第一章 ブレイカー
拓哉は幼かった頃の自分が、雪原の上に座り込んでいる夢を見ていた。今まで幾度となく見てきた夢だ。この夢を忘れたくて仕方がない拓哉だが、毎日のように同じ夢を見てしまうため、どうしても忘れられないのだった。
夢の内容はいつも同じだった。座り込んだ雪原からは決まって立ち上がれず、常に同じ結末を迎えてしまう。白い雪が赤く染まっていくのを、ただ見ているだけだった。そして最後には――。
その瞬間、頭の上に衝撃が降ってきた。
(……雷か?)
目を開けると畳があった。雷で目が覚めるとは珍しい。
つまらないことに感心しつつ、拓哉は上半身を起こす。誰かに頭を叩かれたような感覚があったが、さほど拓哉は気にしなかった。それよりも頬の違和感が気になっていた。畳に押し付けていたせいで妙な感覚だった。これで畳の跡がついていたらマヌケだよな、と思いながら後ろを振り返る。するとそこには同級生の不機嫌そうな顔があった。
「おお、由愛。おはよう」
あくび交じりに拓哉は言った。
「……おはようじゃない」
由愛と呼ばれた少女はむすっとした顔で言う。
彼女の名前は前田由愛。拓哉と同じ二年生だ。昔から拓哉とは家族ぐるみでの付き合いで、良く言えば幼馴染、悪く言えば腐れ縁といった間柄だった。
「そういや珍しいな。由愛がここに来るなんて」
「……返したいものがあったから」
由愛の口調は非常にぶっきらぼうだった。何となく由愛の機嫌がすぐれていないように見えた。しかし、何故そんな態度を取るのか拓哉は理解できなかった。
きちんと正座したまま、由愛は鞄に手を入れる。返したいものがある、とは言われたものの、拓哉は何かを貸した憶えがなかった。一体何を返すと言っているのだろうか。
拓哉が少し考えている間に、由愛は鞄の中からそれを抜き出していた。
「はい」
そう言って由愛はCDを拓哉に差し出す。CD本体をしっかりと保護しているケースには、『クラシック』と細いマジックで書かれていた。それを見て拓哉はついに思い出した。
「ずっと借りたままだったから……」
少し申し訳なさそうに由愛は言った。
「ああ、別に気にしなくていいって。俺も貸した事、忘れてたから」
苦笑いして拓哉は答える。
今から二ヶ月ほど前、由愛にクラシックのCDを貸していたことを、拓哉は完全に忘れてしまっていた。音楽関係のCDを多く所持している拓哉だが、枚数の確認や把握をしていないため、拓哉は忘れてしまっていた。このまま何も言われなければ、間違いなく気付くことはなかっただろう。生真面目な由愛の一面を窺える瞬間だった。
CDを無事返したためか、由愛の肩から明らかに力が抜けた。
小さく息をついた後、周囲を見渡し始める。
「……今日は何も聞いてないんだね」
部屋の隅にあるCDコンポを見つめる由愛。見つめるほど珍しいものでも、新しいものでもない。ものすごく古い機種だ。もともとあのCDコンポは、以前ジャンク場に捨てられていたものだ。それを拓哉が修理して使っているというわけだ。もともとそこまで壊れていなかったし、こういうのは拓哉の得意分野だったため、非常に簡単に修理できたのだ。
それからというもの、あのCDコンポはこの部屋に置かれている。今となっては、この部屋の欠かせない存在となり、拓哉が毎日ピアノのCDを聴いているのだった。
「今日は何も聴いてないよ。ここに来てすぐに寝たからな」
言いながらコンポに近寄る。今思えばこのコンポとはもう二年の付き合いだ。
「今から何か聴くか?」
由愛に背を向けたまま、CDの詰まった棚を見つめる。家から持ち込みすぎたせいか、小さな棚だったため、今では大量のCDで溢れかえっている。その中から自分のお気に入りを取り出す。まだ由愛は聴いたことがないはずだ。
「別にいいよ。私そろそろ帰らないといけないし」
「あれ、もう帰るのか?」
予想外の言葉に驚く拓哉。思わず準備している両手が止まる。
「うん。今日は用事があるの」
正座を崩し、由愛はゆっくりと立ち上がる。少し痺れたのか、足取りがぎこちない。
部屋の時計を見ると、まだ十二時過ぎだった。こんな早くに一体何の用事だろうか。少し気になったものの、あまり詮索するのは好きではないので、拓哉は何も言わなかった。
「それじゃ……また明日」
「おお、また明日」
軽い挨拶を交わすと、由愛はさっさと部屋を出て行ってしまった。
3
由愛が出て行って五分ほどしてだった。
再び眠気に襲われ、思わず寝そうになっていたときだ。いきなり扉が開き、そこからひょっこりと男子生徒が顔を覗かせた。拓哉と同じクラスの佐川達郎だった。刈り上げられた茶髪はなんとも男らしいが、その割に体型は少し太り気味だった。そして両腕に溢れんばかりのパンを抱えていた。
「……今日は一段と多いな」
呆れたように拓哉は言った。
達郎が来ることはもとから分かっていたため、彼の登場にはさほど驚かなかった。だが、抱えられたパンの異常な多さには目をつぶりたくなる。
「何言ってんだよ拓哉。こんなにたくさん、僕が一人で食うわけないだろ」
靴を脱ぎ捨てて、達郎は畳に上がってくる。
そして拓哉の前まで来ると、抱えていたパンを一気にばらまいた。畳の上に様々なパンが広がるが、どれも甘そうなパンばかりだった。これを全部食べる気なのだとしたら、気が狂っているとしか思えない。見ているだけで気分が悪くなりそうだった。
「ほら、拓哉。好きなの選べよ。僕のおごりだぞ」
誇らしげな顔を見せ、ずいずいと拓哉にパンを押し付けてくる。
「おお、珍しく気前が良いな」
弾んだ声を上げて、拓哉はパンを選び始めた。
拓哉は昔から菓子パン、もとい甘いものが苦手だった。しかし、今回はそんなことを言っていられなかった。ここで引き下がるのはあまりにもったいない。そう自分に言い聞かせ、拓哉はあんパンをもらうことにした。
「珍しく、は余計だよ。大人しく感謝しとけっ」
面白くなさそうに達郎は言った。