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第19話 結婚どころか日本からいなくなっちゃうの?

 第19話を更新しました。


 中森さんの退場から一時間後。


 私はオフィス街の片隅にひっそりと佇む焼き鳥屋に来ていた。


 カウンターの他に四人がけのテーブルが二つしかない店内には炭火で焼かれた鶏肉の香ばしい匂いが漂っている。肉を焦がす音が食欲を誘い、頑固そうな店主の串捌きが目を楽しませてくれた。奥さんらしき女性店員も美人で着物がよく似合っている。雰囲気のとてもいい店だ。


「遠慮せずにどんどん食べてね」


 私と並んでカウンター席に座る武田常務はとても上機嫌だった。


 目の前には皿に盛られた焼き鳥と数種類の小鉢の料理、日本酒の二合徳利、それにお猪口。すでに何本かの串は食べ終えており、徳利も半分ほど空荷なっている。


 もう今日の仕事は済んだから、と半ば強引に私は武田常務に誘われてここに来ていた。


 聞けば春からの新規プロジェクトについて第一事業部で話をしていたとのこと。一段落着いたところで私と中森さんの騒ぎが始まったそうだ。


 まあ、騒いでいたのは中森さんなんだけどね。


「ところで」


 お猪口を軽く傾けてから武田常務が訊いてきた。


「大野さんは拓也(たくや)、いや三浦部長のことどう思う?」


 言い直したけど三浦部長と長年の付き合いのある常務だからつい下の名前が出てしまったのだろう。


 微笑みながら尋ねる常務の目は笑っていない。何気ない質問のようで実は結構真面目な話なのだと私は判じる。


「いい上司ですよ」


 まずは短く答えた。しかし、こんな言葉だけで三浦部長を語り尽くせるとは私も思っていない。


「うまく第二事業部をまとめていますし、それぞれの部員に対するケアもしっかりしてますね。その上で自身の顧客への対応もちゃんとしていてすごいなぁって思います」


 褒めすぎかな?


 いやいや、まだこんなもんじゃないよね。


 私が言い終えると武田常務が「ふむ」と息をついた。五十五歳にしては若くて美しい顔が微笑から何かを考えるふうなものへと変わる。


 私はその横顔を眺めた。


 何の免疫のない女子社員なら一瞬でくらっとしてしまいそうな麗しさ。彼のファンがここにいたら黄色い悲鳴を発していたに違いない。というか私が彼と二人きりで飲んだことがバレたら彼女たちの抹殺リストに載ってしまうのではないか。


 うん、これバレたらやばい。


 でも、明日には広まってるんだろうなぁ。


 何しろみんなの前で誘われたんだし。


「実は取締役会で三浦部長の話が出ていてね」


 こっそり秘密を打ち明けるような口ぶりで武田常務が言った。


「そろそろ彼にも海外を経験してもらおうかと思うんだ。定番だけどニューヨーク支社あたりでね」

「えっ」


 一瞬、時が止まった。この人は時間停止能力でも持っているのだろうか。


 というか海外って……。


 部長、結婚どころか日本からいなくなっちゃうの?


 あ、もしかしてそのためにお見合いをすすめたんじゃ?


 単身で海外赴任だなんて大変そうだもんね。


 うーん、私がついて行くって言えればいいんだけど、さすがに海外となると躊躇しちゃうなぁ。


 日本と同じようには生活できないだろうし。


 もうちょい私も若ければ「愛さえあれば何も怖くない」ってなったかもしれないのに。


 ……って、まだアラサーなんだけどね。


 それに私は三浦部長とそういう関係じゃないし。


 ただの上司と部下だし。


 全然そんな目で見られてないし。


 ううっ、泣きたくなってきた。


 よし、今夜は飲もう。


 じゃんじゃん飲もう。


「あー大野さん」


 困ったような声に意識を小突かれてそちらに視線を向けると苦笑いの常務の顔があった。


 やばっ、常務の存在忘れてた。


「話ちゃんと聞いてる? それとももう飽きちゃった?」

「……」


 常務。


 それ何だか彼氏に冷たくされて拗ねてる彼女さんみたいです。


 とは言えず。


 私は首を振った。


「あ、飽きただなんてそんなことないですよ。えーと、少し考え事をしてしまいました。ごめんなさい」

「考え事?」


 武田常務が促すように私を見る。数秒の沈黙がひどく長く思えた。炭火のぱちぱちという音がやけに大きく聞こえる。


 私が答えられずにいると常務は諦めたように「ま、いいや」とつぶやいた。


 彼は砂肝の串を手にすると一切れ食べる。もぐもぐと咀嚼して飲み込んでから話を戻した。


「通常は海外事業部を経て赴任していくんだけど三浦部長も三十五歳だからねぇ。決して遅い訳じゃないよ。でも、通例からすれば三十前にはある程度の道筋が出来上がってるもんだからね」

「そう、なんですか」


 薄々気づいてはいたが私はそう相槌を打った。確かに出世コースに乗るような人は早い段階でそういうルートを辿るものだ。三浦部長の年齢を考慮するとやや遅いとも言える。


 ただ、やっぱり彼がいなくなるのは寂しい。


 せっかく好きになったのに。


 仕事なんだし転勤があるのは仕方ない。それでもせめて国内で勘弁してもらえないだろうか。


「拓也の奴、こんな子が傍にいるなんて羨ましいなぁ」


 ぽつりと漏らした武田常務の言葉は小声すぎて私の耳に届かない。


 私は聞き返した。


「すみません常務、今のもう一回お願いします」

「いや、君そこはスルーしていいよ」


 武田常務の頬がほんのりと赤く染まる。うん、まあお酒飲んでるしね。


「しかし何だか君って可愛くなったよね。以前はそんなんじゃなかったのに」


 不意に投げられた言葉に私の胸がどきりとした。わぁ、何てちょろい心臓なんだろうと自嘲する。


 これ武田常務があまりにも美形だからだ。そうに違いない。


 自分でも苦しい言い訳にすがりつき、私はぐいとお猪口をあおった。熱いものが喉を焼き、身体の芯を温かくする。


 武田常務が訊いてくる。


「恋でもした?」

「……っ!」


 ぎりぎり吹き出さずにいられたが鋭すぎて危険な一言に私は激しく咽せる。


 涙目で彼を睨むとこれまでで一番の笑顔で応じられた。その表情の美しさに喉までこみ上げていた文句が引っ込んでいく。こういうのは何かずるい。


「まあまあ、そんな恐い顔しないでよ。君だってまだ若いんだし恋くらいするでしょ」

「わ、私は別に」


 顔に熱が集まってくる。そういや私も飲んでいたんだっけ。


「大野さんは可愛いね」


 悪戯っぽく武田常務が私にささやく。


 その眼差しはとても優しいものだった。


「いいなぁ、あと二十年若かったらなぁ。お持ち帰りするんだけどなぁ」

「……」


 わぁ、常務。


 それ他の子に言ったら本気にされますよ。ファンの子なら大喜びでお持ち帰りされますよ。


 私は一段速くなった鼓動をごまかすようにつくねにぱくついた。


 お、これは美味しい。かなり当たりだ。


 この店、いつかまた来よう。


「大野さんって鶏肉好きだったりする?」


 興味ありげに問われた。


 私は食べかけのつくねを持ったままこくんと肯定する。なぜか嬉しそうに武田常務が目を細めた。


 どうして私が鶏肉好きってことを喜ぶのだろう。


 意味がわからず頭に疑問符が一つ浮かんだ。

 

 


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