おかえりなさい
逃げ帰るようにして八科稲荷神社を去ってから三日が経った。あの一件後、翌日に職員に問題提起をし、本庁が人員を手配してくれるまでは経験を積むという意味をも兼ねて一人ずつ派遣することになった。そしてそのさらに翌日——つまり、神社へ行った二日後から、人の手が実際に入るようになり、効果もあったのか眷属の狐が一匹ついてきてすぐに礼を伝えられた。
…しかし、今だ霞は出てくることができないでいるようだった。あの日何とか消える前に神木にたどり着けたものの、「しばらく休みますぅー…」との一言を言い残して姿を見せていないのだ。いい加減、心配にもなってくる。大丈夫だろうと正蔵が読んでいても不安が消えることは無く、それでいて葵が神木の傍らにいるともなればますます不安はよぎる。
「休んでいるだけだと思うので、多分大丈夫ですよ」と葵も言うが、片時も離れないその姿は病んで臥せったわが子の傍について離れない母親を想起させるものだった。
帰ってから毎日、今日は顔を出していないか、今日こそは元に戻っていないか、と見回ってみるのだが状況に進展はない。
…自分が許可してしまったからか?軽々にこういうことをしたものだから、無理がたたって九十九を失おうとしているのか?という嫌な予感が背筋を伝う。そのたびに本体である杜は無事なのだから、きっと末娘も大丈夫に決まっている、あしたにはきっと顔を出してくるだろう、と自分に言い聞かせて眠りにつく日々が続いた。
〇
八科稲荷神社から帰ってきて一週間がたった。しばらく経つはずなのだが、今でも霞の姿は見えない。どことなしに寂し気な雰囲気が漂う境内だと正蔵は思う。毎朝葵と東岩にはいつも通りに挨拶を欠かさず、霞に関しては姿が見えないので神木へ一人、挨拶を行うように習慣が付き始めていた。
もう秋も終盤に差し掛かり、早くもはらはらと葉が落ち始めている。この季節は杜である霞にとってはエネルギー不足でただでさえ辛いものだと以前聞いたことがある。そこに加えて長時間の外出をしてしまったのだ、無理もない。
この時期にあんな遠出をさせてしまった自分にも非があるし、ただ待つしかないことは誰にでもわかることだ。…そう頭では理解しながらも、一向に霞が戻らないことに焦りが募る。一日一日、積もり積もる落ち葉のように。
八科稲荷神社から帰ってきてから十日がたった。あの一件以降、有難いことに数日に一回の頻度で眷属の狐が様子を見に来てくれている。さすがに一週間が過ぎたところで狐を通して、八科の女神に近況いかがかという伺いと共に霞の事を相談してみたのだが、女神曰く
「問題ないはずよ、分霊でしたもの。もう少し辛抱してお待ちなさい?」
との一言が返ってきた。しかたがない、人の感情と女神の見識では後者を優先させる他あるまい。正蔵はただじっと待ち続けることにした。しかしそれはあまりにも辛抱強さを要求される事柄で、日々を針の筵に座るような心地で過ごした。
そしてその翌日…八科神社へ行って十一日目。うろちょろしている霞の姿が見えなくなってから二回目の大安吉日の日だ。
前回の大安は日柄が悪く、雨がしとどに降った。それで杜はいかにも元気そうに見えたのでもしやと思ったのだが…期待外れに終わったことは記憶に新しい。前回駄目だったというのにもかかわらず、末娘は人の多いこの日が大好きだからな——と期待せずにはおれない。
逸る心を抑えつつ九十九たちへ毎朝の挨拶をしに出掛ける。
「東岩、おはよう。」
「正蔵くん。おはよう。今日は良い朝だねぇ。この前のざんざぶりが嘘のようだよ?」
「そうだな。前回の大安は土砂降りでどうしようもなかった。…ううむ、今日は混むだろうな。」
ふー、と息を吐きながら首筋をかく。東岩はにこにこと笑って、
「まあお仕事頑張ってください、おじいちゃん。」
「おじいちゃんとは何だ、おじいちゃんとは。」
「だって正蔵くん、霞ちゃんの姿が見えなくなってからいつもに増して大安吉日を気にかけているだろう?なぜならあの子はこういう賑やかな日が大好きだから。この前の大安の日、大雨の日に参ったとか言いながらも少し期待してたでしょ?だってあの子は杜だ、水を与えられれば元気が出るはずだから。」
「何が言いたい。」
「いやあ、八科の女神さまに安心おしと言われていてもその心配のしようは、まるで孫が病に臥せったおじいちゃんのようだなあって思って。」
「……………はあ…」
にこにこ楽しそうな東岩と対照的に正蔵は額に手を当てて天を仰ぐ。
「仕方がないだろう、私が本体から離れるのを良しとしてしまったからこうなった。そういうつもりがなかったとはいえ無謀にも突然杜から長時間離れさせた。…責任は私にある。」
「そっかあそっかあ。…ま、心配してもきりがないし、体がもたなくなっちゃいますよ。女神さまの太鼓判もあるんだし、まあまあ。ゆっくりどっしり構えて待っていればいいんじゃないかな。」
「なんだか御前、今日は随分機嫌がよいようだな…?」
この九十九も末娘がいなくなってから落ち込んだ様子を見せていたはずだ。…昨日だって。それが今日になっていったいどうしたというのだ、いきなり。
「うんまあ…気に病んでいてばかりでもいいことは無いかなって思ってね。杜は元気だし大丈夫だよ。」
よその社の女神と当社の九十九の太鼓判がそろったよ、これでも駄目?と胸を張っている東岩を眺めていると思わず気が抜ける。
「そうだな、爺呼ばわりされて太鼓判も押されたのでは気も入らんわ。」
「そうそうその調子―。」
なんとも気が緩む。東岩という九十九はこんなにも緩かっただろうか。それにしても孫を心配する爺か…あながち間違ってはいないのかもしれんな、などと考えながら神木の前までゆっくり歩いてゆく。いつもの通りであれば葵が神木の隣にいるはずだ。
…と、思ったのだが。
「…いない?」
つい口をついて出る。いつも神木の傍から離れようとしていなかった葵がいないのだ。まさか葵まで?いや、そんな素振りは全く無かったのだしそもそもすぐそこに川があるのにそんなわけがあるまい。不審に思って神木の周りを見てみる。
この神木は保護のために囲われてはいるが、周りを歩けるようぐるりと足場が拵えてあるのだ。地面からその足場に上ると、葵の後姿が見える。…こんなところに隠れていたか。
「御前、そこでどうした?」
「あっ、いえ…何でもないですよ、正蔵さん。おはようございます。」
そういって丁寧に挨拶をする葵に違和感を覚える。なんというか、いつもと違うというか…よそよそしいというか。いつもは神木の正面、杜を見渡せるところにいるというのに今回は裏手——社殿の壁と神木の間に隠れるようにいたのもまた不可思議である。
「御前、まさか体調が悪いとか、消えかけてるとかないよな…!?」おずおずと訊ねてみる。
「いえ、いえ、まさか。ほら、きちんと両手の指も揃っていますよ。…ただ、霞ちゃんが戻ってこないのがさみしくてさみしくて。」
もう、正蔵さんたらあれからすっかり心配性に拍車がかかりましたね、などと言われる。致し方ないだろうと思う気持ちとたしかに心配しすぎなのかもしれん、との思いが綯い交ぜになる。もう少し静観していてもいいのだろうか。
「わかった、わかった。御前まで爺扱いするんじゃない。」
「御前までって、東岩さんにも言われたんですか?」
くすくすと笑う葵も、昨日まであんなに落ち込んだ顔をしていたものを…。
ん?昨日?正蔵はたと気づく。葵も東岩も、昨日までは正蔵同様沈んだ顔をしていたというのに、何があった?
「葵、よもや御前、私に隠していることがあるんじゃないか…?」
「え!?いや、ないない、ないですよ?」
なに言ってるんですか正蔵さん~もう~!何を勘違いしてるんですかあ!と言う葵は普段ならしないような不審な挙動をしているように見える。硬い表情、手招きするような動作——いわゆるおばさん仕草、いつもよりぺらぺらしゃべる口。
正蔵の中で疑いが確信に変わった。
「末娘っ!出てこれたんだろう!?顔を見せい!」
「やだっ正蔵さん霞ちゃんがどこにいるっていうのー!?気が付かなかったわー!」
「ええいそんなもの態度でばればれだ!葵さんあんた嘘が付けない質だな?」
「ええっ、そんなに表情に出てました!?」
はずかしい、といったところで葵ははっと気づいて正蔵を見つめる。当の正蔵はしたり顔でにやにやと笑っていた。
「御前の母御も白状したぞー、どうせいたずらしようとしたか、随分間が空いて出てきづらかったんだろう?」
そう神木に話しかけるとふわりと元の大きさで霞が現れた。正蔵の予想通りぶすくれた顔をしている。
「もー、正蔵さん気が付いちゃうなんて面白くないです!」
「その前に言うことがあるだろう馬鹿垂れ!」
「ええー何!?なんですか!?た、ただいま?です?」
「あと一つ。」
じいっと見つめて言葉を引き出そうとする。しどろもどろになった霞は観念して、絞り出すように
「心配かけてごめんなさい…?」
とぽつりつぶやいた。
〇
霞が戻ったことを受けて、八科稲荷の狐はぴょこりと跳ねて
「それはそれは!何よりの吉報にございます!すぐに主と舞どのに知らせてまいりましょう!」
と喜び勇んで行ってしまった。
この日は幸か不幸か、土曜日の大安吉日。学校が休みの舞も両親に連れられ十科神社に足を運んで礼を言ってくれた。狐も伝言の使いっ走りをして八科の女神からの改めてのお礼の言葉と回復の祝いの言葉を伝えてきてくれた。
正蔵は勤めに追われる中度たび顔を出しに…というより確認しにやってくるし、人込みはすごいし、珍しく喧噪を嫌う東岩と葵までもが神木の傍で談笑し、霞も人や人ならざる者に囲まれてぽかぽかとした陽気に照らされ、大変めでたい日と相成った。
これにて一連の騒動の一つが幕を閉じる。しかし十科神社の騒動はこれからもまだまだ続く——。




