君のことが 君のことを 3
人ひとりが一日に浴びる『不幸の量』は決まっている。
日によって、月によって、年によって、バラつきが出るのは、不幸を不幸として認識しているか否か、その差なのだ。
で、なければ。昨日と同じように、必死の形相で校内を走り抜ける自分なんて、いるはずがない。あるはずがない。
そうだ、今日一日が平穏だったのは、単に不幸が先送りになっていただけなのだ──。
全力疾走後の軽い酸欠状態のため、言語化には時間を要したが、みかげの脳内では先ほどからこんな持論が繰り返されていた。
速度を緩め、振り返って魔女が追ってきていないかを確認する。
視界良好。敵影なし。本日の不幸ノルマを無事達成できたようだ。
みかげは速足のまま、講堂の脇を抜けて校舎裏へと回り込む。
次の瞬間。
─ ゴンッ
「いたっ!」
突然目の前に現れた大木に激突し、尻餅をついてしまった。
「いたた……誰よこんなところに木を生やしたのは。危ないじゃない……」
半ば八つ当たり気味に、ぶつかった木を見やる。
やにわ、その眼が驚きで大きく開かれた。
かわり映えのない、ごく普通の一本のケヤキ。
梢を四方へと伸ばし、芽吹いたばかりの若葉が、初夏の風とじゃれあっている。
しかし、みかげの瞳に映った光景は、違っていた。
樹木と思えぬほど黒く冷たい光を滲ませ、大地に刺さった鉄の柱のように、禍々しく聳え立っている。そこに生命の息吹はなく、大気だけが不気味な鳴動を繰り返している。
「なに……これ……なんなの……」
みかげの口から、細切れの声が落ちる。
先ほどまで見ていた光景が一瞬ですり替わり、剥がれ落ちた日常の下からはもうひとつの世界が顔を覗かせていた。
空気が重い。鉛のように。そして赤い。血のように。
みかげはどうすることもできず。ただ、その世界を拒むように、力いっぱい目を閉じた。
「みかげ!!」
全身を強くゆさぶられる衝撃に、ハッと目を見開くと。
世界は、もとの姿を取り戻していた。
「ねぇ、大丈夫、みかげ……?」
彼女の意識をこちら側へ連れ戻したのは……結だった。
心配そうな面持ちで、色を失ったみかげを覗き込んでいる。
「どこか打った? もなにも、めっちゃオデコ赤いよね?」
それを聞いて、みかげはブンブンと首を振った。
「あ、赤くなんてないよ。もう、ぜんっぜん赤くない。むしろ青いくらい」
「いや、そっちの方が危ないって……」
そう言いながら、ハンカチをおでこに当てがう。
みかげは、一瞬の白昼夢から逃れられたことに、安堵しつつ。
「結……ありがとう」
「ん、なんて?」
「来てくれて……ありがとう」
消え入りそうな声で呟くと、涙ぐんだ。
「ちょっとぉ、どうしたってのよ、オカシイよ、みかげてば」
結はみかげの頭をやさしく撫でた。
「だってまさか、本当に来てくれるなんて思わなかったから……」
「本当に来てって……やっぱり何かあったの?」
コクコクと頷いてみせる。
「実はまた襲われそうになって……あとね」
最初のNGワードで、結の両サイドの髪がピキーンと逆立った。言葉を遮って、矢継ぎ早に問い質す。
「襲われそうって……どこで? 誰によ!!」
「それはだから──」
「彩原さん!!」
そう叫びながら飛び込んできたのは、竹宮だった。
竹宮は胸元をはだけ、はぁはぁと息を荒げながら二人へと近づく。
「彩原さん、よかった、ここにいたんだ。急にいなくなったから、どうしたのかと……」
「たーけーみーやー……アンタ、みかげになんてコトしてくれたのよ……」
「え?」
「へ?」
竹宮とみかげは、同時に結を見る。
背後に立ち上る怒りの炎も、おそらく見えていたに違いない。
「わかった。よぉーくわかった。その度胸は買ってやる。大枚はたいて買ってやる!! さぁ、そこへなおれ! いまこの場で、吊るし上げてやるっ!!」
「いや、まって、冷静になろうよ糸川さん。なにか勘違いしてるようだけど……ええと、これはどういう状況なのかな?」
「問答無用! 御意見無用!!」
結は、ヨーヨーでも構えるみたいに拳を固めてポーズを作る。
もそれもう、ヨーヨーを遥かに凌ぐモノを飛ばしそうな勢いだった。
「それじゃ、彩原さん。僕はこれで失礼するよ。また明日!」
「逃げるなー、コラーッ!!」
竹宮は状況を呑み込めないまま、それでも身に迫る危機だけはちゃっかりキャッチして退却していった。
「あーっ、まって、結! 違うから! たぶんそれ、間違った解釈だから!!」
みかげは飛びついて、取り返しのつかない一撃をどうにか制する。
「違うって、どういうこと? アイツにヘンなことされそうになったんじゃないの?」
結は未だ怒り収まらずといったふうに、憤怒の火の粉を散らしている。
「だから、竹宮くんは関係ないの! 身の危険を感じたのは、例の、あの『魔女』に出会ったから、なの!!」
そこまで聞いて、ようやく結の怒りは鎮火した。
「なんだ、そっちか。もう、心配させないでよ……」
「結が勝手に取り違えたんじゃない。竹宮くんは、そんなことするような人じゃないって。とても親切に、紳士的に接してくれたよ」
涙を流したのには驚いたが、それは彼の名誉のためにも伏せておくことにした。
しかしその返答にも、結は不満げだった。
「まぁ、確かにそうかもしれないけど……それはそれでちょっと」
「それより聞いてよ、出たの、また会っちゃったの、魔女に!」
結の手をグイグイと引いて、猛アピールする。
「そりゃ合うでしょ、同じ学校の生徒なんだし、ましてや少人数なんだし。それで。今度こそ否定したの? 魔法のこと」
「えっと、それは……それなりに……一所懸命頑張りました」
「出来なかった、んだ」
「努力は認めてほしいかも」
「努力の足りない人は、認めません」
「そんなぁぁ~~」
はあっと、結は大きく嘆息すると。
「仕方ない、親友の窮地なんだし、ひと肌脱ぎますか!」
力強く言いながら、みかげの肩をポンポンと叩いた。
「脱いで……くれるの?」
「うむ」
「全部?」
「ひと肌って、いってるじゃない」
「具体的に、どうやって否定すればいい? 振り切ればいいの?」
「魔法を解くのよ」
「はい?」
みかげはきょとんとした顔で、結を見つめた。
結は小さく咳払いすると、仕切り直すようにみかげと向き合い。
両手を合わせ、満面の笑みを浮かべて小首を傾げてみせた。
「はいっ、ウソでしたーー」
時間停止を体験するのは、これで何度目だろう。
彼女の発した言葉の意味を理解できず、みかげは目をしばたたかせた。
「はい?」
「ですから、ウソでしたー……てね?」
「はい?」
「あらら、彩原さんにはちょっと難しかったかな~」
「いや、難しいとかじゃなく……えっ、ウソ?」
みかげは自力で時間を再始動させると、結に詰め寄った。
「ウソって、なによ? なにがウソで、ウソがなんなの? えーと……もう、わかるように説明してよ!」
「はいはい。答えは簡単、つまり杞紗峰先輩は魔女属性ではないということ」
「…………」
「女の魔法のくだりも、全部創作。私のウソ。ごめんなさい、とにかくごめんなさい」
「え? え? じゃあなに、今まで信じてきた話は全部……ウソ?」
「そう」
「青い果実の狩人、も?」
「そう」
「君の蜜でボクを満たして、も?」
「そう」
「苺ちゃん今夜はクライマックス、も?」
「それは言ってない」
「ええええええええええええ!!!!!」
全身から力を引っこ抜かれたみかげは、その場にへたり込んだ。
「じゃあ今までずっと、結の妄言に振り回されてきたって……こと?」
「うん、私もね。さすがにそろそろ真実を告げないと悪いな、マズイなと思っていたの。でも言い出すタイミングを逃しちゃって。タイミングって、本当に大切だよね。今回のことで改めて思い知った。本当にごめんね、みかげ。私のことは許さなくていいから、自分自身は許してあげて」
怒りも度を越すと、喪失感しか残らない。今のみかげは、自分を埋める穴を探したい気持ちで一杯だった。
しかし。結への失望や不信を抱く前に、考えなければならない事柄があった。
「だとすると……」
「ん?」
「先輩の言った、魔法ってなに」
当然の疑問が、口をついて出る。
「さぁ? 私もよくわかんない。けど、杞紗峰先輩がそう口にしたのなら、何かしらの意味はあるんじゃない。だって先輩、ああ見えてすごく真面目な人なんだよ」
みかげはギロリと、結を睨む。
「そう見せたのは、誰でしたっけ」
「半分は、私かな」
「…………」
「ごめん、帰りに季節限定の和菓子おごるから」
「わかった。許すには安すぎるけど、結には良くしてもらったし……それでいい」
「萌茶苑の銘菓を見くびってもらっては困るなー。一口食せば、跪いて許しを請うから、きっと」
「騙された上に許しを請うとか、割に合わなさすぎる」
「まずは現物を見て、そして味わって。話しはそれからそれから。さっ、行こう」
結は半ば強引に話しを切り上げると、みかげの手を引いて歩き始めた。
力強い手に引かれながら、みかげは後ろを振り返った。
そこでは先程と変わらずケヤキが寡黙に佇み、梢を揺らしていた。