君のことが 君のことを 2
外装を白で統一した雛威高等学校校舎──
中央に位置する玄関から、左右に建物を延ばしたシンメトリー構造。著名なデザイナーの名こそ冠していないが、シンプルさゆえの癖のないデザインはこの村の一部として周囲の景観にとけ込んでいた。
一階の西側から図書室、二年教室、一年教室、男子女子手洗い、医務室、理科室。
二階へ移り西側から多目的室、美術室、三年教室、職員室、校長室、応接室、多目的室と並ぶ。中央玄関奥には購買部があり、横には階段が配されている。
ちなみにサボリの聖地こと、屋上はない。
新入生であっても半日もあれば把握できてしまう小さな校舎、わざわざ案内をしてもらう必要はないのかもしれない。
しかし建物の規模だけで、そこに刻まれた歴史を量ることはできない。
たくさんの卒業生が残した足跡、いまの生徒たちの声を、解りやすい形で切り取って、感じてもらう。案内はその「取っ掛かり」を与える重要な役目も担っているのだ。
図書室で、雛威村の歴史を記したいくつかの文献や郷土資料に目を通し。
理科室で、この土地に植栽されている草花などの種子類のサンプルを興味深げに眺め。
美術室で、生徒たちが作った古くから伝わる工芸品の数々に感心し。
教室を回る度に、自分という存在がこの村の風土に刻まれていくような感覚は、とても新鮮なものだった。
「どうだった、彩原さん。ずいぶん熱心に見入ってたけど、満足してもらえたかな?」
「はい、もちろん。とても充実した時間でした。やっぱりこの学校の生徒さん直々に説明してもらうと、違いますね。言葉のひとつひとつに、説得力があるもの」
一通り教室を見て回った二人は、玄関から校庭へと歩き出た。
校舎と並ぶように、大きいとは言えない講堂が併設され、その隣りには更衣室とシャワー室がこぢんまりと佇んでいる。
竹宮は仕上げとばかりに講堂や更衣室の利用についてのレクチャーを始めたが、どういうわけか、校舎裏に建つ旧校舎については一向に語り出す気配がない。
もしかしたら、みかげがまだ旧校舎の存在を知らないと思っているのだろうか。
みかげも、下手に質問して余計なことを詮索されても困るので、あえて知らぬフリで通すことにした。
二人は西日が照りつける校庭をしばらく歩くと、木陰のベンチへとやって来た。
「少し休んでいこうか」
そう言って竹宮は「どうぞ」と、みかげを先に掛けさせた。
控え目に、ベンチの端に座ったみかげは、根を詰めて強張った背中を解すように、小さく伸びをする。
木漏れ日が地面にさざ波を写し、涼しげな風が髪を洗うように吹き抜けていく。
そんな穏やかな空気の中。
ふいに、竹宮が硬い声で。
「ねぇ、彩原さん。いきなり、なんだけど……お願いが、あるんだ」
そう言って、真剣な眼差しでみかげを見つめた。
「はい……?」
その表情は先ほどまでの優しいものとは違い、ひどく真面目で……強張っているように見えた。
「手を握っても……いいかな?」
「えっ……」
みかげは小さく声を発して。
そのまま黙ってしまった。
にわかに頬が熱を帯びる。
息が苦しい。
結がしていた、ないはずの「心配」が現実に起こった。
結に言われた、狼煙の用意はまったくできていない。
「えっと、それは、わたしの手を……ですか?」
沈黙をイエスと受け取られることを怖れたみかげは、とりあえず間を埋めるよう思いついた言葉を並べる。
そのたどたどしい返答に、察したのか竹宮は。
「そうだよ……ね。さすがに、それはないよね。ごめん、我ながらすごくみっともないことをした。いまのは、忘れてくれ……」
そう言うと視線を逸らし、押し黙ってしまった。先ほどまでみせていた余裕は失せ、その身を窮屈な箱に押し込めるよう、畏まっている。
その姿には、軽薄な言動とは真逆の、切羽詰まった焦りのようなものが見てとれた。
なにか、言いようのない違和感を覚えたみかげは。
「手を握る、と言われると困るけど……」
そう告げて。
「握手なら、いいですよ。友達として」
自ら手を差し出した。
えっという顔をして、竹宮は視線を戻す。そしてそこにある白い手のひらを見て、さらに目を見開いた。
「よろしく、クラス委員長の竹宮くん。これからも頼りにしますね」
無垢な眼差しで、真っ直ぐに語りかける。
文字通り、差し出された救いの手を、竹宮はそっと取る。
「ありがとう、彩原さん。本当に……ありがとう」
それは握るというより、触れずに包み込むといったほうがよかった。
すぐにも弾けて消えそうなシャボンの玉を、下から支えるように手のひらで受ける。
「そこまでされるのも、別の意味で恥ずかしいような……」
照れたように言って再び彼の顔を見ると、そこには頬を伝う一筋の滴が……。
(え? え? えええええ!?)
さすがにこれは予想外だった。
思ってくれるのは嬉しいが、なにも泣くことはないのに──。
予想の斜め上から突き落とされたみかげは、どうリアクションすべきか迷った。とりあえずいま必要なのは狼煙ではなく、ハンカチのようだ。慌ててスカートのポケットに手を回すと。
「ごめん、いいから。大丈夫だから……気を遣わせて、悪い」
言ってやんわりと断ると、人目もはばからず、ケンカに負けた子供のようにゴシゴシと手の甲で顔を拭った。
演技や悪ふざけで、他人を担ぐような人ではない。それは、短い時間だったがみかげに接してきた態度からも十分に感じ取れた。だとすれば、いったい何が……?
このまま黙って見守るべきか、なにかしら声をかげるべきか、みかげは悩んだ。
すると。
「いやー、いい汗かいた。さっぱりしたよ。さてと。流した水分はしっかり補給しないとね。なにか飲み物買ってくるけど、彩原さんはなにがいい? ジュース? お茶?」
と、顔にかかった雨雲を払い、燦々とした笑顔をのぞかせた。
「え、えっと、それじゃ、オレンジジュースで」
「わかった。少し待ってて、すぐに買ってくるから」
一方的に告げると、得意の白い歯をのぞかせながら、校舎へ向かって走り出した。
小さくなっていく背中を見送りながら、みかげは安堵のため息を落とす。
そして力が抜けたように、ベンチの背もたれに体を預けた。
「はぁーーーー…………なんだったんだろ、いまの」
何もかもが急すぎて、状況の把握が追いつかない。
とくに彼の心中については霧の中、というより霧のさらに向こうといった感じだった。
「わたし、何かしたかな、竹宮くんに」
うーんと、首を傾げてみるが、傾いた地平から都合よく答えなんて転がってきはしない。
ここは一旦、自分に会えて感極まったと解釈しておこう、みかげはそう決めた。
「そういえばたしか……生徒が少ないから仲間が増えるのは嬉しい、て言ってたよね。やっぱり他県からの転入生は珍しいのかな。だとすると」
他の男子生徒からも、さっきのような告白が続くかもしれない──そんな妄想をして、思わずニヤついた。
「来ちゃったのかな、ついに。わたしの時代」
五月とはいえ午後の日差しはとても強い。蜃気楼を見ても不思議ではなかった。
そのとき。靴音がひとつ、みかげの心地よい妄想に踏み入った。
すぐそばに人の気配を感じ、視線を上げる。
「あっ、すみません。何か気を遣わせちゃったみたいで──」
そこに居たのはジュースを手にした竹宮、ではなく。
例の。あの。魔女だった。
木漏れ日が地面をまだらに穿ち、熱を孕んだ風が髪を乱すように吹き抜けていく。
その中をゆっくりと、不可視の闇を纏ってこちらへと近づいてくる。
「こんにちは、彩原さん」
ごく普通の挨拶が、何かの呪文に聞こえる。
「あ、えっと、こんにちは、杞紗峰先輩」
「隣り、いいかしら」
そう訊かれたときには、すでに目の前まで来ていた。
「ええ、どうぞ」
魔女のテリトリーに入ったみかげに、逃げる術はない。腹を決めた。
杞紗峰は静かに、みかげのそばに腰掛ける。
「どう、授業にはついていけそう?」
「はい、前の学校と内容に大きな差はないので、なんとかついていけそうです」
「クラスには、もう慣れた?」
「はい、皆さん親切にしてくれるので、とても気持ちよく過ごせています」
「ところで」
「はい」
「ここで何をしていたのかしら?」
「はい、校内を案内……い、いえ、見て回っていたところです」
つい正直に答えようとして、慌てて訂正した。嘘は……嘘はついていない。
この状況に竹宮を巻き込むことは避けたかった。もし変に勘ぐられでもしたら、竹宮にも危害が及びかねない。真意は測りかねたが、寄せてくれた厚意への恩は、どのような形であれ返しておきたかった。
「そう」
杞紗峰はその返答を怪しむ様子もなく、額面通りに受け取ってくれたようだ。
「ところで、先輩はどうしてこちらへ? なにか用でも?」
話題を早く逸らしたいみかげは、当たり前すぎることを訊いてみた。
「とくにこれといった用件はないのだけど。そうね、強いて言うのなら」
こちらを向いて。
「あなたに、呼ばれた気がしたから」
口許を緩めた。
(いやいやいやいやいやーーーーっっ!! 呼んでませんし、強いてもいません! これみよがしに微笑まれても、ごめんなさい、嬉しくありませんから!)
「ね、彩原さん」
ねっとりと体をすり寄せてくる。
「そのスカーフ、曲がっているわよ」
言って、みかげの胸元に手をかけた。
赤のスカーフをたぐるように、白い手がなまめかしく這い上がってくる。
止めなければ。ここで止めなければ、確実に特殊イベントが発生してしまう。
みかげは意を決し、自らのスカーフに手を掛けると、勢いつけてパッと横へ薙ぎ払った。
あっ、という顔をして、杞紗峰は目を開く。
「マフラーを靡かせるのは、ヒーローのセオリーじゃないですか! わたし、昔からヒーローものに憧れていて……あんまり女の子らしくないねって、周りから言われてたんですよ。そう、わたし、男っぽい性格なんです!」
必死で『魔法属性』を否定する。この機を逃したら、たぶん次はない。何を言っても、言い訳として処理されてしまうだろう。
しかし杞紗峰は。
「そうなの。私も嫌いじゃないわよ、ボーイッシュな子は」
意に介す様子もなく、みかげの瞳を、じっと見据える。
(そんなジッと見られても、何も出ませんから! 発動しませんから!)
「彩原さん」
「は、はい」
「このスカーフ、何色に見えて?」
「何色って……どこからどうみても、赤ですけど」
「そう、赤いわね。じゃあどうして、赤く見えるのかしら?」
「ひ、光の反射のせい、とか?」
すると杞紗峰は、静かにかぶりを振った。
「それは『あなたの色』だから」
「…………」
「大丈夫、こわがらなくていいわ。あなたの色は、ちゃんと私にも見えているから」
(たすけてたすけてたすけてーーーーーっっ!!! 誰でもいいから早くここからわたしを連れ出してーーー!!)
いくら叫んだところで、助けなど来るはずもない。
来ないのなら、行くしかない。こちらから。
みかげはやにわ立ち上がると。
「わたし、人と待ち合わせしているので……すみません、先輩。そろそろ失礼させてもらいます! いろいろとためになるお話し、ありがとうございました!」
まくし立てるように告げると、大雑把に一礼する。
そしてその場から全速力で走り去った。
昨日とまるで同じ展開に、残された杞紗峰はただ彼女の背中を見送るしかなかった。
「ためになったのかしら……本当に」
そう呟く杞紗峰の後頭部に、コツンと何かが当たった。
ポニーテールを押さえながら振り返ると、そこには一人の女子生徒が立っていた。
腰まで迷いなく流れ下る、銀色の髪。
切れ長の瞳は紫に染まり、その色を通して世界を見ているかのようだ。
すっと筋の通った鼻、凛々しく結ばれた口許、過度の誇張のない均整のとれた体つき、それらすべてが黄金比に寄り掛かることなく、あくまで自己を主張している。
『深山景』。杞紗峰と同じ二年生である。
「盛りすぎだ、セツ」
ややハスキーな声音で、諭すふうに語りかける。
手には『孫の手』が納まっており、自らの肩をポンポンと叩いている。杞紗峰の頭を小突いたのも、それらしい。
「景……」
どうやら一部始終を見られていたらしい。それでも杞紗峰は顔色一つ変えない。最初からそこにいることが、分かっていたかのような反応だった。
「あそこまでする必要、あるの? かわいそうに、あの子あんなに怯えてたじゃない。もう少しさ、お姉さんらしく優しく手引きしてあげたらどう」
「そう見られるのは心外ね。私なりに、誠意と節度をもって接しているつもりよ。それに、いつまでも悠長に構えていられない事は、あなたも分かっているでしょ」
「悠長どころか、焦っているようにしか見えないけど」
「次の『夜祭』まであと三月もないのよ? 焦るべき時に焦るのは、無駄なことではないわ」
「焦った分の手当てがつくなら、いくらでもどーぞ、なんだけどねぇ」
「いまはひとつでも多くの力が欲しい。私のしていることに、どこかおかしいところでもあって?」
「いーや、なにも」
深山は抑揚のない声で応じると。
「まぁ、イザとなったら、二人分でも三人分でも、足りない仕事は全部アタシが引き受けるよ。セツが一年のクラスに押しかけずに済むくらいの余裕は、確保してあげる」
「そうさせないために、今こうして動いているの。もう誰かに重荷を背負わせることは、したくないから」
そう言うと、杞紗峰はベンチから立ち上がった。
「ん、なに。もう行くの?」
「ええ。ここにいても、得られるものはなさそうだし」
「つれないんだ。せっかく会いに来てあげたのに」
「いい加減見飽きたでしょ、こんな無愛想な顔」
「まぁね。でも明日になればまた、恋しくなる」
「マスドの広告みたいなこと言わないで」
杞紗峰は表情を緩めてみせると、小さく手を振って歩き出した。
深山は去っていく彼女の後姿を、その紫色の瞳に映しながら。
「焦りは無駄じゃない、か。自分を急かせているものの正体は、ちゃんと見極めているんだ……。だとしたらなおさら、誉められたことじゃないね」
呟いて、空を仰いだ。