プロローグ
子供のころ、空を飛んだことがある。
飛行機でなければ、ヘリコプターでもない。気球でもなければ、飛行船でも、グライダーでもない。
あれはたしか箒だったように思える。
そう、箒。なんの変哲もない箒だ。
箒が空を飛ぶわけないし、箒で空を飛べるわけがない。
箒に跨がれば大空を自由に飛べるなんて、そんなことは絵本のなかだけの話で、そんなファンタジーが現実ではありえないなんてことは年端もいかぬ子供だって知っている。
でも、おれは昔、たしかに箒で空を飛んだ。
誰かに連れられて、空を飛んだ。
「わたし、実は空を飛べるんだ! だから、一緒に行こうよ!」
振り向き様に握られた腕の感覚は弱く薄くどんな感触だったかは思い出せない。
ニコッとはにかんだであろうその顔の輪郭は曖昧で靄がかかったようにはっきりと見えない。
もうずっと前のことになるから、どんな記憶だったか、ほとんどのことを忘れてしまっている。
____その時の夢を俺は見ていた。
俺ともう一人、俺と同じくらいの年齢の子がいる。その二人で箒に股がり、薄暗い夜空を背景にしながら宙に浮かんでいた。
はるか上空で地上を見下ろす幼い俺は、その誰かの背に必死に捕まりながらも生まれて初めてみる光景に心を踊らせていた。
空を飛ぶということは思った以上に怖くて、でもそれ以上に楽しかったんだと思う。
柄にもなく、俺ははしゃいでいた。
俺の前にいたその子が向こう側を指差しながら何か言った。
次の瞬間、俺たちの目の前で特大の花火が炸裂した。
続けざまに、次々と下から花火が上がってくる。
下はどうやら河川敷になっており、花火大会が催されているようだ。
真夏の空に咲く大輪のごとき花火。
それを下から見るのではなく真横から見ていた。
きれいだと思った。なんて美しいものなのだろうと心を奪われた。
手を伸ばせば届くのではないかと思うくらいの距離で花火を見ている。
こんな経験普通に生きていてできるものではないだろう。
前にいるその子も、とても楽しそうだ。目を花火のように輝かせていた。
ああ、こんな楽しい思い出。
遥か昔に不確かな記憶の中の出来事。
本当にこんなことがあったのだろうか?
記憶があいまいすぎてよくわからない。
もしかしたら、箒で飛んだという記憶は現実ではなくて、子供ころ見た夢だったかもしれない。
子供の頃に見た夢を現実に起こったことと錯覚して記憶しているだけかもしれない。
一つ確かなのは、今見ているこの夢が夢であるとわかっていることだ。
いわゆる明晰夢というやつである。
涙が一条の軌跡をつくりながら頬を伝う。
心が締め付けられるように、苦しくなる。
なぜだろう、理由は全くわからない。
きっとその理由を記憶と共に俺は失ってしまったのだ。
そんな気がした。