私の椅子は滝を巡る
その名を知らぬ者など日本にいなかった。日本のプロレス界を支え、大きく盛り上げたその男は、私の憧れである。その名を力道山という。
私がプロレスラーとなったのも、彼の影響だ。強い男に憧れるのはいわば生命の本能、当然の話である。テレビの向こうの世界であったリングに立ち、大男達と力を試し合う。私の人生はまさに、順風満帆かに見えた。
しかしそんな栄光の日々は、突然谷底に落とされる。
対戦相手ギアナマスクの必殺技、エンジェルフォール(かかとおとし)を腰に受け、脊髄損傷、下半身の自由を失った。
以来私は車椅子生活を余儀なくされた。
私の人生をどん底まで沈めたエンジェルフォール。その恨みは、全国のあらゆる滝に向けられた。私は名所と謳われる滝を訪ねては、思いつく限りの罵詈雑言を滝つぼに吐き散らかし、警備員による車椅子ごとの強制退去を繰り返した。まったくもって不毛な争いである。
今日も私は、とある滝を訪れた。草木の茂る岩肌に、散るは微かな水飛沫。マイナスイオンとやらの溢れる空気を、私はたっぷり吸いこんだ。そんなありがたい空気を、罵詈雑言の為に吐き出そうとしたその時、私の前に眼鏡の少女が現れた。
「凄い椅子! 座りながらどこにでもいけそう!」
眼鏡の奥の瞳をきらきらさせながら、少女は車椅子を眺める。
「逆だよ。私はこれがないと、どこにもいけないんだ」
車椅子から私に視線を移した少女は、不思議そうに首を傾げる。
「おじさん歩けないの?」
「そうだよ、私は歩けないんだ。だからこの椅子を使う」
少女は斜めを見上げて、少しむずかしそうな顔をする。それからぱぁっと、花開くような顔を、私に向けた。
「私もおじさんと一緒だね。眼鏡がないと前が見えないの。眼鏡がないと怖くて歩けない」
少女は眼鏡をくいくい動かし、嬉しそうに跳ね回った。呆気に取られた私はただ、そんな少女を眺めることしかできなかった。彼女は「私が歩けるのは眼鏡のおかげ」と上機嫌で口ずさむ。喉元まできていたはずの滝への罵詈雑言は、いつの間にか腹に落ち、散り散りに消えたように思えた。
少女の親らしき眼鏡の女性が丁重にお辞儀をしながら少女の手を引いて去って行った。嵐のような出来事に、私の中の黒い雲は雲散霧消。何故かはさっぱりわからないが、滝つぼを罵倒するより心が晴れた。もとより、罵倒によって晴れる雲など持ち合わせていなかったのかもしれない。
現実は現実だ。夢のように思い通りにはいかないし、悲惨なものだって数多くある。そのひとつひとつに難癖をつけていては、どこかにある幸運を見逃してしまうに違いない。
私にはこの車椅子がある。例え足が動かなくとも、こいつがどこへでも連れて行ってくれる。何を嘆く暇があろうか。私は空を仰ぎ、胸を張った。
さて、私は多くの滝つぼに謝罪しなければなるまい。ありとあらゆる滝の名所、その全てを巡り、謝罪と感謝をまき散らす。もちろん、この椅子の上から。
~解説というか言い訳というか~
主人公は[力道山]に憧れプロレスラーになるも怪我で引退、車[椅子]生活を余儀なくされます。彼を引退に追い込んだギアナマスクの「エンジェルフォール」、これは[ギアナ高地]に実在する滝の名前でした。以上。