お姉さまの魔法がとまらない 1
翌日夕刻。
みかげと杞紗峰は、銅刺山へと向かう路線バスの車中にいた。
車窓から望む山並みは、ゆるやかに傾く夕陽を受けて赤味を増していく。
刻々と変わるグラデーションの美しさに目を奪われたが、それもやがて、訪れる闇へと没していった。
バスを降りる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。山の峰に僅かに残る夕陽も、ほどなく夜の帳に隠されるだろう。
二人は、以前来たときと同じ林道へと歩を進める。
木立に覆われた道を歩きながら、みかげは尋ねた。
「あの先輩、少し聞いてもいいですか」
「なにかしら」
「いまさら過ぎるんですけど、以前来たとき……わたしが気を失ったあと、何があったんですか? 気付いたときは、旧校舎の教室に寝かされていて、そのときのこと、まったく覚えてなくて」
「たしかに、今更ね」
「すみません」
「べつに責めている訳ではないのよ。こちらとしては、説明は済んだものと勝手に思っていたから。そうね、あなたにはちゃんと答えておく必要があるわね」
杞紗峰は歩調を緩めてみかげに並ぶと、話し始めた。
「あなたを襲ったのは、私たちが『黒錆』と呼ぶ錆鬼。この前私が倒してみせた『赤錆』の上位体、といえばいいかしら。大きさも、速さも、力も、数段上の存在。なにより厄介なのは、黒錆には……知性があるということ」
「知性……モノを考えることができる、ということですか」
杞紗峰は暗い林道の奥を見据えたまま、静かに頷く。
「黒錆は……あなたを倒すつもりなんて、最初からなかったのかもしれない。あの不意打ちは私に対する挑発、いいえ、宣戦布告だったと見ている。だから一撃のあと二の矢を放つことなく、撤退したんだわ」
薄明りの中でも、杞紗峰の表情が強張るのが分かった。
「何もできず奴を取り逃がしたのは、本当に悔しい。けど、あの状況で闘いを続けることが正しい判断だったとも思わない。なにより、あなたを放っておくことなんて……できはしないわ」
「でもわたしは巫女なんだし、時間が経てば元に戻るんじゃ。事実、目が覚めたとき、わたしの体に傷は──」
「そういう問題では、ないのよ」
語気を強めて、みかげの喋りを遮る。
「近しい人が傷ついて、苦しんでいるのをみて、それでもあなたは放っておけるのかしら? たしかに、身柱の力に任せれば、体は元に戻るし痛みも消える。けれど、それを理由に目を逸らしてしまえば、きっと私は人としていちばん大切なものを失う……。甘いと、それこそ今更何をと笑う人もいるかもしれない。それでも私は、決めたのよ。人でないからこそ、人として大切なものを失くしてはならない、と。でなければ……私は本当に、人ではなくなってしまう」
夜空に浮かぶ月が、杞紗峰の顔を青白く浮かび上がらせる。
風に混じる冷気に、息は白く霞む。
彼女の願いとは裏腹に、月明かりをまだらに浴びる姿は、この世のものとは思えぬ妖しさを纏っていた。
「もっとも……いまの私に、それを言う資格はないのかもしれないけど」
聞き漏らしてしまうような声でつぶやくと、高く結ったポニーテールを靡かせ、再び足を速めた。
銅刺山の麓の社にたどり着く頃には、目もずいぶん暗闇に慣れていた。
いや、慣れる以上に、境内の様子や社の造りが驚くほど鮮明に見てとれた。
(これも巫女の力、なのかな)
みかげは注意深く、周囲を見渡していく。
(そういえばここ、なんていう神社だろう)
社の名を示す、石柱や扁額は、どこを探しても見当たらない。
みかげは、すでに社の扉に手を掛けていた杞紗峰を呼び止めた。
「杞紗峰先輩、この神社の名前わかりますか?」
杞紗峰は手を止めると、その姿勢のまま答えた。
「銅刺の社、よ」
「そのまんまですね」
「それ以外の名前で呼ぶ理由があれば、別だけど。それから、その杞紗峰先輩という呼び方……できれば改めてもらえないかしら」
そう注文をつけながら、みかげのほうを向く。
「えーと……どんなふうに呼べば?」
「セツ先輩でも、セツさんでも、好きなように呼んでいいわ。結もそうしているし」
「なるほど。それじゃあ……『お姉さま』で」
「却下」
「ええー」
「そんな呼び方をされたら、気が散って闘いどころではなくなるから。それは却下」
「それ、先輩の都合じゃないですか」
「なにか言って?」
「いえ、なにも」
第一候補を除外されたら、あとは無難な呼び方しか残っていない。それでも名前で呼ぶことができるのは、二人の関係にとって大きな前進といえた。
(セツ先輩……うん、これはこれでなかなか。いいかもしれない)
みかげは思いの外、しっくり馴染んだ呼び名に満足した。
「そうだ、セツ先輩。これからはわたしのこと『みかげ』って呼び捨てにしてもらって、かまいませんから。わたしも名前で呼ばれたほうが嬉しいです」
「みかげ……?」
「はい」
「わかった。そう呼ぶことにするわ……」
「はい!」
了承はしたものの、なぜだろう、セツの態度が急によそよそしくなった。
あえてみかげから視線を逸らしているようにも見える。
「あの、セツ先輩」
「…………」
「セツ先輩?」
「…………」
「先輩っ!!」
「聞こえてる! 聞こえているから、何度も呼ばないで」
「だったら応えてくださいよ、心配になるじゃないですか」
「それで、なにか用なの?」
「いえ、とくには。わたしの名前、ちゃんと呼んでくれるかと思って」
「あなた、そんなことのために……」
「そんなこと、はなくないですか? ようやく誤解も解けて、お近づきになれたと思ったのに」
「……誤解? いったい何の話しかしら」
「あ、いえ、それは……こちらの一方的なカン違いだったというか……あはは」
さすがに、特殊な嗜好の持ち主かと思いました、とは言えない。
あの時の、とてもカン違いとは思えないハマリ具合は、ある意味奇跡の産物ともいえた。
一度しかない貴重な体験は、自らの胸の内に仕舞っておくべきだろう。
「ヘンな子ね……先にいくわよ」
セツは一瞥をくれると扉を押し開け、足早に中に入ってしまった。
「あーーっ、待ってください!」
みかげは慌てて、後を追った。
社殿に入ったセツは、最奥に設えられた祭壇の前に歩を進めた。そして、具えられている平らな黒曜石に手をかざす。と、スイッチを入れたように、床に置かれた竹灯篭に明かりが点っていった。
社殿内を照らし出す淡い光の中に、一面に文字が記された和紙が浮かび上がる。
天井から等間隔に垂らされた和紙は、そこに記された文字同様、歪に、不規則にゆらめいていた。
不安を煽る動きを気にしつつ、みかげは尋ねた。
「前に来たときから気になっていたんですけど、この、吊り下げられた紙は何の役目をしているんですか。それと、ここに描かれた見たこともない文字も」
「それは導紙と呼ばれるもの。銅刺山に張られた結界の状態を示す、いわばセンサーみたいなものよ。導紙に描かれた文字の形によって、結界に綻びがないか、脆弱な部分はどこか、つぶさに知ることができる」
みかげは、感心したように声を上げた。
「へええー、便利なものがあるんですね。それでいま、結界に問題はないんですね」
「そのようね。結界にダメージがあると、紙ははためくように揺れ、文字は溶けるように滲むから。それがないということは、正常に機能しているということ」
セツは持参したバッグから着衣を取り出しながら答える。
「さぁ、これを」
そう言って差し出したのは、自らが纏うものと同じ、巫女の装束だった。
真白なセーラー服の上下に、真紅のレガースとシューズ。異彩を放つこれらも、実戦に即した正装である。
「あなたはもう、この衣装を纏う資格があるわ。受け取りなさい」
しかし、みかげは首を縦に振らなかった。
「ありがとうございます、セツ先輩。でもわたしは巫女としての自分を、まだ知りません。なにが出来て、どこまでやれて、足りないものはなんなのか。その一部でもいい、見えるようになるまで、戴くわけにはいきません」
その眼は尊いものを見るように、衣装に注がれている。
「それに、わたしにはこれがありますから」
みかげはそう言って、自分のバッグからジャージ一式を取り出した。
それは学校指定の冴えない紺のジャージではなく、ピンクに金のラインを設えた派手なジャージだった。
「これ、わたしが中3の頃まで使っていたジャージ……みたいなんですね。これを着て勉強したり、友達と夜遅くまで喋ったり、お泊りしたり……そうした思い出は今も残ってるんです。たとえそれが与えられた記憶だったとしても、なぜだろう、すごく幸せだなって思えて。だからこれを着ることは、そんな気持ちにさせてくれたことへの、恩返しでもあるんです」
みかげは愛しそうに、ピンクのジャージを抱く。
思い出が現実でなくても、胸の奥には確かな温もりがある。
それこそが、自分にとっての『本物』なのだと、みかげには思えた。
「わかったわ。あなたの思うようになさい」
無理強いはしなかった。
セツは巫女の装束をバッグの中へと戻すと、自らは着替えのために和紙で仕切られた向こうへと姿を隠した。
みかげも仕切りの一角に入ると、着替えはじめた。
二人は森の中へと連なる鳥居の下を、竹灯篭の明かりに導かれて進んでいく。
前を行くセツの後姿。みかげが何度も見てきた背中。
あんなに遠かった背中が、すぐそばにある。手を伸ばせば触れられるところに、いる。
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ──
セツが唄っている。柔らかな調べで、しかし抑揚のない声音で。
それは唄うというより、唱えているといったほうがよかった。
唄い終わるのを待って、みかげは訊いた。
「そのわらべうた、前に来たときも唄ってましたね。お好きなんですか?」
セツは唄っているときと同じ抑揚のない声で答える。
「とくに思い入れは、ないわ。ただ必要だから。この参道を通るのに必要な……『鍵』といったところかしら」
「鍵、ですか?」
「そう。銅刺山には、赤い霧を外へ逃さないための結界が張られている、それはさっき話したわね。この参道は外と内とを結ぶ唯一の通り道。そこを通るためには、一時的に結界を緩める必要があるのよ」
「それが、わらべうた」
「私の場合は、ね。巫女はそれぞれに決まった『鍵』を持っている。みか……あなたもすぐに自分の『鍵』を持つようになるわ」
「そう言われれば、たしかに鍵ですね。セツ先輩みたいに上手くは唄えないけど、わたしも同じ鍵がほしいな……」
「…………」
気のせいだろうか? きっと気のせいだろう。
セツの肩が小刻みに震えているわけがない。
歩き方が、どことなくぎくしゃくしているはずがない。
「あっ、ごめんなさい、失礼なこと言って。じゃあ、こうして鳥居の下を歩けるのは、そばにセツ先輩が居てくれるお陰なんですね?」
「え、ええ、そうなるかしら。鍵の効果の範囲にいればだけど。でも普通の人間は、ここから先に進むことはできないわ。結界の力によって押し戻されてしまうから」
「それほど強い結界でも、赤い霧は防ぎ切れないんですか……」
「平時であれば結界の力だけで十分対応できるのだけど、年に数回、赤い霧がとても強くなる時期があるの。巫女の力がもっとも必要とされるのは、そのとき。私たちは普段から錆鬼を駆逐し、僅かでもその数を減らすと同時に、己の技に磨きをかけていくの」
まだ先だと思っていた巫女の務めは、すぐ目の前まで迫っていた。
責任の重さを噛み締めているうちに、最後の鳥居をくぐり終える。
再びたどり着いた終わりの地は、みかげにとって始まりの地でもあった。




