28.腐臭籠る洞窟
森の奥に進むにつれて、文明の気配はどんどんと薄まっていく。農用道はさらに荒んでいき、代わりにありのままの自然が顔を出してくるのだ。
…と言いたいところだが、意外と森縁部とその奥の景色は変わらない。
集落の住人達は農用道の奥の探索を完全に諦めていたらしい。というのも、たまに彼らが肉を狩る入り口付近以外は、基本的に人の手が加えられていないのだ。そのため、比較的周囲環境の影響を受けやすいと言われている森林の周縁部であろうとも、植生の様子が森林の奥部と殆ど代わり映えしないのである。
どれだけ分け入ってもひたすら面白みのない悪路なので、オリビアもフェートレスも少々うんざりしてきた。だがまあ、進まないわけにもいかない。ひたすら鉈を振るって藪を漕いだ。
そうして3時間ほど草木をかき分けているうちに、2人は足を止めることとなったのであった。
「着きましたか。それにしても、見事な断層ですね…。」
ついに農用道が切れ、木々の連なりが一気に開けた場所に出た。
そこに木々が生えていなかったのは、切り立った崖になっていたためである。
露出した土の壁面には地層がミルフィーユのような斜め縞模様を描いており、たまに土に交じっている岩や礫が崩落してきそうな危うさを醸し出している。だが、長い月日を経て押し固められた砂岩層はそれらをしっかりと挟み込んで離さないのだ。
この露出した地層面に関しては、集落の方からでも視認できていた。道中で身を隠せそうな家屋が発見されなかった以上、拠点にできそうな洞窟が存在するとすればこの崖の下部であろうと推測されたので、この崖付近がひとまずの目的地だったのである。
「フェート、疲労は大丈夫ですか?そろそろ休憩にしようかと思っているのですが。」
「ご配慮、に感謝します…。」
オリビアはフェートレスが歩きながらお腹をぐうぐう鳴らしていたことに気づいていた。そして、それに気づかれていたことにフェートレスも恥じ入っていたのであった。
植物の繊維を編んだレジャーシートを丁度よさそうな平地に敷いた2人は、そこで昼食を摂ることにした。
今日のために張り切ったのだというフェートレスは、自信満々に巨大すぎるランチボックスを開いた。中にこれでもかと詰め込まれた料理は常識的に考えて2人で食べられる量ではない。ひとまず食べられる量だけ食べて、残りはオリビアが苦手な氷魔法で冷やしておくことにしたのだった。
さて、昼食を終えた2人は崖沿いに建造物や人為的痕跡が無いか調べ始めた。
褐色の岸壁を注意深く観察すると、たまに螺旋状に巻いた古代貝の化石が発見される。実はこのあたり一帯は数万年前の海底で、プレート運動による隆起に伴って地表に現れたのだ。例の30年前の地図にはなぜかそのような注釈がなされていた。
「道中の中途半端な隠蔽から察するに、犯人たちは素人だと思います。必ずどこかに痕跡があると思いますから、違和感のある場所があったら報告してください。ああ、再三言いますが、離れすぎないように、ね。」
「違和感…? わ、わかりました。」
そんな調子でしばらく探索していると、地図にも記されていなかった洞窟が2人の目の前に現れたのであった。洞窟の入り口は周囲の地形にカモフラージュされていたが、感覚の鋭いオリビアからすればに浮き出して見えたほどだった。
「本当、にあった…。地図、にも無かったのに…。」
「まあ、30年前の地図ですからねー…。」
驚いた顔で振り向いたフェートレスに対し、オリビアは肩を竦めながら返した。そして、岩肌に偽装された扉を鞘に納めた鉈で叩きながら彼女の疑問に答えた。
「おそらく、元はテツグマか何かの古巣穴だったところを再利用したのでしょう。風化が進んだ岸壁ですし、彼らからすれば砂場みたいなものですよ。」
この広い世界には、溶岩の中で暮らす魚や空中に浮かぶクラゲが存在しているのだ。30年もあれば岩の中に複数人が住めるだけの広い洞窟を削り出せるクマがいても当然だろう。
オリビアはそれからしばらく壁を叩いたり押したりして中に罠の有無を確認していたが、やがて首を傾げながらそこを離れた。
「これ、たぶん中で何人か死んでいますね。おそらく口封じにでもあったのか…。他でもない貴方を連れてきたのは正解だったのかもしれませんね。」
さすがにここまで音を立てているのだから、中に何者かがいれば2人の気配に気付いていることだろう。しかし反応は無い。つまり、中には既に誰も居ないのか、待ち伏せされているのか、オリビアが推測した通りなのかといったところだろう。
ちなみにオリビアは、待ち伏せだけはないだろうと断言した。
というのも、彼女は剣士であるだけに、気配に対しては人一倍敏感であるという自信を持っているのである。気配の中でも殺気というものは特に感知されやすく、よほどの達人でも完全に消すことはできないものなのだ。
オリビアの鋭敏な感覚でもこの洞窟の中からの殺気を感じられなかったし、むしろ不気味なほど静まり返っていてもぬけの殻の様相を呈していたのである。
では、なぜ“中で死んでいる”と結論付けたのかというと。
「…人が腐った臭い、がします。それに、首、の後ろ、がピリピリします。」
フェートレスが煤で汚れた鼻をひくつかせ、両手で首の後ろを押さえながら同意した。
おそらく密閉状態にあると思われる洞窟内部だが、人為的に封鎖している以上、微妙な隙間が空いている。そして、その隙間から腐臭交じりの淀んだ空気が漏れているのである。
首の後ろがピリピリするという表現に関しては理解できなかったが、どうやらそれはフェートレスの血筋に関係した知覚なのだという。
中の死体がゴースト化している可能性を考慮し、フェートレスは手早く魔よけの儀式を行った。2人の信仰する宗派は違うが、主神は同じなので魔よけが効果を発揮するのである。
「ふうむ…。それにしてもこれ、どうやって外部から開けるのでしょう? 取手のようなものは見つかりませんし、機構の類もなさそうですし。」
いったん中の惨状を考察するのはさておき、まずは2人の侵入を拒んでいるこの扉である。反響音から向こう側が空洞になっているらしいというのはわかったが、押してもびくともしないし凹むようなところもない岩の塊である。
考えられるとすれば、普段は岩魔法使いが開閉していたといったところか。
「まあ、律儀に彼らのやり方に付き合う義理もありません。壊しましょうか。中に毒ガスが充満しているかもしれませんから、少し離れていてください。」
「…壊せる、のですか?」
フェートレスはオリビアが平然と言い放った言葉に驚愕した。彼女もまた扉の頑強さを確認していただけに、集落に戻って人を呼ぶべきだと考えていたのである。しかし、目の前の騎士はここにいる2人だけで岸壁を破壊するだけの手段を持ち合わせていると豪語したのだ。
…まあ本当の話をすると、あれだけ罠の可能性を示唆しておいて破壊するという強引な選択肢に直結したことに驚愕したという方が強いのだが。フェートレスは知らなかったが、これを世間一般的には脳筋と呼ぶのである。
「ふふ、クラーダから“メスゴリラ”なる二つ名を貰いましたからね。この程度の壁、ペードール紙(※藁半紙の一種、ペードール村の名産品)のように斬り裂いて見せますとも。」
「メス、ゴリラ…?」
「なんでも、密林に棲む強くて心優しき聖獣なのだそうで。聖獣に例えられるというのは中々光栄なことではないですか。」
そんなことを吹かしつつ、オリビアは鉈を鞘から抜いた。なんと本当にこの岩壁を斬るつもりなのである。当然のことながらブロードソードの方が使い慣れているが、万が一にも刃毀れさせるわけにはいかないために鉈なのだ。
「離れぬようにと言った手前ではありますが、脇の方で5mほど離れていてください。中にたまっていた毒ガスが溢れてきたり、矢が飛んでくるかもしれませんからね。」
犯罪組織の末端を尻尾切りで始末する際などに、密室を作り出して毒ガスを作用させるというのはよくある手口だ。というのも、始末対象を一網打尽にできる上、残留するタイプのガスを用いれば追手の者もついでに始末できる可能性があるためである。
つまるところ、切った尻尾をベイトにしたトラップだ。
「フォーサイス卿、もどうか、お気をつけください。」
「もちろんですとも。」
岩陰に隠れてひょこっと顔を覗かせたフェートレスにしっかりと頷き返し、オリビアは右手に持った鉈をためしに軽く振った。
厚みのある刃の重心は愛剣の業物に比べるとかなり偏っている。だが、達人と斬り合うわけでもない。たかが岩の壁ごとき、何の変哲もない鉈で十分なのだ。
鉈と自身の腕の様子を確認したオリビアは、岩壁に対して半身に構えて力を溜めた。そして一瞬呼吸を止めた後で無骨な刃を振るった。
一秒にも満たぬ間に放たれた剣閃は格子を描くように硬い岩を辿り、それをいくつもの小さな直方体型のブロックに変えてしまった。
「ッぐぅっ!?」
そして、岩の扉が斬り開かれると同時にオリビアは顔を押さえながら仰け反った。そのまま脱兎の勢いで森の方まで後退すると、蹲って咳き込み始めた。
「フォーサイス卿!? だ、大丈夫ですか!?」
すわ本当に毒ガスの罠が仕掛けられていたのか、と慌てたフェートレスは背中の巨大な背負子を下ろして中から薬箱を取り出した。そして他の荷物を置いたまま彼女の下に駆け寄ろうとして、剣星とまで呼ばれた女がへたり込む理由に気づいたのであった。
「うわっ、くさっ!?」
上瞼と下瞼の間、露出した眼球と狭い粘膜に刺さるような刺激臭。洞窟との間で薄まっているはずなのに、その濃密な腐敗臭の片鱗は鼻腔に充満し、喉の奥を圧迫して嘔吐を誘う。
仕事柄、この手の臭いには慣れていたはずのフェートレスでも一度はえづいてしまったほどだ。だが彼女はさっき食べたばかりの昼食がもったいないからと酸っぱくて苦い塊をなんとか飲み込んだのであった。
ダイレクトに籠った腐敗した死臭を浴びてしまったオリビアはもっとひどい。おそらく中に死体があると予想していただけに多少の悪臭は覚悟はしていたが、人体の構造上、根性だけでどうにかなるものでもないほどの強い臭気であった。
乙女の意地で嘔吐こそは堪えたものの、しばらくは体に染みついた腐臭で気分が悪くなり、軽い頭痛に悩まされる羽目になったのであった。
▽ ▽ ▽
洞窟内の酷い腐敗臭のために碌な調査ができないと踏んだオリビアは、引き返してアイラに協力を頼むことにしたのだった。
これは別にアイラが腐敗臭に耐性を持っているという話ではなくて、彼女の防壁魔法が役に立つと考えたためである。防壁魔法の中には、外部からの空気を通す一方で物理攻撃や生物の侵入は選択的に防ぐことができるという防壁も存在しているのだ。
これを利用して洞窟の入り口を封鎖しつつ、中に溜まった空気を循環させて拡散させようと考えたのである。
「というのは建前で、本当はお風呂に入りたいだけなんですけどね。ああ、臭い臭い…。」
「ゲホッ…。そう、ですね。今日は宴、ですから。」
軽口をたたいたオリビアにフェートレスも同意した。元々、宴会に間に合うように何か手掛かりが発見され次第、集落に戻る予定だったのだ。この7体の死体が転がる洞窟はほとんど集落人攫い事件の回答である。ここを発見できただけでも大きな収穫だ。
今日はひとまず洞窟の外から視認できる範囲の内部情報を集め、測量や地形情報を地図上で更新するに留めておこうと決まったのであった。
口元を布で覆いつつ、入り口の採寸や経緯度の測定、周辺環境の状況確認などを行う。この洞窟は地図上でおそらくこの辺りに拠点があると目星をつけていたエリアから300mほど離れた場所に位置することが分かった。
「私もまだまだということですね。調査部の者ならばぴたりとポイントすることができるのでしょうが、………おや?」
ぶつくさと独り言を呟きつつ気を紛らわせていたオリビアは、洞窟の内部にふと目を向けた。
洞窟の内部には生活ができそうな家具が整えられており、木製の椅子やバインダーが何冊も立てられた本棚が確認された。そして、2人分の死体がマホガニー材の机に突っ伏していた。おそらくどれも死臭が染みついているので販売して処分することは叶わないだろう。
彼女が注目したのはそのどれでもなく、壁に貼られた小さな計画書だった。厳密には計画書そのものというよりも計画書の右上に捺されていた判である。
入り口からしか見ることが出来ない上、薄暗い離れた壁にある小さな判ゆえに見えにくかった。だが、そのカラスの形をした不気味な赤い判は妙に目を引いたのだ。
「カラス…、そういえば…。」
オリビアの脳裏にオーカ卿の言葉が過ぎったのであった。
オリビアは「頭の中でいろいろ考えているギャグ要員」というキャラクターを予定していたはずなのに、主視点に据えたせいでシリアスキャラ寄りになってしまいました




