わたしの見ている世界 3
マラソンを終えた四時限目、一年の教室は深海のように静まり返っていた。
体力を著しく消耗したことに加え、昼休み前の空腹がさらなる追い打ちをかける。
現国教師にしてクラス担任の美濃部先生は、まるでマリンスノーのようね、などといって笑ったが、反論するものもツッコミを入れるものもなく、まさに言葉通り机に突っ伏して白く降り積もるばかりだった。
プランクトンの死骸に再び生命の息吹が吹き込まれたのは、昼食後のことだった。
みかげは結と共に約束の地へ、購買部へと赴いていた。
もちろん、結のオススメである特濃『なぜかプリン』を賞味するためである。
しかし……。
「残念、本日の販売分は終了しました、だって」
「そっかー、残念」
「昼休み入ったらすぐに買いに来ればよかった」
「そのエネルギー、食べる方に振り分けちゃったしね」
「こんなときだからこそ、午後の授業を乗り切るためにもゲットしたかった……」
拳を固める結は、本気で悔しそうだ。
「はーい、おふたりさん」
「うひゃ!」
「ひっ!」
ふたりの頬に冷たい感触が伝わる。それが今しがた取り逃がした『なぜかプリン』であることに気づくまで、コンマ5秒もかからなかった。
「あっ、『なぜかプリン』が!」
「なぜかここに!」
「あはは、ふたりとも思った以上に息がぴったりだね」
ふたり同時に振り向くと、そこには長身の女性が立っていた。
顔を見るよりもまず、圧倒的な存在感を誇る銀色の髪に目が奪われる。
「あ、深山先輩。こんにちは、お久しぶり……でもありませんね」
彼女の醸し出す独特の雰囲気に呑まれることなく、結は普通に挨拶を交わした。
「こんにちは、結さん。ずいぶんと忙しそうで、結構なことだ」
言いながら、持っていた『なぜかプリン』のカップを二人の手にのせた。
「これでしょ、ご所望の品は。あ、代金はいいから、もっていきな」
「そんな、悪いですよ」
「いいから、たまには先輩らしいこともさせて」
「あの、でも、わたしは……」
会話に入るタイミングを逸していたみかげが、声を上げた。
「そちらの彼女、たしか彩原さん、だっけ? はじめまして、二年の深山景です」
「こ、こちらこそはじめまして。一昨日からこちらの学校にお世話になってます、一年の彩原みかげといいます。あの、初対面なのにわたしまで、これ貰ってしまって……」
「そんなに緊張しないで。アタシ、成りはこんなだけど下級生には優しい先輩として通っているんだよ。ねぇ?」
そういって、結に同意を求める。
「ねぇ?」
イントネーションが思いきり疑問形である。
「プリン、いらないのなら別に……」
「いりますいります、もうすでに所有権は私に移ってますから!」
よほどのお気に入りなのだろう、結は両手でプリンを隠すように抱えた。
「彩原さんも、気にしないで貰って。それ、昨日のお詫びも込みだから」
「昨日のお詫び?」
「そう、連れが失礼なことしたみたいじゃない。ゴメンね」
それを聞いて、みかげはすぐに思い当った。
そうだ。あの魔女のことだ……と。
「もしかして、杞紗峰先輩のご友人ですか?」
「まぁ、腐れ縁みたいなものかな」
深山は、目を細めて微笑む。
無防備なその笑顔に、みかげは二人の関係を垣間見た気がした。同時に、納得した。
(たしかに、杞紗峰先輩にはピッタリのお相手かも……)
同類認定もした。
「そういうことでしたら、ありがたく頂戴します」
「それでね、彩原さん」
一瞬だった。気を許したわずかな隙に、息がかかるくらい間近に深山の顔がきていた。
「もしよければ、彼女の、セツの話しを聞いてあげてほしいんだ」
「話し、ですか」
「彼女、あれでも超がつくくらい真面目でね。一度こうと決めると周りが目に入らなくなるところがあるんだ。結果、昨日のように奇行とも取られかねない行動に出てしまったりするわけ。ちゃんと話し合えば、妙な行き違いで誤解することもなくなると思うのだけど、どうかな?」
「はぁ。でもわたしなんかで、お役にたてるのでしょうか……」
「彩原さんだからこそ、お願いするの。それにあなたも、知りたいことを聞くいい機会だと思わない?」
「はい……そうですね」
邪なものは無論なく、威圧の欠片も見せないのに、なぜか逆らえない。
ただ流されるままに、気が付くと話しはついていた。
「急ぐ話しでもないから、気の向いたときに話してみればいいよ。まずはそのプリンでも食べて、いつもの笑顔を取り戻して」
そう言うと深山はふたりに手を振り、その場をあとにした。
みかげは手にしたプリンをまじまじと見つめ。
「このプリン、すごく高くついた気がする」
結は少し気の毒そうに、みかげの肩を叩いた。
その後食した『なぜかプリン』のお味はというと……なぜか?プリンの味だった。
深山は購買の雑踏を抜けると、通用口を通って校舎の裏庭へ出た。
そこはいつも、彼女が昼休みに転寝を決め込む場所でもあった。
しかし今日は、先客がいた。
「よけいなことをしてくれるな、とでも言いたげな顔してるね」
そこでは杞紗峰が、腕を組み、相手の目を見据え、進路を塞ぐように無言で立ちはだかっている。
「話し、聞いてた?」
杞紗峰は静かに、かぶりを振る。
「聞かずとも、およその察しはつくわ」
「アタシにだって可愛い後輩にちょっかい出す権利くらいある、でしょ?」
「あなたが何をどうしようと、口を挟むつもりはないわ。ただ、よけいなことを吹き込んで、警戒させるようなことは止めて、と言いにきたの」
「そうでもしないと、追い詰めちゃうでしょ」
「追い詰める? 彼女を? 私は自分の判断を信じている。それで彼女が辛い目に遭ったとしても、結果さえ出ればすべては収まるべきところへ収まる。そう確信しているわ」
「やっぱりね」
深山は、軽くため息をついた。
「追い詰められているのは、みかげちゃんじゃないよ」
「え……」
ふたりの間に、静寂が漂う。
「まったく、分かっているんだかいないんだか。今回は結が咄嗟に機転を利かせてくれたから、いいようなものの」
「結が……何かしたの?」
「それについては、直接みかげちゃんから聞いた方がいい。そのほうが絶対、盛り上がるから」
「真面目に話しているのだけど」
「もちろん、アタシもさ」
交錯する眼差しに周囲の空気は張り詰めた。深山はしばらく黙っていたが、やがて意を決したように。
「やっぱり、言わなくちゃダメかね。あの名前を……」
「鏡可は関係ないっ!!」
叩きつけるように、杞紗峰は怒鳴った。
普段の冷静な彼女からは想像できないほどの、取り乱しようだった。
荒い吐息も、鋭い眼光も、噛み締める唇も、湧き出る感情をなぞるように激しいものだった。
「関係、ないから……」
低く抑えた声で、己の激高を抑える。
「鏡可はもういない。この世界のどこを探しても、居はしない。それは、誰より私がいちばんよく知っている。……鏡可を死なせた、この私が」
たどたどしく繋ぐ言葉には、棘があった。その棘は目の前に立つ親友に向けたものではなく、自分自身を刺すためのものだった。
深山の憂いを帯びた瞳に、傷まみれの杞紗峰が映る。
「結局、認めちゃったね。自分を追い詰めているものの、正体を」
その一言に、杞紗峰は押し黙った。
深山は、傍らに歩み寄り。
「鏡可の死は、鏡可だけのもの。いかなる者も、立ち入ることは許されない。それが身柱の宿命であり根幹。忘れないで」
耳元でそっと囁いた。