PIANO 雪倉 一成編
「ごめんね、いつも」
「いいえ。あ、少し沁みますから、我慢してくださいね」
一成は麗歌の傷口に綿を押し付けて、血を拭い取った。
彼女が保健室に来るのは、これで何度目だろうか。
こうして自分が彼女に会えるのは、あとどれくらいなのだろう。
「今日も、誰かに?」
「えっと……背中押されちゃって、転んじゃったの。だから自分のせいかな」
えへへ、と彼女は笑った。
眩しいくらいに綺麗に笑って。
あぁ、綺麗だな。そう、思う。ただただ純粋に。
「さあ、これで大丈夫ですよ。次の授業に遅刻しては大変です。もうお行きなさい」
「うん、ありがとね」
「はい」
彼女は、保健室を出ていこうとして……振り返る。
「また来るね」
「出切ればサボりで来て頂ければ」
「うーん……」
一成の軽口に、麗歌は困ったように笑った。そうして、保健室を去っていく。
自分で退室を促したくせに、寂しく感じてしまう。何を考えているのかと自らを叱咤しても、彼女を求める声は止みそうにない。
「………はぁ」
最近、自分の職業が厭わしい。
保険師である建前、彼女に近づき過ぎることは許されない。だから、彼女の傍にいられるのは、彼女が自分を保険師として頼ってくれる時だけだ。
彼女はもう高校2年生。この学校にいてくれるのは、あと1年だ。
どれほど願っても、彼女は必ずここから離れていく。
この手が、彼女に届くことは。
「…………私も案外、往生際が悪いですねぇ」
小さく苦笑いを零す。
彼女がこの学校を卒業したら、どうしようか。
椅子にもたれかかって、額に手をやる。
「………って。本当なら一生徒が卒業した程度で、職を変えるなんて馬鹿だとは思うんですけれど」
でも、この気持ちだけはどうしようもない。
「自分がここまで壊れるなんて」
考えたこともなかった。
恋なんて、今まで知らなかったから。
「………あのろくでもない兄弟にばれたら絶対に嫌がらせをされますねぇ」
天井を仰ぐ。
「25にもなって、こんなことで悩むことになろうとはね」
何気なく窓の外に目をやると体育の授業風景が映る。
「…………」
麗歌。
彼女も、そこにいて。
それだけで、ただ、幸せな気分になる。
別に言葉を交わしているわけでも何でもないのに、微笑が零れる。
「…………もう少しだけ。………あなたの傍にいても、いいですか」
届くはずもない、小さな声。
彼女はいずれ、きっと一成の許から離れていく。それはもう、決定事項。
だけど。
でも。
「あと、少しだけ。どうか」
あなたの、傍に、いさせてください。