お姉さまの魔法がとまらない 5
再び目を開ける。いや。外圧により、こじ開けられた。
気配など微塵も感じさせなかったのに。なぜ、奴はここにいるのか。
この────黒錆は。
全身を黒鋼で覆った、甲冑のごとき出で立ち。
その躰は、錆鬼と呼ばれる赤い個体よりも二回りほど大きい。
実寸だけではない。大気を震わす息吹も、岩さえ抉る眼光も、帯びる殺気も比較にならないほど、圧倒的だ。
錆鬼の上位体、黒錆。それがいま、みかげの目の前に立ちはだかっている。
無いはずの顔に、あからさまな嘲笑が浮かぶ。
みかげは完全に、射竦められた。
助けを呼ぼうにも、声が出ない。
圧し掛かる殺気は、全身の筋肉を萎縮させる。
みかげは以前、同じ感覚を味わったことを思い出した。
そう、胸を貫かれた、あの時だ。
あの時と同じ光景を、今またここで再現しようとしている。
黒錆の腕は、みかげを割るための鉈に変化している。
天に向けて腕を振り上げると、重なった月が、真二つに割れて見えた。
両断された月に自らを重ねたみかげは、ようやく我を取り戻した。
腕が振り下ろされる。
轟音と共に空を裂き、その動きを止めた直後、大地は砕けた。
飛び散る土くれに混じって、みかげが弾き出される。
ギリギリのところで直撃はかわした。だが、脚が動かない。骨が折れている。右脚は全くいうことを利かない。左足も、辛うじて曲げることができるくらいだ。
黒錆は、彼女が逃げられないことを理解すると、あえて緩慢な動きでにじり寄った。
鉈の腕を引き摺りながら、いやらしく嗤う。
「みかげ!!!」
ひときわ高く通る声が、みかげに届く。
森の中から、結がこちらに向けて駆けてくる。
走りながら、手を水平に払った。
金色の糸が空を疾り、黒錆の腕に絡みつく。
だが。黒錆は僅かに鉈を揺するだけで、いとも容易く断ち切った。
結の力はすでに尽き、敵を拘束するだけの力を失っていた。
「みかげちゃん!」
「みかげ!!」
事態に気づいた景とセツが走り出てくるが、距離がありすぎる。
羅紗切鋏も更剥ノ杖も、黒錆を止めるにはあまりに足りない。
黒錆は再び腕を振り上げると、みかげに狙いをつけた。
「にげて!!!」
誰の声かも分からない、悲痛な叫びが響き渡る。
しかし、みかげは目を逸らさなかった。
動けようが動けまいが、視線を外すことなど考えてもいない。
そして。鉈が振り下ろされる。
黒錆の顔が、まさに眼前に迫る。
みかげは唯一動く左脚に渾身の力を込めると、黒錆に向かって大きく飛んだ。
強く、強く握りしめる掌には、願いを託したクリスタルのキューブがある。
「来い、黒賽!!」
ありったけの思いをこめて、その名を呼ぶ。
主の命に従い、手の中のキューブが眩い光を放った。
漆黒の立方体が、彼女の元に顕現する。
直後、巨大な鉈が頬をかすめる。
腕を擦り抜けたみかげは、仇の顔めがけて、黒賽を思い切り叩き込んだ。
振り下ろす力と、突き上げる力。
空間を切り結ぶ、異なる二つの腕。
みかげのクロスカウンターが、黒錆の顔面に突き刺さる。
バリッ、という嫌な音がして、黒錆の表皮が、下卑た表情もろとも剥がれ落ちた。
そして山が動くようにゆっくり、後方へと崩れた。
「恩だろうが拳だろうが、もらったものは必ず返す! それがわたしの流儀だから!!」
これまで聞いたこともない大きな声で、みかげは怒鳴りつける。
黒錆は沈黙したまま、それを答えとするかに思えた。
しかし。そうそう聞き分けの良い輩ではなかった。
全身を震わせながら起き上がると、三度みかげの前にその巨体を晒した。
みかげもまた、一歩も退かない。
黒錆は土に刺さった鉈の腕を、引き抜こうとする……が。
どうしたわけか、微動だにしない。いや、動かせないのだ。
鉈には金色の糸が何重にも巻かれ、地面と縫い合わすように繋がっている。
結だ。荒い呼吸を繰り返しながら膝をつき、それでも瞳だけは逸らさず、懸命に手を伸ばす。
「ヤツの腕と木の根を縫い合わせといた……。ごめん、これが私の限界……みたい……」
力を振り絞って告げると、糸が切れたように前のめりに倒れ伏した。
「結……」
少しでも彼女に近づこうと、みかげも必死に手を伸ばす。
視界が霞む。意識が闇へと溶け出していく。
(せめて、この手だけでも──届いて)
願いは届いたのか、潰えたのか。それを知る前に、みかげの意識は途絶えた。
黒錆の標的は変わらない。
対象物の状態にかかわらず、腕を、脚を、躰を、刃とし針とし巌とし。斬る。刺す。潰す。散った仲間の錆の中へ、埋め、葬る。
それ以外の思考を、行動を、持ち合わせてはいない。
その為であれば、厭わない。己の体を、己自身で欠くことも。
黒錆はもう片方の腕を振り上げると、金糸に絡め捕られた鉈の腕を、躊躇なく斬り落とした。黒い血が、黒い錆が、重油を撒くようにあたりに拡がる。
代償の対価に『自由』を得た黒錆は、みかげへと腕を伸ばしていく。
ぬめり滴る爪の先が、柔らかなうなじ触れようとした、その瞬間。
空に、ふたつの影が舞った。
セツと景、二人の巫女は、各々の巫餞を黒錆の胸部めがけて突き立てる。
「虚伏、黒錆!!!」
羅紗切鋏の刃が。更剥ノ杖の白髪が。黒錆のど真ん中を穿ち、刳り貫いた。
重油タンクが破裂した。回収不能の黒い錆が、窪地全体を覆い尽くす。
耳をつんざく咆哮が、森の木々を打ち震わす。
黒錆は全身を仰け反らせ、赤黒い土煙を上げて大地をのた打ち回る。
胸の孔から噴き出す錆は、血と錆でしか語り合うことのできない彼らの感情の表れにもみえる。
飽くまで散らし。果てるまで降らせ。尽きるまで流す。
一滴、一欠け、すべて残らず、躰中の錆を絞り出す。
やがて藁のように朽ちた躰を、自ら頭部を捻り、強引に捩じ切った。
躰から離れた首は、黒い大地を転がっていき、やがて──。
逃げるように森の奥へと消えていった。
「自切したか」
「生に対する執着は、人間以上ね」
景とセツはそれ以上の深追いはせず、森の奥に鋭い視線を投げた。
「迂闊だったね。まさか敵の大将が潜んでいようとは」
「あれだけの数の錆鬼が揃った時点で、司令塔の存在を疑うべきだったわ」
「アタシらの感知をかい潜るタイプか……厄介な相手だ。まったく、先輩面していいとこ見せようなんて、とんだ思い上がりだったよ」
「でも……そんなあなたに救われたのも事実よ。さっきはキツイこといってしまったけど……ありがとう。いつも助けてもらってばかりで」
「はいはい、そーいう湿っぽい話しは、な・し・で。とりあえず、みかげちゃんが巫女の力を得る、という目的は果たせた訳だし。サプライズはあったものの、初陣としては上出来じゃない?」
「問題は、彼女がそれをどう思っているか、なのだけど」
セツはそう言って、力尽きて横たわるみかげの傍へ寄った。
「それは愚問でしょ。さっきのアレ、見ればさ」
芸術的に決まった、みかげのクロスカウンター。
それを生んだのも、一歩も退かない彼女の勇気と信念があったからこそだ。
「まさか、黒賽をあんな使い方するなんてね」
景は愉快そうに笑う。
「本当、信じられないことを平気でやってくれる子よね。出会ってからずっと、驚かされてばかりだわ。それと、そう……同じくらい驚かされたのが、結の咄嗟の振舞い」
景の胸に抱かれた結は、清々しい顔をしている。
「自分が倒れることも厭わず、誰かのために力を尽くすなんて……あんな姿、初めて見たわ。あそこまでする子なんだと、改めて知った」
「それだけ、結にとっても大切な存在なんだよ」
「そうね。とても大きな存在よね……」
セツは愛おしそうに、みかげの髪を指で梳く。
みかげの脚は、巫女の力によって少しずつ元の状態を取り戻していく。
それでも歩けるようになるまで、もうしばらく時間を要するだろう。
「どうする、ここで回復を待つのも物騒だし、このまま背負ってく?」
「それしかないでしょう。帰りのバスがあるわけでもないし」
「それがあるんだなー」
「また、見え透いた嘘を……」
「迎えが来てるんだよ、美濃部先生がね、心配して車を出してくれたんだ」
「美濃部先生が……」
普段のおっとりした性格からして、こんな荒事に関わってくるなどとは、考えもしなかった。やはり先生は先生なのだと、セツは思った。そして胸に手を当て、感謝の意をあらわした。
「よっし、それじゃ」
景は更剥ノ杖を軽く指先で回すと、元の孫の手の状態に戻した。
それを腰に差すと、結の体を両腕に抱えた。
「結局、これくらいか。先輩らしいことしてあげられたのは」
セツも、自分の影に羅紗切鋏を沈めると、みかげを抱き起して背に負った。
「わずかの間に、ずいぶん重くなったものね。もう、私の力では足りないかもしれない」
「それ、みかげちゃんが聞いたら怒るよ」
「そういう意味じゃないわよ、もう」
背中にかかる重さが、いまはとても心地よい。
篝地蔵の明りが、満ち足りたふたりの顔を照らし出す。
その手には、なにより大切な宝物が抱かれていた。




