6.騎士の国の銭湯
身体の痛みで目が覚めた。
現在時刻は午前9時半。
帰宅してすぐ気絶するようにベッドに突っ伏したせいで、首や肩を寝違えてしまったようだ。
この身体は外的ダメージに対して無類の強さを誇るが、内因性のものに関しては耐性が低いのだということがわかった。
たぶん内臓機能も強くはないだろうから、毒なんかにも弱いのではないかと思う。
バカなので風邪は引きにくい……という冗談はさておき、大病を患ったことは無いので免疫力は高い方だと思うが、感染病にも普通に罹患するだろうし、生活が乱れれば生活習慣病なんかも患うだろう。
死因がカフェイン中毒だろうって? それはまあ……。
とまあ、そんなふうに痛む首を労わって、少し右下に俯きがちになりながら寝間着のまま部屋を出たら、ちょうど正面の部屋に住んでいる第6師団所属のおじさんに出くわして変な目で見られてしまった。
ちょっと世間話をしてみると、彼ら第6師団は明日から海外へと派遣されるのだそうだ。
まあ、この国は島国なので、他国は必然的に海外になるわけだが。
…ダジャレはやめとくか。
今回の遠征では演習を通じて友好国との連携を深めるのが表向きの目的らしい。
なのだが、敢えて聖アルビー騎士団の中でも一番冴えない師団と言われている第6師団を出向かせることで色々と腹芸をする算段があるらしい。
曰く、一番微妙と称される第6師団といえども戦力が高いということを示して国力の高さを誇るという目的があり、その一方で強力すぎる部隊を送らずに他国と足並みを揃えることで角が立たないようにする狙いがあるのだとか。
「キミんとこは師団長からして派手に強いから、そういう面倒くさいことには巻き込まれないだろうねえ。ボクは海外遠征がけっこう好きだからいいんだけど、派手なのはちょっと羨ましいよ。」
言動のわりに現状に満足していそうなおじさんは、俺のためにお土産を買ってきてくれると言ってくれた。
第6師団の旅路が良きものになることを祈っておこう。
さて、朝の仕度を続けよう。
そういえば、昨日は服だけ着替えて寝落ちしてしまったんだった。
屯所で人攫い達を捕縛した証言をした時、濡れタオルを借りられたので、多少の汚れは拭えた。だが、風呂には入れていなかったのだった。
この部屋には浴室が無いので、寮に共有のシャワー室を使う必要がある。
だが、今の時間は清掃が入っているので使用禁止だったはずだ。
服だけ着替えて駐屯地近くの銭湯にでも行ってみるか。
あと、ソードテイルウルフの毛や血脂が付着してしまったベッドのシーツも洗濯しておきたい。
クリーニング業者は居ないので、自分でやらないといけないのだ。
昨日の服も洗わないといけないし、忘れないうちに穴が開いてしまった所を繕っておきたい。
やることが多いなぁ…。
「旦那様、おはようございます。さっき叔母様から昨日は大変ご活躍なさったとお聞きしました。…それにしても、今日の髪型は中々に決まっておいでですね。」
と、外出する準備を進めていたら、ニアさんがいきなり部屋に入ってきた。
彼女には合鍵を渡して、好きな時に出入りしてもらうようにしたのだが、せめてノックぐらいはしてほしいと思った。
なんせ、彼女も指摘したように今の格好は大分だらしないもので。
「あ、おはようございます。ちょうど風呂屋に行こうとしてたんだけど、留守番をお願いしてもいいですか?」
内臓と一緒で心も強化されていないので、ニオイについて何か言及されたら泣いちゃうかもしれない。
メンタルを損なわないためにもちょっと彼女から距離を取ることにした。
「ほほう、お風呂に。どれどれ…?」
しかし、逃げれば逆に彼女はじりじりとこちらに距離を詰めてこようとする。
なんだかアリクイの威嚇ポーズみたいだ。
「いや、ほんと近づかない方がいいっすよ獣臭いんで。」
さっき手首の臭いを嗅いでみたら、思わず野犬がそこに居るのかと錯覚してしまった。
あんまり考えたくはないが、全身からこの臭いを立ち昇らせているのだと考えると…。
「左様ですか。おや、丁度こちらに脱ぎたてパンツが。すー……はー……んん、くっさぁ♡」
「えぇ…?」
これはさすがに予測できなかった。
エキセントリックな言動をする女の子だとはうすうす思っていたが、まさかさっき替えたばかりの下着をわざわざ洗濯カゴから引っ張り出してくるとは思うまい。
しかも、それを被って恍惚とした表情で深呼吸し始めるとは…、予想外も良い所だ。もしかして彼女は匂いフェチなんだろうか?
ご主人は怯えているよ…。
「さて、冗談はさておき。よろしければ、旦那様がお出かけの間に私がお洗濯をさせていただきますが、いかがでしょうか?あと、思ったよりも香っていなくて残念でした。」
急にいつものつまらなさそうな真顔に戻った彼女は、そんな提案をしてきた。
冗談で人の下着を被らないでほしいものだが。
あと、感想要らないです。
「って、ええっ、大丈夫…?」
非常に魅力的な申し出ではあるが、こちらの胸中には一抹の不安が渦巻いている。
料理が得意だとは言っていたが、洗濯が出来るなんて話は聞いていない。
失礼だとは思うが、彼女の不器用さは既に存じ上げているので、信用していいものかわからない。
「ええ、お任せください。ちょっとポケットの数が増えるかもしれませんが、今日中にパリッパリに乾燥させてご覧に入れます。」
「なるほど、お気持ちだけで結構です。…後で自分でやるから、その時に手伝ってくれたら助かるかなぁ。」
ダメージウォッシュされたデニムは嫌いではないが、上下セットで大ダメージを与えられてはたまったものではない。
破壊するならせめてこちらの目の届く範囲でやってもらいたいものである。それならまだリカバリーが効くかもしれないし。
それに、もしかしたら俺なんかでもなにかアドバイスを送ることが出来るかもしれないし。
「うん、それがいい。じゃあそういうことだから、ちょっと留守番しといてください。あ、棚にあるお菓子とかは勝手に食べてもらって大丈夫だし、暇だったら外出してくれてもいいので。」
現在時刻は午前10時過ぎ。
さっさと動かないと、何もできないまま一日が終わってしまう。
取り急ぎ、着替えとバスタオルと石鹸が入ったナップザックを背負い、財布などが入ったポーチ、そして身分を示すためのブロードソードをベルトから下げる。
ブロードソードはけっこう重たいので、ズボンが左側からずり落ちてしまいそうになるのが困る。
覚えていたら、ズボンを止めるためのベルトとは別で、剣を吊るす用のベルトを買ってこよう。
「じゃあ、行ってきます。」
「やっぱり私も外に出たい気分になってきたのでご一緒します。」
何故か膨れっ面のニアさんは、部屋から出ようとした俺を呼び止めると衣装箪笥の中を掻き回し始めた。探し物とは関係のない段まで開いているから、後で畳みなおすのが面倒くさい。
そして、中からバスタオルとタオルを見つけ出すと、それを俺のナップザックの中に捻じ込んできた。
なんだ、かまってちゃんじゃん。
▽ ▽ ▽
そもそも銭湯という概念が日本的なものなのではないかと思うが、この世界の、少なくともこの国の銭湯に関してはほとんど現代日本の銭湯と同じものだと考えて良いだろう。
デザインや配置などの内装には多少の違和感を覚えるが、システムとしては完全に近代的な銭湯だ。
まず、フロントの係員に入浴料を払って、盗難防止のためのロッカーのカギを受け取る。
そうしたら男湯と女湯に分かれた扉に入って行き、脱衣所で服を脱いだら後は大浴場で思い思いに入浴するのである。
脱衣所に『浴槽にタオルを漬けるな』とか『浴槽に入る前には体を洗え』というような注意表記がされているのも、ますます銭湯っぽい。
何度か狼獄やRoTの世界大会に出場したり招待されたりしたので、この国の雰囲気にも似ているヨーロッパや北米に行った経験もある。
その経験から判断するに、あのあたりの公衆浴場のシステムとは大分異なっているように思う。
一番コンセプトが近かったのがアメリカかカナダで利用したスパであるが、そのスパでは水着着用が必須だった。
俺が知らないだけで裸で入る公衆浴場もあるのかもしれないが、そもそも欧米の方では同性同士であろうとも『裸の付き合い』というような考え方を聞かないような気がする。
そうなってくると、この日本的な銭湯の裏側に何処ぞやの元第8王女様の顔が浮かんで来るような気がする……
……のだが、案外、ヤタラさんが関わっているとも断言できないのだ。
なんせ、この世界は魔法が使える世界。
この世界では人が居れば魔法で水を用意できるし、魔法で湯を沸かすこともできる。
残念なことに、水魔法は近隣河川や空気中の水分を転送して利用する魔法であり、水を生み出す魔法ではない。それゆえに、砂漠地帯の農用水源問題を解決できるほどのものではないらしい。
だがそれでも、高位の魔法使いが居れば地下深くの水源から簡単に水をくみ上げることが出来るので、意外と生活用水で困っている国は少ないのだ……という話が本に書いてあった。
この国の文字が読めるお陰で、読書を通じてこの世界の常識を得ることが出来るのは本当に有難い。
ちょっと話が逸れたが、水を確保してそれを沸かすことができる簡単な手段があるからこそ、この世界で水を豊富に得られる国での独自的な文化として大浴場とか銭湯とかいう文化が発展してきたのかもしれない。
なんといったか。
そうだ、収束進化というヤツに似ている。
収束進化のように、偶然、全くシステム体系の異なる世界同士で同じような進化を遂げた文化があってもおかしくはないのかもしれない。
誰に聞いたんだっけ、この言葉…?
そうだ、MMOのフレンドだった“救世護真龍王”君だ。
過疎ゲー唯一の良心、救世護真龍王君……。今、何やってんだろうなぁ。
と、ここまでは大浴槽に浸かりながら考えていた話。
平日昼間の銭湯はかなりガラガラで、こんな考え事をするには丁度いいのかもしれない。
ちょっと湯の温度が高いが、慣れてくると丁度いい気がする。
さすがにずっと湯に浸かっていると頭がのぼせてきて、考え事どころではなくなってくるだろうが、柚子湯のような感じで浴槽に浮かべられている謎の実のお陰でリラックスするような気がする。
なんだろう、嗅いだことがある爽やかな香りなんだけど。
リンゴに似てるような、カリンに似ているような…いや、カリンは違うか?
そうか、木瓜の実の匂いに似てるのか。
『旦那様ーっ!石鹸忘れましたーっ!!』
いい香りに包まれて和んでいたら、壁の向こう側、すなわち女湯の方から大声で報告が飛んできた。
そういえばあの人、タオルの類だけ持ってきていたんだったか。
男湯に居る俺に報告されても、どうすればいいというのか。
それにこういう場で大声を出すのはマナー違反だと思うのだ。
いや、これも日本人的思考回路なんだろうか?
ともかく、俺に出来る事は何もないので返事はしないでおく。
4mぐらい離れた所で湯に浸かっていた髭の長いお爺さんが妙な目でこちらを見ているが、我関せずといった様子で湯を上がる。
頭も体も浴槽に入る前に洗っているが、なんとなくもう一度洗っておこう。
風呂に入る前にほとんどのピアスは外していたので、ピアスホールを重点的に洗っていく。
あれ?こんなところに開けてたっけ?
小鼻にホールが増えているような気がする。
それに、右耳の軟骨の穴もこんなに内側だったっけ?
大会の度にピアスの数を増やしていたので、自分の身体なのに最早いくつ開けていたのか把握しきれていないのだ。大体20個?ぐらいだったと思うのだが。
最近はそれに加えてフェイクピアスやイヤーカフなんかも使っていたから、ますますわけがわからなくなってきている。
顔を隠して配信してはいたものの、いつ顔が映っても大丈夫なように、配信中には毎回ピアスをするようにしていた。
つまり、ピアスを着けるのも無意識な慣習のようなものだったので、逆に意識するとわからなくなってくる。
『このピアス面のせいで騎士団の若い人たちにビビられておるぞ』ってラルポン師団長が言ってたし、今後はもう増やさないでおこうかなぁ……。
でも、この世界のアクセも正直気になるんだよな。
……よし、しっかり洗い終えたので、もう一度浴槽に浸かってから上がろう。
『旦那様ーっ!!親切な方が石鹸とシャンプーを貸して下さりましたーっ!!持ってきていただかなくても大丈夫でーす!!』
「持ってかねえよ!!」
ちなみに風呂から上がって知った事なのだが、その時ニアさんに石鹸類を貸してくれた“親切な方”というのは、偶然居合わせたオリビアさんだったようだ。
今日は非番だったらしく、広々とした浴槽に浸かって凝った身体を伸ばしたら甘いもの巡りに行くつもりらしい。
「それにしても弟子。こんなに可愛らしい側室が居たとは、あなたも中々隅に置けませんね。…やはり、やる事はやっているんですか?」
鎧姿の時の武骨な印象とは打って変わって、彼女の私服はオシャレなのである。
後は、そのオシャレな格好からセクハラじみた言動が飛び出さなければなぁ……なんて思ってしまうが、これも他人の個性と考えるべきか。
「何を言ってるんすか…。ひとまず鼻血を拭きましょう。」
相変わらずこの人は鼻血出してばっかりだなぁ。
湯で血行が良くなっているからか、いつもよりも赤い流れの流水量が増えている気がする。
あと、頭があったまっているからか下ネタが直球になっているようだ。こちらも脳がぼうっとしてダジャレが飛び出すぐらいなのだから。
「残念ながら、旦那様は奥手でいらっしゃって…。よろしければお使いください。」
そんな彼女にニアさんがハンカチを手渡した。
いや、メイドとして雇う事に関しては同意したが、一生の面倒を見るつもりは無いぞ。
「む、ありがとうございます。……あなた、気付きませんでしたが、よく見れば第4師団長閣下の……?」
ハンカチを受け取って鼻血を拭ったオリビアさんは、ふとニアさんの顔を見ると目を細め始めた。
「はい?ああ、左様にございます。…ダークエルフの家系に生まれた、哀れな忌子めにございますよ、フォーサイス家次期ご当主様?」
細い目をさらに細めてオリビアさんを見返したニアさん。
なんだろう、なんだか2人が急にギスギスし始めたようだ。
事情がよくわからないので口出しのしようが無い。
「その様子ですと、この人にはまだ伝えていないのでしょうね。」
「ええ、必要が無いと思いましたので。」
え、なんか俺には伏せられているヤバいことがあるらしい。怖いなぁ。
「…気が変わりました。弟子、それに…、メルファディアラニアポン殿で合っていますか?折角ですし、お二人とも。この後一緒にお昼でもいかがですか?」
「ええ、構いませんわ。ねえ、旦那様?」
「え、その…はい。」
なにやらよくわからぬままに女性2人が結託してしまった。
そして、よくわからぬままに仲良くなっていたニアさんとオリビアさんの話に相槌をうちながら、よくわからない海南鶏飯に似た米料理に舌鼓を打ったのだった。
なんだかんだでニアさんも楽しそうだったし、剣用のベルトを買うときにオリビアさんのアドバイスを貰えたりしたので、有意義な時間ではあったのかもしれない。
ただ、洗濯の時間が遅くなってしまい、近隣の部屋の人たちに迷惑をかけてしまったのではないかということだけが気掛かりである。
メルファディアラニアポンさんはダークエルフの家系に生まれた肌の白いエルフです。
アルビノというわけではありません。
いつもつまらなさそうな顔をしているので厭世家と誤解されることが多いようです。