10-1
このままここにいたって、余計に気分が重くなるだけだ。社長……いや支店長には悪いけどこっそりとここから抜け出そう……。
俺は誰にも気づかれないようにトイレに行くふりをしてこの会場から抜け出した。
よし、上手く抜け出せたぞ……。でも会場を出るときに誰かの視線を感じたような……。
首を傾げ数秒間考えていたのだがバスが近くの停留所に停まろうとしているのに気づく。もちろんこれに乗り遅れると夕方までバスが来ないことはわかっているので俺は猛ダッシュでその停留所まで走った。
ま、そんなことはどうでもいい! それよりも急げ!
息をゼェゼェと切らしながら停留所に着くとジャストタイミングでバスがここに停まった。俺はそのバスに乗り込み、もと来た道へと引き返す。席に着き、ほっと一息ついたところで俺は何気なく横の窓ガラスを見た。窓の向こうには緑から黄色、赤へと葉の色が変わりゆく木々を見ることができた。しかし窓ガラス自体を見てみると俺の気弱な顔が映し出されていた。
あ~、江張さんのせいで予定狂っちゃったじゃねーか……。ってなんで俺こんなに落ち込んでるんだよ……。
十五分ほどで地元に着き、駅に到着したバスから降りると俺はとぼとぼと歩きながら家に帰った。
戸をガラリと開け、家の中に入ると俺はリビングへと入る。
韓流ドラマをせんべいを食べながら真剣なまなざしで見ていたお袋はリビングの戸の音で俺に気づく。そしてせんべいを銜えたまま「あれ?」と言い、俺を見つめた。そんな俺は気まずそうにしながらも空腹にはどうやっても勝てないので根掘り葉掘り聞かれるのは承知でお袋に言う。
「あんさ……豚丼作ってほしいんだけど」
硬そうなせんべいをバリッと一口噛み切るとお袋は案の定聞いてきた。
「あんた、食事会があるからいらないって言ってたでしょ? というかずいぶん帰ってくるの早いわね」
「た、食べないで帰ってきたんだよ……」
そんな俺をいぶかしげな表情を湛えながらお袋は見つめる。
「もしかしてあんた、なんかやらかしたんじゃないんでしょうね??」
「は? ちげーよ……。つまんないから帰ってきただけだ。ってか早く作ってくれよ! 腹すいて死にそうなんだよ~」
「もーう、それが作る人に向かって言う態度かしら?」
そう言いながらもお袋は腰を上げ、ソファにかけてあったエプロンを着けると台所へと向かって行った。なんだかんだ言いながらも俺に尽くしてくれるお袋にはいつも感謝している。って面と向かっては言えないけどな……。来年の母の日にはカーネーション一本ぐらいやろうかな……。あ、板チョコもつけてあげようか?
「ごめん、味噌汁作ってないのよ。インスタントでもいい?」
「じゃぁ、カニ汁のやつにして」
「はいはい……ってそれくらいあんたがやりなさいよ!」
「ごちそうさん」
お袋のちょっと濃い目の豚丼をたらふく食った俺は爪楊枝でシーシーと歯の隙間を掃除しながら部屋に戻り、ベッドに腰を下ろすとその状態であおむけになった。
「しっかし、なんであんな性格の良い桃香をみんなして嫌がらせするんだべな……」
俺にはまったく考えられないことだ。母親が自分の娘を理由はどうであれ追い出そうとするなんて……。ヨシコーさんいい人だと思ってたのに。桃香は責任感の強い人間だから山上ハイヤーを継ごうとしてるんだ。おじさんに言われたからじゃない。ってか江張さんも江張さんだよ。桃香が無理矢理自分でそう思い込ませて声優の夢をあきらめるようにしているなんて言ってたけど、ちがうよ。桃香は本当に山上ハイヤーで働き……
その時俺は高校時代のことをふと思い出した。窓から差し込む斜陽に照らされた放課後の教室で桃香と将来の夢について語り合ったことを――――。
『カズヤ、あんた将来何になりたい?』
『な、なんだよ急に?』
『だって進路希望調査、明日までだよ?』
『そんなん、適当に書いとけばいいべよ』
『適当にって……ほんとにカズヤはなんも考えてないんだから~』
『そんな呆れた顔で俺を見るなって! 俺だって一応夢がないわけじゃないべよ……』
『え? なになに? 何になりたいの? カズヤの夢、聞かせてよ!』
『そ、そんな身を乗り出すなって! 顔ちけーよ! お、俺の夢は……かな……』
『え? 聞こえなかった! もっとはっきり大きい声で言ってよ!』
『いやだから……せ、せ、声優に……て何度も言わせるな!』
『う、うそ? まじ??』
『え? なんでだ? 俺なんか変なこと言ったか?』
『カズヤが私と同じ夢持ってたなんて……』
『同じ夢? ってことは桃香も……』
『うん、声優になりたいんだ。昔からアニメが大好きで特にキャラクターに命を吹き込んでいる声優さんにずっと憧れていて……』
『俺も小さいときからアニメ大好きだったから、カンタムとかトラゴンボールとかツーピースとかずっと見てて、俺もキャラに命吹き込みたいなぁって……』
『ま、でもお父さんには安定した職業に着けっていわれてるんだよ。札幌のある銀行にコネがあるからそこで働いてほしいって……』
『声優ってなかなか簡単になれるような職業じゃないしな……。別に俺声の質、いいわけじゃないし』
『え? そう? カズヤの声、私、めっちゃ好きだよ』
『え? えー?!』
『何茹でダコみたいに真っ赤になってんのよ? 声って言ったのよ。声! カズヤの声、決して男らしい声じゃないけれど、透き通ってるというかすごく声がクリアなのよ! 声優向きの声だと私は思うけど』
『そ、そうかな……。おまえこそ、その声なかなか可愛いぞ』
『え? 可愛い……えー?!』
『だから、声って言っただろ? お前こそ茹でダコだぞ!』
『あ、そっか……って私の声そんな、か、可愛い?』
『おう。お前の声聞くといつも萌えキャラ想像しちまうもん』
『ねぇ、お互い、いつか声優になれたらいいね……』
『あぁ、でも先は長そうだけどな』
『うん。でも逃げちゃだめだよ……。その夢、かなえるまで追いかけなきゃね』
「そうだ、俺……声優になりたかったんだ……」
気が付けば俺はクリーム色の天井をじっと見つめていた。あの時の桃香との会話が一字一句鮮明に脳裏に現れる。俺はぼぞりとそう言った後、自分の手のひらを見つめると体内に流れる血潮を感じた。
「逃げちゃだめだよ……ってこれ桃香が言ってたんだよな……」
するとなぜか俺の目じりから液体が流れゆくのを感じてしまう。
「何泣いてんだ? バカか俺……」
そうだ、こんなことしていられない! という気持ちが高まり、俺は手の甲で涙を拭うと勢いよく起き上がり、ジャンバーを羽織って部屋を出た。そう、桃香に今この俺の気持ちを伝えられずにはいられなかったのだ。
「のんたん、サンキューな」
部屋を出る際、本棚にあるのんたんに感謝の気持ちを伝えると幾分か彼女はにこりと微笑んだのを感じ取った。
「あれ? カズヤ、今度はどこ行くのよ?」
階段を降りたところでトイレから出てきたお袋とばったり会う。
「ちょっと、ハイヤーに」
「忘れ物?」
「まぁ、そんなとこ。じゃ、行ってくるわ」
「あ、そうだ! 忘れてた!」
急に何かを思い出したようでお袋はリビングへと向かった。そんなお袋の話に付き合う時間はもったいないと思い(きっとしょーもない話なはずだから)俺はお袋の背中に向かってこう叫ぶ。
「お袋! 俺、急いでんだ! 行くからな!」
俺は玄関で靴を履き、戸をガラリと開ける。その瞬間、お袋が軽く息を切らしながら小走りで俺のところまでやってきた。
「ちょっと待ちなさいって!」
「なんだよ?」
煙たげに俺はお袋の顔を見るが差し出してきたものを見て俺ははっとした。
「今日、カズヤの誕生日でしょ? はいこれ」
そう言って渡されたきれいに包装してある淡いブルーの包み紙の上には『Happy Birthday』と続け字で書かれたシールが貼ってあった。
「これって……」
「カズヤの好きなものよ。って急いでるんでしょ? 早く行きなさい!」
まさかお袋から誕生日プレゼントがもらえるなんて……。
「帰ったら見てみるよ。だからこれ、部屋に置いといて」
俺ははにかみながらそのプレゼントをお袋に渡した。
「きっと喜ぶわよ~」
そう言うとお袋は笑顔で俺に胸元で手を振った。そんな俺は戸を閉める際にごくごく小さな声でこう一言言った。
「サンキュ、お袋」




