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3つのお題シリーズ

嘘つきドーナツ

作者: 安住 八重

「ちょっとマッサージ屋に行ってくる。りんののこと、お願いね」

「……うん」


 夏美の夫は不満そうに、もうすぐ二歳になる娘の世話を引き受ける。「またかよ」「なんでせっかくの休日に俺が」という声が聞こえてきそうだけれど、気づかないふりをした。


 こちとら休み無しで家事育児やってるんだわ。たまには協力してよ。

 心の中でそう毒吐きながら、夏美は玄関を出る。


 「ママがいい!」と泣くりんを置いていくのには少しの罪悪感があるけれど、私にも休みは必要だ。休み無しの育児は不要な苛立ちを生むし、りんへの愛情や優しさも満足に与えられなくなってしまう。夏美は身をもって、そうだと知っていた。


 黒いダウンジャケットに袖を通して、グレーのマフラーを巻く。冬の服装はどうしても色が暗くなりがちだ。気分まで暗くなりそうなのが嫌で、セーターは明るい色のものを買ったこともあった。


 だが原色系の色彩は着こなしが難しく、結局着るのは紺や黒など無難な色ばかり。夕焼けのように鮮やかなオレンジ色のそれは、今ではすっかり箪笥の肥やしである。


 産後太りに加え、育児によるストレスでよくお菓子を食べ過ぎてしまう夏美は、妊娠前よりもかなり体型が変わっていた。


 暗い色の服ばかり着るのには、コーディネートがしやすいという理由だけではない。収縮色の効果で少しでも痩せて見えたら良いという、ささやかな希望があったのだ。


 乗り込んだ車の中は、外の冷気をたっぷりと含んでキンキンに冷え切っていた。エアコンの温風を強めて、夏美は冷たくなったハンドルを握る。今は氷に触っているような気分だけれど、少しすれば温かくなっていくはずだ。それか、夏美の手の感覚が麻痺するのが先か。


 外はみぞれのような、冷たい雨が降っていた。普段雪が降ることが少ないこの街に住むと、みぞれでさえイレギュラーな事態に感じる。


 小さい頃の自分は、みぞれが降ると普段と違う空模様に気分が高揚していた。しかし三十年以上も暮らしている今では、夏美にとってみぞれはただの冷たい雨。むしろ気分が下がって、憂鬱な気分になりそうなものだった。


 さっき夏美は「マッサージ屋に行く」と言って家を出たが、それは真っ赤な嘘である。向かうのは、ある人の家。


 育児中の母親が子供を置いて遊びに行くには、なぜか真っ当な理由が必要だった。子供がいる父親が休日に友人と会ったり、一人で銭湯に行くことは許されるのに。


 夏美はそれが嫌だったけれど、どうしてもきちんとした言い訳を作ってしまう。ちょうど、腰痛持ちだから定期的にマッサージ屋に通わなくてはならない、というような。


 実家の母がよく買いに行っていたお菓子屋さんに寄り道して、五個入りのドーナツを買った。夏美がその人のところに行くときは、必ずドーナツを買って行く。いわば、お約束のようなものだった。


 いつものようにドーナツを購入して、まだ暖房の気配が残る車のドアを開ける。走り出してからしばらくすると、甘いドーナツの匂いが鼻をくすぐった。


 小さいけれど、小綺麗なアパートの一室。独身で家庭を持たないその人は、そこに一人で暮らしていた。


 ドアの側に、保瀬と書かれた表札が付いている。チャイムを鳴らすと、間もなくしてドアが開いた。


「はーいいらっしゃい!」


 そんな快活な声が聞こえて、一ヶ月ぶりに会う親友が嬉しそうな笑顔で迎えてくれた。彼女は夏美の高校時代からの友人で、えりかという名前だ。


「おじゃまします。これ、お土産」

「ありがとー。ふふ、どうなつのドーナツ」


 夏美の旧姓は洞口というので、えりかは洞口夏美を縮めて「どうなつ」と呼んでいた。結婚してから夏美の苗字が変わってからも、相変わらずあだ名は変わらない。それが夏美には嬉しかった。


 高校生のとき、夏美がドーナツを食べていたときに「どうなつがドーナツ食べてる! 共食いじゃん」と、えりかは大笑いしていた。


 そのネタを気に入ったえりかが、夏美に会うときに好物だというドーナツをよく持ってきてくれていた。だから最近夏美がえりかの家に行くときも、毎回ドーナツを持って行っていた。


 夏美がドーナツを持っていくと、えりかは女子高生のときのあの顔のまま笑う。そうすると自分まで高校生に戻った気がして、ほんの少しの間自分が人妻であり母親だということを忘れられる。それが、夏美にとっての一番のリラックス方だった。


「ま、そこら辺適当に座って。『ほんほろ』の最新刊あるよ」

「え、読む!」

 

 夏美はこたつの一角の座椅子に陣取ると、えりかが買ってきたという漫画を読み始めた。こたつの中はしっかり暖かくて、冷え切った足先にじんわりと熱が生まれていく。


 えりかも別の漫画を読んでいる。夏美はここに来てはこうして、漫画を読んだりゲームをしたりと好き勝手に時間を過ごすのだ。


 夏美は『ほんとにほろりと来ちゃった私』という少女漫画を読みながら、袋に入ったドーナツを食べる。


 えりかは貰ったお菓子をわざわざ皿に乗せるようなことはせず、袋のまま出す人だ。そのズボラさが、夏美には心地よかった。


 五つのドーナツは、二人で食べると一つ余る。夏美はもう十分と思えば丸ごと一個をえりかに譲ることもあるし、逆にもらうこともあるし、あるいは半分こして仲良く食べることもあった。


「最近どうよ? やっぱママって大変?」


 漫画から目を離さず、えりかが夏美に話しかけた。夏美も目でコマを追ったまま、それに答える。


「イヤイヤ期到来。お風呂も入んなくてさ、昨日諦めたわ」

「ああ〜」


 独身のえりかには、子育ての知識は全くない。アドバイスも自分の話もせず、素直に聞いてくれる人は貴重な存在だった。


「まー、りんちゃんもうすぐ二歳だっけ? 死ななきゃ良いんだよ、わかんないけど」


 えりかのように適当であることを信条として生きていれば、育児はもっと気を抜いて良いものになるのだろう。


 可愛い我が子に最大限尽くしたくなってしまう夏美だけれど、えりかと話すと楽になる。それはきっと、やはり普段無理をしているからなのかもしれない。


 一冊の漫画を読み終わって、「ありがとう、面白かった」とえりかに手渡した。彼女は自分のをまだ読み終わっていないようで、左手側にはまだ薄くページが残っている。


「えりかは最近どう?」


 週五日のフルタイムでバリバリ働くえりかは、夏美とは全く違う生活を送っているはずだ。前聞いたときは仕事はまあまあ順調で、来年度には希望の部署に異動できるかもしれないと話していた。


 えりかは漫画から顔を上げて、少し眉を下げて笑った。


「うーん、実はさ、今月頭に母親が脚立から落ちたんだ。それで今、入院してて……」

 

 不妊治療の末高齢でえりかを産んだ彼女の母親は、もう七十歳を過ぎていると聞いていた。ひとりっ子のえりかは平日も会社を早退して、母親の世話や家に一人になった父親のところに家事をしに行かなくてはならないらしい。


「だから、やっぱり人事に異動は無理そう。逆に暇そうなとこに回されるかもって感じ」


 いつも通りにカラリとした彼女の笑顔には、悲しさと、悔しさと、やるせなさが見え隠れしていた。


 自由に仕事に没頭できるえりかを羨ましいと思ったことは、一度や二度ではない。ただ、予想外の災難に見舞われて目標を失った彼女を、夏美が羨むことはとてもできなかった。


 その後テレビゲームをやって、えりかが出したポテトチップを食べて、二時間ほどでお開きになる。マッサージに行ったという建前上あまり長く出かけていると怪しまれるし、連日の仕事と介護で疲れているえりかを長時間拘束するのも良くないからだ。


「ありがとう、ちょっと、リフレッシュできたみたい」

「来たかったらいつでも連絡しなね? 週五勤務の私より、週七でママやってるどうなつの方が絶対きついんだからさ」


 たまの大事な時間は、この親友の厚意無しには成り立たない。夏美はたくさんお礼を言って、えりかの家を後にする。


「じゃ、また。ビールは出せないけど、ポテチとコーラくらいなら用意して待ってるから」

「ありがとう、またね」


 夏美はすっかり寒くなった車に乗り込んで、エンジンをかける。みぞれで濡れた窓をワイパーで拭って、ゆっくりとアクセルを踏んだ。


 これから夏美は「どうなつ」ではなく、りんの「ママ」になる。二時間ぶりに会う我が子は、どんな感じだろう。なんだか久しぶりに会う気がして、夏美の心は久しぶりに弾んでいた。

三つのお題は「真っ赤な嘘」「好き勝手」「マッサージ」でした。

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