わたしの見ている世界 1
「今日は、体力テストを兼ねたマラソンを行う。着替えたら全員、校庭へ集合するように」
三時限目、体育教諭の倉山先生から過酷なメニューが発表された。
連休明けの鈍った体にこの仕打ちはさすがに堪えるらしく、クラス中から悲鳴に近い声が上がる。しかしこの数日、心身ともに休まる暇のなかったみかげにとって、魔女から解放されたこの時間はなによりありがたかった。
更衣室でジャージに着替えていると、女子がふたり話しかけてきた。
三つ編みにふっくら顔の笠木、おでこ全開に細面の小柴、二人でお揃いの赤いセルフレームの眼鏡をかけている。
そう昨日の放課後、結を見事に取り押さえた、あの二人組だ。
「ねぇねぇ、彩原さんは走るのって得意? 運動神経、良さげに見えるんだけど」
「昨日も校庭を走り回ってたらしいじゃない」
はじめに笠木が、続いて小柴が。どこから仕入れた情報なのか、興味津々に目を輝かせいる。悪意はないのだろうが、昨日の醜態を思い出させるそのセリフに、気分は沈んだ。
「おかげでガラスの靴は粉々になりましたとさ」
「ん?」
「なんて?」
「ううん、なんでも」
不思議そうに見つめるふたりに、愛想笑いをしてみせる。
「そういえばさぁ、彩原さんてアイドルグループの『つばくろ』好きなんだよね?」
笠木が別の話題を振ってくれた。
「うん、前に話したっけ? 注目したのはわりと最近なんだけどね」
「いいよね~『つばくろ』。とくにセンターの亮太ね! 最近は役者としての実力もつけてきて、ベテランに混じっても押し負けないっていうかさ、むしろ主役食っちゃうくらいのオーラ放ってるじゃん? なのにバラエティではメンバーのボケを拾う拾う、あのアドリブセンスは『雛段崩し』だよ。まだまだ伸びるね、あの子。あと変身二回くらい残してる」
全力アピールを繰り広げる女子ならではの迫力に、みかげは圧倒された。
「で、彩原さんも亮太推しなんだよね? 見る目あるわ~これからは同志と呼ばせて!」
「ちょ、ちょっと待って!」
あまりの勢いに、いったんストップをかける。
「たしかに『つばくろ』は好きだけど、わたしはどちらかというと、地味系の亜依斗のほうが好みかな。目立たないことで、ニッチなニーズに応えてる気がする。あ、もちろん、亮太も素敵だと思うよ?」
「えっ……」
意外な答えを返されたように、笠木は一瞬固まった。
「あれ、彩原さんの推しは……亜依斗だっけ。亮太じゃなく?」
「じゃなく、亜依斗」
「でもたしか、前話した時は亮太が……」
「ごめんね、これは譲れない」
「そう、なんだ……」
彼女の大切なものを否定することを言ってしまった、そんなバツの悪さに囚われた。
すると横から、小柴のフォローが入った。
「ごめんね彩原さん。この子、自分の好きなものは他の人も好きだって、思い込んじゃうところがあって。少し勘違いしてたみたい、許してあげて」
「いいの、こっちこそ突き返すような言い方しちゃって……ごめんね」
「き、気にしないで彩原さん、これ私の悪い癖だから。変なこと言ってこっちこそごめん」
「お互い『つばくろ』ファンなんだし、これからもヨロシク。てことで」
みかげが取り繕うように手を差し出すと、彼女もそれを握り返した。
「それじゃ彩原さん、着替えたら校庭でね」
そういって、ふたりは足早に更衣室をあとにした。
ひとり残されたみかげは、やや困惑したように口許に手をあてがう。
「わたし亮太がイイ、なんて言ったっけ……。そういえば、わたしが『つばくろ』を知ったキッカケって……何だっけ」
何度も首を傾げながら、ジャージのファスナーを締めた。
「遅いよ、みかげ」
校庭へ出ると、クラスメイトはほぼ集合を終えていた。こっちこっちと手招きする結の元へ、みかげは小走りに急ぐ。
「よーし、全員揃ったかー? それじゃあ話し聞けー。これから体力テストを兼ねた5キロマラソンを行う。先月の授業でも走ってるから、コースについてはもう分かってるなー」
似合わない無精ひげを撫でながら説明する倉山先生に『はーい』『ういーす』と、気の抜けた声があがる。
「前回と同じく、男子は置割川を反時計回りに周る上入橋ルート。女子は時計回りの下出橋ルート。途中すれ違うときは、必ず声をかけること。いいなー」
男女とも、時計のチェックに余念がない。
「彩原は今回が初めてだな。伴走に糸川をつけるから、何かあったときはすぐに言えよー」
サポートを任されているとはいえ、先生からの信頼も厚いのだなと、みかげはあらためて結を見直した。
「それじゃあ、よーい」
ホイッスルが高らかに鳴り響き、全員が校門へ向けて走り出す。
学校から出ると、すぐに列は二つに分かれた。男子は市道を北上して上入橋を目指し、女子は南下して下出橋を目指す。およそ5キロの行程は、谷間の村としてはわりと平坦で走りやすいものだった。しかしみかげにとっては初めてのコース、まずは一周走り切るまでやや遅めのペースでいくことにした。
「付き合わせちゃって、ごめんね」
「まぁ、昨日のおごりと、今日のこれ。セットでご破算にしてもらえたら、うれしい」
「べつにもう、怒ってないってば。それに結には昨日、それはそれは美味しい銘菓をご馳走になったし」
「時価千二百円のね」
「桁がひとつ増えてますよ。それに銘菓って、あずきバー(アイス)じゃない……」
「でもそれくらいの価値はあったでしょ? あずきバーを口にした瞬間、跪いて店員さんに許しを請うてたもんね、みかげ」
「してません。そもそも、許しを請うのは結でしょ……アイスが美味しかったのは認めるけど」
ぶつぶつと不満を並べ立てるも、当のあずきバーで陥落したのも事実だった。甘さと冷たさのコンビは、クールダウンには最適の一品のようだ。
「ところで」
みかげは、右隣を並走する結に訊いた。
「走るのは得意なほう?」
結は前方を見据えたまま。
「そこそこ、走れるかな。地元民だし、コースは庭みたいなものだから。もっとも、周りを山に囲まれているせいで、マラソンに適した道はここくらいしかないんだけど」
「クロスカントリーには絶好のロケーションかもね」
「そうだね」
答えて、笑う。
北から流れる置割川を挟んで、村は東西に二分されている。
緩やかな丘陵地と平地が続く東側北部が市街地、南部は主に畑作地となっている。
人の営みが感じられる東側とは対照的に、西側は急な斜面を持つ森林地帯が占めている。
南部には少数の民家や畑が残るが、川を遡上するに従い、地形はにわかに険しさを増していく。
西側にそびえる、剣のような頂を誇る山を『銅刺山』。
東側に横たわる、傘のようになだらかな稜線の山は『雛威山』。
趣の異なる二つの山の狭間で、雛威の村は長閑な時を湛えていた。
右手に川を望みながら、みかげたちは軽快な走りを続ける。転校当日、魔女に捕獲されたのもこのあたりだった。しかし今日は、魔女とは似ても似つかない優しそうなおばあさんが、走り抜ける女子たちに手を振っていた。
「こんにちは!」
挨拶をする結につられて、みかげもこんにちはと軽く会釈する。
「がんばってね、はい、あなたもがんばって!」
すれ違いざま、おばあさんは微笑みながら声をかけてくれた。その言葉と笑顔には、背中を押してくれる不思議な力があった。
「なんか、いいね。こーいうの」
「でしょ?」
「笑顔の給水ポイント、ていうのかな。元気が湧いてくるよね」
「みかげ、いっそ本でも書いたら?」
「はは、お恥ずかしい」
その後も何人かの村の人とすれ違ったが、みな快く挨拶してくれて、あまりの清々しさにかえってペースを乱しそうになるほどだった。
やがて川を跨ぐ道路橋『下出橋』が視界に入った。
道路を右折し、長さおよそ八十メートルほどの桁橋を駆け抜ける。
眼下を流れる置割川は、水量も多く水も濁っていた。
「ここを抜ければ、もうすぐ中間地点だよ。まだいける?」
並走する結の息は、さすがというべきかほとんど乱れていない。
「いけるいける、こんなとこでバテたら、せっかく貰った笑顔に申し訳ない」
「あ、向こうから男子がきたよ」
結の指さす先には、こちらへ向けて走ってくる男子の姿があった。
「もう来たんだ、さすがに男子は速いね」
「ていうか、あれ、竹宮じゃん。しれっと運動も出来ますよ的なアピールしてくれるね」
「そんな辛辣な言い方しなくても」
「なに、みかげ。あいつの肩を持つわけ?」
「そーいう訳じゃないけど」
「ふーん……やっぱりね。そういうこと」
「やっぱりって?」
「なにかあったんだ、昨日」
思いもよらぬ一言に、みかげは目を丸くした。
「な、ないよ。あるわけないでしょ、いやだなー結ってば、勘ぐり過ぎだよ」
みかげのよそよそしい態度を、結は訝しげに見やる。
「そう。わかった」
短く告げると、そのまま黙ってしまった。
気まずい空気が漂うなか、男子のトップ、竹宮との距離が近づいてきた。
竹宮の清々スマイルが確認できるまで接近したその時、結がひときわ大きな声で──
「あなたは笑顔の給水ポイント!!!」
「わーーーーーっっ!!!」
みかげは両手をバタつかせて結のジャージを引っ張っるが、時すでに遅し。竹宮は呆気にとられたように二人を見据えて。
「や、やあ、二人とも。残り半分、頑張って……!」
と、白い歯をのぞかせてキラリを返してくれた。
竹宮が横を通り過ぎると、みかげは結の手を思い切り引っ張って。
「ああいうことするの、やめて! 本気で恥ずかしいんだから!」
「べつに、みかげが言ったわけじゃないし」
「わたしのセリフでしょ、あれ! 勝手に手渡すようなことしないでよ、恥ずかしいな、もう……」
「恥ずかしいんだ」
「当たり前じゃない」
「やっぱりあったんだね……なにかが。二人だけしか知らない、秘密のなにかが」
「だからどうして、話しを全部そっち方面へ持っていくのよ!」
すると急に。結は伴走の任務を放り出して、一気にペースを上げた。
「じゃ私、先に行くから」
「あ、まって! もうちょっだけエスコートして!」
遅れまいと、みかげもスピードを上げる。全身に力を込め、意識的にストライドを広くしようとするが、みかげの小柄な体格ではどうにも効果が上がらない。数百メートル進んだところで、以前よりもペースを落としてしまった。
それに比べて、結は速い。走り慣れているせいもあるが、無理なく風に乗るみたいに疾走していく。絶望的に開いていく距離に、それでも諦めずみかげは駆けた。