わたしの見ている世界 2
ふと。
(なんだろう……)
走りながら、胸に手を当てる。
(この、ざわついた感じ……)
先ほどからジクジクとした、胸の疼きを感じる。それは次第に強さを増していき、やがて刺すような痛みに変わった。得体の知れない不安を打ち消そうと、ぎゅっと手を握りしめた。次の瞬間。
目の前の光景が、赤に落ちた──。
視界に捉えるものすべてが深い朱色に塗り固められている。
空も、雲も、木も、道も、川も、人も、みな赤いベールを纏い、赤い世界の住人を装っている。
常識を粉微塵に打ち砕かれ、荒唐無稽な現実を突きつけられても、なぜか、みかげは冷静でいられた。不思議なくらい、恐れも焦りも感じなかった。
ただ……前を行く、結の姿を見失わないように、瞳から外さないように、全神経を集中させていた。体は自然と動いた。呼吸が楽になり、速度が増した。小さかった結の背中が、徐々に近づいてくる。みかげはその背中に、引き寄せられるように走り続けた。
すると。パサリ──と。何の前触れもなく、結の後ろ髪が解かれた。
髪は細く、長く、赤の中でも分かる艶やかな黒を纏って、美しい弧を描く。
同時に、強い違和感がみかげを襲った。
(結……じゃない?)
違和感の正体は、それだった。結と信じて追い続けていた人影は、彼女ではない別の誰かだった。そして、その背で揺れる長い黒髪には、見覚えがあった。
記憶の底をさらう指先に、明確なビジョンが触れる。
「あっ」
みかげは小さく声を漏らした。
(あの後姿は……杞紗峰、先輩?)
流れるような曲線を描いて靡く、高く結ったポニーテール。
これまでにみかげが何度か目にした、杞紗峰の後姿だった。
(どうして、先輩がここに……)
突然現れた杞紗峰の姿に、みかげは混乱した。
必死に考えを廻らせるが、それを遮断するかのように思考にノイズが走る。
幾度となく考えようとするも、その度に現れるノイズに意識は分断された。
それはあたかも、考えることを棄て、目に映るもの総てを受容せよと強いられているようだった。赤の世界の理に逆らう術はない。しかしそれでも、やれることは──。
足は止めないこと。愚直に進み続けること。
それがこの状況を脱する唯一の手段だと、みかげは確信した。
走る。無心のまま、杞紗峰の後を追う。
目の前を塞ぐ赤い布を引き裂いて、杞紗峰は疾走する。
みかげが進むべき道を作りながら、振り返ることなく駆け抜ける。
やがて。彼方に、白い光の点が見えてきた。
前を行く杞紗峰の影が白い点と重なり、眩い光りに熔けていく。
形を失くす、その刹那。杞紗峰が笑ったように見えた。
「どうしたのよ、みかげ!」
体を揺らす強い力に、みかげの意識は引き戻された。
最初に目に飛び込んできたのは、心配そうに様子を窺う、結の顔だった。
世界は再び色を取り戻していた。
あれほど圧倒的だった赤も、今は小さく花弁の縁を彩っている。
未だ混乱の覚めないみかげは、いったん大きく息を吸って心を落ち着かせる。
そして、周囲を見渡し、状況を把握する。
変わらない。前となにも変わらない日常の中に、みかげは佇んでいた。
「ねぇ、本当にどうしたの? なにかあった?」
真剣に訊いてくる結に、みかげは表情を緩ませて。
「なにかあった……のかな? 結は、知らない?」
調子外れなことを言った。
「それが分かれば、訊いてない。なんかさ、振り向いたらみかげ、青白い顔して苦しそうに息してたから、驚いちゃって。私のことも見えてないみたいだし、とにかく休ませなくちゃと思って、それで……」
「わかった、うん。ありがと、結」
「な、なにがよ。私は全然わっかんないんですけど」
「こっちのわたしは無事だった、てことが分かった」
「は?」
結は訝しげに、みかげを見る。
「いや、無事には見えないけど……あー、そうか、なるほどね。よし、帰ったら保健室で休もうか。私、付き添うからさ。なんなら悩み事も聞くよ。遠慮せずに話していいんだよ」
「そっち方面は、もともと正常ですから! 変な心配しなくていいから!」
全力で否定するみかげを、まあまあと慣れた風になだめる。
「とりあえず、ここを越えれば学校まであと少しだから。どう、いけそう? 肩貸そうか?」
二人が立っているのは、上入橋の手前だった。ここを右折し、橋を渡れば学校まで一キロもない。歩いても苦にはならない距離だ。
しかしみかげは橋の方は見ずに、それまで走ってきた道路の先を、緩いカーブを描いて山間部へと続く峠道を、ジッと見つめていた。
「ねぇ結、訊いていい? この道路は、どこへ続いているの」
いつもと違う気配に気づいたのか、結はそっと体を寄せて。
「『銅刺山』だよ」
「あかさし……やま」
「『あか』は『銅』。『さし』は突き刺すの『刺』。とても鋭く切り立った山なの」
「そう……なんだ」
「うん」
結は、みかげの手を取ると、強く握った。
「さっ、もう行こう。あまり遅れると、みんなも心配するし。そうだ、昼食のあと購買部で特濃『なぜかプリン』おごってあげるからさ、それで糖分補給しよ、ね?」
そう言うと結は静かに歩き出した。
再び道に迷わないよう、しっかりとみかげの手を引いて。