40.別館2階の応接室、地下の懲罰房
冷たい風の流れる湿地帯。
泥炭層になりきっていない腐植の深みに足を突っ込まないよう、先導役の騎士の足跡に足を重ねるように踏み出す必要がある。せっかくの景勝地だが、それゆえに周囲の景色を見る余裕がない。湿度の高さと気圧条件が組み合わさったせいか、本日は一帯に薄灰色の霧が不気味に立ち込めており、どちらにせよ見えるものもないのだが。
そのおかげとでも言うべきか、足元ばかりに目を向けているので、そこに生えている見慣れない植物などにはよく目を向けられた。まあ、この世界の花なんかはわかんないので、どれが固有種なのかはさっぱりだが。
青紫色の花以外は採取しても大丈夫という話なので、ニアさんのお土産に白い花を一輪摘んでいくことにした。アイテムストレージの魔法を利用すれば、移動の邪魔になることもない。
歩いていたら空気中の水分が髪を濡らしてきそうなほどの湿度だが、こんな湿度の中でも羽虫が舞うことがあるようだ。地味だがメタリックなハエっぽい虫は、俺たちの周りを2~3周ほど飛び回った後で、赤い柔毛のようなネバネバが生えた食虫植物の上に停まった。哀れ、ハエっぽい虫…。
「この辺りから、さらに警戒するようになさい。近くに大きな水たまりがあるので、地面がさらにユルいのです。そこさえ抜ければ、すぐに見えてきますよ。」
「怖いっすねぇ…。」
「ご安心を。私の足跡から半径30㎝ぐらいは体重をかけても大丈夫な地面です。むしろ、慎重になりすぎて転ばないようになさってくださいね。」
防衛兵長の部下の中でも一番この湿地に詳しいのだという男性騎士が、後ろを振り返りながらそう言った。彼は、ガンジキ? カンジキ? どっちだっけ。なんというか、接地面積を増やして沈み込みを防ぐ“雪国のわらじっぽいやつ”みたいなのを履いている。歩きにくそうに見えるが、彼の挙動は非常に素早い。
「ジュリア、そこは泥濘が深そうだから気をつけなさい。ほら、手を。」
「あら、叔父様。ありがとうございます。…それにしても、どうしてこんな遠くに懲罰房を…。ふつう、駐屯所の地下とかに作るものなんじゃないのかしら。」
ウィリアムさんに手を借りて底無し沼のようなぬかるみを飛び越えたジュリエッタさんは、そう言って、濡れぼそってすっかり元気をなくした縦カールのおくれ毛を払った。
なんとも足場の悪い遊歩道には、スカスカになった木の手すりぐらいしか設置されていない。敷石を敷いてもだんだんと沈んでいってしまうし、木で枠を作ってもすぐ虫などに荒らされてしまうらしく、舗装が難しいのだそうだ。
「このあってもなくても同じような舗装に、この画一的な景色です。土地勘のある者でも湿地帯から抜け出すには一苦労なのですよ。逆に拘束場所としてはもってこいなのです。普段は我々も厩舎のワイバーンを使って行き来するぐらいですからね。」
ジュリエッタさんの愚痴に丁寧な答えを返したガイドの騎士は、そう言って額の汗を拭った。
俺たちが向かっている先は、ロミアさんが拘留されているのだという懲罰房のある施設。彼は到着時間が1人だけ遅れたことを不審がられ、事情聴取のためにとっ捕まってしまったらしい。うんちしてただけらしいのに。かわいそう。
ともかく、彼が会議の会場に現れなかったのはそんな理由である。
「しかし、少し不思議に感じますな。ヤズカチクキアルフニクス長官閣下は遅刻に関して寛容なご様子でした。遅刻者に厳しい第4師団にしても、警告もなしにいきなり捕縛なんて前例は聞いたことがありません。…もしや、第6師団のオーカ卿の件に関係が?」
ウィリアムさんが声を顰めながらそう言った。小声にならなくても、この湿原の中で俺たち以外に話を聞いているのは野生動物たちぐらいだろう。
「ふうむ…。そうだ、とも言えますし、そうではない、とも言えます。まあ、故オーカ卿及び故バルガス訓練生の件があったために、非常に厳しい警戒態勢が敷かれているのだとお考えください。なんせ、この辺りは悪者共が好むようなジメジメした空気なものでして。」
冗談めかしてそう答えた男性騎士は、おおっ、と声を上げて前方を指さした。明らかに何かを誤魔化されたようだが、目を着けられないためにも下手に正義感を出して追及したりはしない方がいいのだろう。彼らの闘争に巻き込まれるのは御免だ。
「今日ほど霧が深いと、この距離まで近づかないと見えませんね。こちらが、駐屯所の別館になります。」
50mほど先で、白い漆喰の壁がおどろおどろしくも暗い影を浮かび上がらせている大きな2階建て。
湿地帯の数少ない岩場の上に建てられたその真っ白な建物こそが、目的地の駐屯所別館らしかった。
▽ ▽ ▽
「…こちらです。潔癖症などでなければ、こちらのタオルを使って泥などを落とされると良いでしょう。」
「これはどうも…。案内、感謝いたします。」
純白のタオルを人数分手渡してくれた茶髪の職員に礼をした案内役の騎士。彼の仕草に倣って、俺たちも騎士式の敬礼を送った。
別館へと招き入れられた俺たちが連れていかれたのは、『←懲罰房』のパネルが貼られた地下への階段。
…ではなく。むしろ逆の方向、つまり上階へと登る階段だった。
どうもこちらのパネルには『←応接室』と書かれているように見える。それに、突き当りの方から「ガハハッ!」とか「あははは!」というような、非常に朗らかな笑い声が聞こえてきているようだが…。
「…後輩ちゃん、なんだか、『怒られが発生』しそうな気がするんだけど。あなたはどう思う?」
「うーん…。なんつうか、すごい和やかっすね…。」
この前教えたばかりのネットスラングを早くも上手く使いこなしているジュリエッタさんと視線を交わし、湿地帯を案内してくれた騎士の顔を見る。
うわ、青筋…。
「…ふぅ! 大丈夫、大丈夫ですとも。きっと、リラックスさせることによって聴取をスムーズにしようと試みているのでしょうな。長官殿の部下には、なんというか軽薄で不真面目な方も多いのですが、底意地の悪い方々ばかりですので。…いい意味で、ですよ? 本人たちには言わないで下さいよ?」
ロミアさんの聴取に当たっているのは、どうやら長官派の騎士か職員らしい。流れるようにライバルたちをdisった彼は、その流れのままにドアをノックした。
にわかに静まる応接室内。一瞬の静寂の後、『どうぞお入りください。』と声が返ってきた。
「失礼します。本官は防衛兵団湿地帯魔物群対処係室長のゲイン・ヴェルフェスタです。ロミア・モンテルジュ卿との面会を希望されているジェフスフィア卿、キャプレット卿、クラーダ卿をお連れしたので、面会許可をお願いいたします。」
「かしこまりました、ヴェルフェスタ卿。そのまま入室していただいて構いません。」
変声期前の少年のような、いや、ボーイッシュな少女のような…? まあいい、ともかくそんな感じの中性的な許可が聞こえるや否や、ヴェルフェスタ卿が建てつけの悪そうな扉を静かに開いた。
まるで誕生日会のような飾り付けが施されている応接室。中央に置かれているのは芋のような香りのする紅茶の入ったティーカップと、『トリークタ・タート』とかいうこの国の伝統的なケーキと、それらが乗った白いテーブルクロスの大机。
その大机を囲んで5人ほどが座っており、めいめいにすまし顔をキメこんであらぬ方向を向いている。だが、一番端っこに座っている紳士のヒゲにはケーキの欠片なんかがくっ付いている。ベタだ。
しれっとその中に紛れ込んでいるロミアさんは一旦スルーしておく。フォーマルな服装の男性…男性? 女性かもしれん…。ともかく、彼らの中で、中世的なエルフの職員だけがこちらに顔を向けてにこりと微笑んだ。
「皆様、ようこそいらっしゃいました。」
「何故、モンテルジュ卿がこちらにいらっしゃるのですかな?」
穏やかに微笑むエルフ職員と青筋を立てるヴェルフェスタ卿の表情は対照的だ。職員の袖には例のカフスボタンが煌めいているので、立ち位置的にも対照的なのだろう。
同時に口を開いた両者は、隙を伺い合うように沈黙した。うーん、達人の間合い。
先に均衡を破ったのは、エルフの職員の方。口元に扇子を当てた(推定)彼は、笑顔のままで恐縮しているロミアさんの顔を見た。
「…ふふ。到着して早々、あの湿地を抜けていらしていただいただけでも、ロミア君にとっての懲罰としては十分ではありませんか。」
ゆったりとした調子で火に油を注いだエルフ職員。うーん、本当にこの人の性別が分からん。
「ふむ、それでは何もしていない本官や後ろの彼らも懲罰を受けたことになるのですかな? 懲罰とは、被罰者と無実の者の差別化という意味を持っているものかと思っておりましたが。その辺り、あなた方文官の専門分野なのでは?」
青筋のわりに冷静そうな顔色のヴェルフェスタ卿は、ぐるりと部屋の中で歓迎会を開いていた職員たちの顔を睨めつけた。ああ、これ冷静なんじゃないわ。キレすぎて顔面蒼白になってるだけだわ。
「おっと、そういうつもりはなかったのですが…。確かに、仰る通りですね。ロミア君、申し訳ないのですが、懲罰房に戻っていただけませんか? 既に話がついたこととはいえ、彼のような方々を納得させなければなりませんから。表向きのパフォーマンスのようなものだと思って、ね。」
そういうのは裏で話す事なのではないか。ヴェルフェスタ卿に対する煽りなのだと考えればバッチリ効いている様子だが。
こちらに目を向けて何か言いたげにしていたロミアさんだったが、ヴェルフェスタ卿の気色に圧されたらしく、黙って職員に連れられて行った。うーん、まだ腹が痛いのだろうか。ちょっと顔色が悪そうだが…。
…あれ? どうせ面会に来たんだし、そのまま居てもらったら良かったのでは?
「…クラーダ卿。団に入ったばかりのあなたにとっては非合理的に感じられるのかもしれませんが、『被罰者』が『懲罰房』の『窓越し』に面会することに意味があるのですぞ。」
「何も言ってな…いえ、理解しました。」
長官にしてもこの人にしてもそうだけど、ここの駐屯地の人たちは読心術を心得ているのだろうか? まったくヒヤヒヤさせられる。
「おや、もう行かれるのですか? 新任のお3方は、せっかくお疲れのところをいらっしゃったのです。いいお茶が入っていますし、休憩していきなさいな。このタートも絶品ですよ。」
名残惜しそうなエルフ職員の艶やかな声色と旨そうな艶のキャラメリゼに後ろ髪を引かれそうになる。だが、ヴェルフェスタ卿の圧がおっかないので、そそくさと応接室を後にした。
さて、部屋から出てすぐの廊下。変な建築なので、短い廊下の先はすぐに階段になっている。
「ねえ、後輩ちゃんと叔父様。ロミアの様子がおかしかったみたいなんだけど、あなたたちはどう思う?」
そんな階段の眼前、ジュリエッタさんがおもむろに口を開いた。
こちらとしては、どうと言われても、叱られてしょんぼりしているのか体調がまだ優れていないぐらいにしか見えなかった。だが、ロミアさんとの関わりが深いウィリアムさんにとっては、彼女の言葉のうちに共感を覚えるところがあったらしい。
「そうだな…。師団長にお叱りを受けてもケロッとしているあいつが、懲罰房に入れられたぐらいであそこまでしょげるものだろうか?」
「ふうむ…。もしや、金羽どもに勧誘を受けたのやもしれません。彼らは弱っている人の弱みに付け込みますからね。遅刻されたモンテルジュ卿なんぞは怠惰な彼らの絶好の獲物。罪悪心を煽った後で甘言を…っと、失礼。諸君らを我らの小競り合いに巻き込むつもりはないのですが。」
ウィリアムさんの言葉にヴェルフェスタ卿が口を挟んできた。彼もまた、2人とは別の切り口で気になることがあったらしい。
ふとここで気付いたのだが、防衛兵長陣営の色眼鏡がかかった視点だと、長官陣営の人々は怠惰で不真面目といった感じなのだろう。逆に長官陣営の眼鏡にはきっと、防衛兵長陣営の人々を旧態依然で堅苦しく融通の利かない者達というふうに映るのだろうか。
ともかく、少なくともヴェルフェスタ卿に限っては俺たちを両者の闘争に巻き込むつもりがないらしい。まあ、任期付きの俺たちを味方に引き入れたとて、いずれはいなくなるわけだもんな。
同時に、口約束ですらないただの意思表示なので、必ずしも信じ切ることが出来るわけでもないのだが。
「はは、失礼を。要らぬことを話してしまい、諸君らの休憩時間が少なくなってしまいましたね。改めて、モンテルジュ卿との面会に向かいましょう。さあ、こちらだと思います。」
なんとか長官陣営の職員たちへの怒りを振り切るように笑ったヴェルフェスタ卿は、ようやく本題の方に足を進めてくれたのであった。
さて、当の面会の様子に関しては、特筆すべきようなところもなさそうであった。
『企み事をしているというあらぬ疑いを掛けられてしまったが、その疑いも晴れた。明日の朝にはみなと一緒に執務に当たることが出来るそうだ!』と、顔色が戻ったロミアさんが鉄格子越しに言い、『ジュリアには今晩、寂しい思いをさせるなぁ。すまん!』と付け加えてヴェルフェスタ卿の失笑を買っていたことぐらいだろうか。
「クラーダよ、今晩はジュリアの事を頼んだぞ。」
「へっ!? NTRせってやつすか?!?!」
とか思っていたら、急にどえらいのをぶっ込まれてしまった。彼氏側に頼まれたこととはいえ、せめて初めては清純な感じで捨てたかった。あと、この世界基準では成年だとはいえ、ジュリエッタさんをお相手にするとなると背徳感がすごい。
嫌とは言っていないが。別に。
「ねと…? 何の話かは分からんが、殺すぞ。」
「こわっ。」
脳内でふざけていたらそれが顔に出てしまっていたらしい。ロミアさんも怒ることがあるんだねぇ。
「ほら、ジュリアは刺客共に狙われているだろう。だが、それがしは今晩ジュリアを守ってやれん。だから、いちばん信用が出来て腕の立つお前に護衛を依頼したいのだ。」
「あっそういう。」
まあわかってはいたが。
この町中で、しかも騎士団の駐屯地で彼女の事を狙ってくる者がいるとは思えない。だが、死んだはずの同僚が騎士団のお偉いさんになっていたり、ワイバーン爺が男の娘に変身したりする世の中である。念には念を、ということなのだろう。
防衛兵団には俺以上に腕の立つ人がいそうなものだが、ここで借りを作ると面倒なことになりそうだし。
とはいえ、俺も野宿の連夜で寝不足気味だ。久々の屋根の下の寝床をじっくりと堪能したいところだが。
「報酬も払う。ざっとこんな感じでどうだ? もちろん、銀貨だ。」
「俺とロミアさんの仲じゃないっすか。ジュリエッタさんの眠りは誰にも邪魔させないっすよ。」
ヴェルフェスタ卿の失笑がロミアさんからこちらに向いたような気もするが、きっと気のせいだろう。なんせ、指5本には抗えない。
補足というわけではありませんが、懲罰房の外観について。
6畳間ぐらいの縦長の部屋であり、地下室なので窓はありません。鉄扉には格子窓が入っており、これが換気口の役割も果たしています。扉の反対側の壁にも直径15㎝ほどの通気口が開いていますが、かつて悪さを働こうとした者がいたために、こちらにも頑丈な鉄格子が嵌められています。隅にはパーテーションで区切られた汲み取り式便所と洗面台があります。風呂はありません。
家具としてスプリングの固いベッドと机、世界樹教の聖書1冊だけが立てかけられた本棚があります。かつて他の駐屯所の懲罰房で魔導書をこしらえて壁を破壊した者がいたため、ノートやペンなどは置いてありませんし、持ち込みも禁止されています。
基本的にものすごく殺風景です。職員たちが要らぬ気を利かせたりしなければ。




