する横断帯の手前で、香梨はためらっていた。
彼女とはなんでもないよ――星矢の声が脳裏に聞こえる。
合同説明会の会場で、高校時代の同級生にたまたま出会ったんだ。彼女も同じ職種を希望していて、食事でもしながら、就活の成果を話しあおうって。本当にそれだけだから――。
香梨の目の前をバスが走りすぎていった。自家用車、タクシー、トラック、さまざまな車が行きかいだす。エンジンがうなり、走行音が響き、地鳴りがする。香梨は1人、取りのこされた気持ちにおちいった。
信号が変わった。香梨は横断歩道に背を向け、もと来た道を歩きだした。知りたくない事実を確かめるために、わざわざ足をはこぶ必要なんかない。
その夜、香梨はアパートの机でスマートフォンを見つめていた。今日の出来事をAIに相談しようかと迷っていた。〈マコト〉はきっと、『星矢にその女性についてたずねてみてはどうですか』と他人事のように返答するだろう。それができないから悩んでいるんじゃないか。〈マコト〉の役立たずめ。
それでも香梨は、星矢と明奈に関わるてんまつを音声入力で伝えた。
ふいに着信音がした。ディスプレイには真壁星矢と表示されている。
通話をためらっているうちに留守電に切り替わった。
「先日は悪かった。つぎの日曜日には体があくから、プラネタリウムの新作を見に行かないか。このあいだのうめあわせをするよ」
――もう、遅いよ。香梨はメッセージの画面を開いて入力した。
『ごめん。つぎの日曜は友達と約束があるから。また、こんどね』
ほどなく返信があった。『わかった。じゃあ、またな』
そのこんどは来るのだろうか――。香梨はスマートフォンを机に伏せた。
翌日の5限の授業のあと、香梨は理学部A棟の5階にある部室に向かった。金曜の午後6時から、天文サークルの例会が始まる。
部室には、今年の新入部員の男女10人が、並んだ机の中央付近にそろっていた。そのまわりに、2年生と3年生が18人ほど、4年生の3人がばらばらに着席している。天文サークルの総勢は49人だが、その全員がいつも例会に集まるわけではない。出席者のなかに、前部長の星矢の姿はなかった。
香梨は、あいている席に座った。新入部員が黙ってかしこまるなか、2年生以上がにぎやかに、太陽や月、星、宇宙全般に関して雑談している。
例会の始まる時間になり、3年生の現部長が教壇に立った。
「新入部員のみなさん、わが天文サークルにようこそ。みなさんは太陽の引力によって導かれた期待の星です。今年1回目の例会では、新しい仲間の自己紹介から始めます」
いいぞ新部長、と4年生のなかから声があがった。
新入部員が順番に教壇に上がり、名前と学部、入部しての抱負、好きな恒星を応えていく。「ぼくの推しはシリウスです。地球から見える最も明るいこの星のように、サークルで一番に輝きたいと思っています」
一番明るいのはわれらの太陽だぞ、と4年生からつっこみがはいった。
言われた新部員が、くるんくるんのパーマのかかった茶髪をかいている。彼は一重の目の細い、あごのとがった優男だ。
その彼と香梨は目があった。にやつく〝シリウス〟が、ぺこりと会釈した。
自己紹介のあと、新入部員の班分けが行なわれた。天文サークルでは、天体観測など全員参加の行事の他に、『太陽班』『惑星班』『プラネタリウム班』『写真班』に分かれて活動している。
香梨は今年、『プラネタリウム班』の班長に抜擢されていた。この班では、部のプラネタリウムで投影する『番組』の作成を行なっている。〝シリウス〟と2名の女子部員が香梨の班に加わった。
例会が終わったのは7時過ぎだった。「いつもの定食屋に行かない?」同じ2年生に誘われたけれど、香梨はそんな気分にならなかった。理学部A棟の出入り口の前で、サークルの仲間と別れてアパートに向かった。
「先輩」と男女の声が追いかけてきた。
香梨の班に新しく入った優男と2人の女子部員だった。
「えっと、あなたは新入生の〝シリウス〟さん、だっけ?」
「いやだなあ、香梨先輩。天野尊っす。本名を忘れないでくださいよ。で――」
駅前のプラネタリウム〈ミルキーウェイ〉でいま、春の新作プログラムがかかっている。自主制作番組の参考に、今週の日曜に観賞に行こうと誘われた。
香梨はハッとなった。星矢と見そこなったプログラムだ。
「先輩、行きましょうよ」と2人の女子部員が香梨の手を両方からとった。
まあ、いいか。日曜は友達と約束があると星矢にはメール済みだ。嘘が現実になったのだと思い、午後1時45分に〈ミルキーウェイ〉で待ちあわせを決めた。
そのとき、定食屋に向かう十数人を引きつれた新部長が通りかかり、尊と2名の女子部員がそのグループに加わった。
「香梨先輩、約束っすからね」尊が気障に片手を上げた。
なんで、下の名前なんだ? なれなれしいやつだと香梨は不愉快になった。
日曜の当日、香梨は待ちあわせの時間に遅れた。上映開始の2時5分前に〈ミルキーウェイ〉のエントランスホールに入った。
香梨先輩、と尊が券売所の前から手をふった。女子部員の姿はなかった。
「あの2人はインフルエンザらしいんすよ。今朝、ラインであやまっていました」
新入生どうしのラインを定食屋で交換したという。
「2人で鑑賞しても、番組制作の意見交換はできないから、またこんどにしようか」
「せっかく来たんすから、2人で見ましょうよ。チケットはもう買ってあるんです」
開演時間だ、と尊に強引にうながされて劇場に入った。
『上映中は携帯電話の電源を切るか、マナーモードにしてください』
場内アナウンスがながれ、香梨は電源を切った。
ドームスクリーンの夜空に、アルクトゥース、スピカ、デネボラが投影されている。香梨はそれをながめながら、『この3つの星をむすんだのが春の大三角形です』番組のナレーションを聞きながしていた。
隣では、背もたれによりかかった尊の姿が身じろぎひとつしない。居眠りしてるんじゃないか。定食屋に行った女子がそろってインフルエンザにかかったという。こいつはよく無事だったな、と香梨はいぶかった。
思考は、星矢が明奈と呼んだ女にながれた。
就職活動をしているうちに、かつての同級生と再会する偶然はあるかもしれない。そのあと、イタリアレストランに入るだろうか。星矢のアパートの外階段をおりる2人を、小百合が目撃している。星矢と明奈は就職活動のあいまにデートをかさねていたのではないか。就活と恋愛の両立に忙しくて、香梨と会う機会が減ったのではないか。
想像をたくましくしているうちに、40分の上映は終わった。
ホールに出ると、香梨はまぶしさにまばたきをくりかえした。
「休日の時間はまだありますよ。プラネタリウム観賞の感想をカフェで交換しましょう」
尊に誘われた。こいつは本当に観賞していたのかと香梨はいぶかった。
「それはサークルの例会のときでいいじゃない」
「いま見た感動がうすれないうちに。ねっ、いいじゃないっすか」
尊がふいに香梨の腕をとった。
彼の一重の目が細められている。
「おい、香梨」ホール内のオープンカフェからあらわれたのは星矢だった。
星矢がどうして? と香梨は驚いた。まるで待ちかまえていたみたいだ。
香梨の前に立った星矢の表情はけわしかった。その2人のあいだを、尊の視線が往復している。天文サークル前部長の顔を尊は知らないようだ。
「そういうことだったんだな」
「えっ?」香梨は、星矢のいきどおりの理由がわからなかった。
今日の2時過ぎに、現部長から星矢に連絡があったというのだ。
「香梨は新入部員からプラネタリウムの鑑賞に行こうとせがまれたそうだな」
金曜日の例会のあと、尊と2人の女子部員に誘われているところを、通りかかった部長に見られたんだと香梨は気づいた。
「当日になって鑑賞会は中止になったと、2人の女子部員にラインが届いたそうだ」
えっ、と香梨は尊の顔をうかがった。
そのラインの送信者らしき優男が目をそらしている。
「中止の理由をたずねても返信はない。香梨の連絡先はわからない。それで、女子部員の1人が部長に電話し、その部長がおれに知らせてきた。おれが香梨にかけてもつながらなかったじゃないか」
部長が星矢に電話したのは2時過ぎだったという。2時からの開演のさい、香梨はスマートフォンの電源を切っていた。香梨と連絡がとれないものだから、星矢は〈ミルキーウェイ〉に向かったのだろう。
「おまえといっしょにいるのが『マコト』だな」
えっ、星矢はとんだ勘違いをしている。「彼は新入部員の――」
「おかしいと思っていたんだ。香梨はこのところスマホのやりとりばかりしている。おれがのぞこうとすれば隠そうとする。その相手が『マコト』らしいな。おれに内緒でそいつと付き合っていたんだろ」
「違う」香梨は声をあげていた。「『マコト』は恋愛相談アプリのAI相談員よ。わたしがどうしてAIに悩みをうちあけていたと思う?」
香梨は感情があふれだした。星矢の浮気をずっと疑っていた。香梨はずっと悩み苦しんできた。そんな自分が逆に疑われていたなんて。香梨はくやしくて目の奥が熱くなった。
「――あいつは、おれの妹だよ」
えっ? 香織は顔を上げた。星矢の表情が拍子抜けしている。
明奈は2歳年下の妹だという。彼女は短大の2年生で、就職活動でたびたび上京している。そのさい、星矢のアパートに立ち寄ったらしい。兄妹はいっしょに会社説明会に参加したり、食事をしたりしていたそうだ。
「――嘘」香梨は頬を伝わる涙を感じた。
「本当だよ。調べればわかるじゃないか」
香梨は全身の力がぬけるのを感じた。なんのことはない。香梨と星矢はまったく同じ苦悩をかかえていたのだ。そんな星矢に親しみをおぼえた。
香梨は涙をぬぐった。星矢が天文サークルの元部長で、香梨の彼氏だと尊に紹介した。とたんに、尊の態度が変わった。
「彼氏さまでしたか。このたび天文サークルに入部いたしました、1年の天野尊ともうします。どうか、よろしくお願いいたします」
あとはお若い2人で、と尊が逃げるように立ち去った。
その場にのこされた香織と星矢はなんだか気まずかった。互いに言葉をさがしている。
「恋愛アプリって、どういうものなんだ?」
星矢が照れ笑いで、自分の勘違いを恥ずかしがっているようだ。
それは香梨だって同じだ。
アプリを開くと、香織が相談したままだった、AI〈マコト〉の返答があった。
『あなたが疑っている女性は、彼氏の近親者ではないでしょうか。同じ時期に就職活動をしているので、2歳年下の妹かもしれません。彼氏のアパートに立ち寄ったのは、兄の暮らしぶりをうかがっていたのでしょう』
AIってすごい、と香梨は感嘆した。
了