魔女の正体 3
杞紗峰が睨めつける森の中から、それは現れた。
薄い霧の膜を裂いて、人の形をした赤黒い塊が緩慢な動きで這い出てくる。
ぬめるような皮膜の内には、ひび割れた赤銅色の地肌が見て取れた。
二本の脚を地に付けたまま、泥の中を進むようにじわりじわりと近づいてくる。
「錆鬼。錆で象られた、人ならざるもの。そして──」
杞紗峰は淡々と言葉を継ぐ。
「私たち、巫女の力を継ぐものが、伏すべき相手」
錆の鬼に表情はなく、語る言葉も叫ぶ声もない。
しかし、笑っているように見える。吼えているように見える。
ここで二人とまみえたことに、歓喜しているように見える。
杞紗峰は一歩前へ、距離を詰める。
「今日は客人がいるの。お手柔らかに頼むわ」
そういうと片膝をついて、掌を地面に押し当てた。の白く細い指が、土を抉るようにめり込んでいく。手が、土中にある何かを掴む。
静かに腕を引くと、それは音もなく地上に姿を現した。
「え……え……!?」
みかげは思わず目を疑った。
杞紗峰の手に握られていたのは、彼女の身の丈ほどもある巨大な漆黒の刃だった。
だが、刀剣の類ではない。羅紗切鋏と呼ばれる裁ち鋏だ。
その片方、四本の指をかける握りを持つ側の刃が、彼女の手にはあった。
いったいどこから出したのか、予め埋めておいたものなのか。
疑問を挟む暇もなく、杞紗峰の声がとぶ。
「あなたはその場を動かないで。私の陰に入りなさい。いいわね」
みかげは、はい、と答えたが、それは声にならなかった。
杞紗峰は自分の顔よりも大きい『握り』の部分に両手を掛けると、正面に向けて構えた。
鋭利な切刃が光をはじき、錆鬼を睨みつける。
みかげは、声を絞り出した。
「杞紗峰先輩……まさかアレと……遣り合うんですか……」
応えるように、杞紗峰は視線をよこす。
「大丈夫、だって私は──」
そうだ。彼女は──
「飛べるから」
魔法が使えるのだ。
真白な制服が空に一筋の残像を描く。
杞紗峰はハサミを垂直に立て、肩口で刃を前に押し出すと、タックルを食らわすように身体ごと錆鬼にぶち当たった。
二メートル近い錆鬼の躰が、くの字に折れる。
懐に飛び込んだ杞紗峰は土を蹴りあげ、さらに強く踏み込む。
土埃を巻き上げながら、錆鬼が飛んだ。
吹き飛ばされて、背後に聳える巨木に叩きつけられた。
赤いサビが血飛沫となって辺りに降り注ぐ。
刃が深くめり込んだ錆鬼の躰は、どうにか繋がりだけは保っていた。
あと一振りもあれば、サビの塊をひとつ増やせる。しかし……。
「まだ……足りない」
悔しさの滲む口調で、杞紗峰は距離を取った。
錆鬼はざっくり開いた傷を露わに、幹の根元へ崩れ落ちる。
頭部が歪な角度でこちらを向き、顔のない顔には、変わらず不気味な笑みが貼りついていた。
ずるり。ずるりと。
裂けた躰が、互いを求めるようにゆっくりと接合していく。
飛び散ったサビの肉片が、主を求めて這い寄ってくる。
元の姿を取り戻すのに、そう時間はかからないだろう。
杞紗峰が次の一撃への構えを取ろうとした、その瞬間。
錆鬼の腕が、槍のごとく、鋭く長く伸びた。
空を裂く高い音が、耳元をかすめる。
槍となった錆鬼の腕が、杞紗峰の頭部を貫いた。
「…………!!!」
みかげは、声にならない声をあげて目を見開いた。
杞紗峰の頭が大きく後ろへ傾ぐ。
しかしまだ、その眼は光を失ってはいなかった。
貫いたのは、彼女が構えたハサミの握りの部分、リングの中心だった。
杞紗峰は錆鬼の腕をリングに通したまま、ハサミもろとも一気に距離を縮める。
ギリギリまで詰めると、レガースで固めた膝を、未接合な腹部に叩き込んだ。
背後に樹を背負い、力の逃げ場のない状態で喰らった錆鬼の腹は、今一度大穴をさらすことになった。衝撃で、頭部がだらりと前に垂れる。
その首へ、錆鬼の腕を通したハサミのリングを、たすき掛けの状態に引っ掛ける。
杞紗峰は両手でリングを握ると、ハサミの支点に腰を差し込み、踵で大きく刃先を蹴りあげた。
逆一本背負いの要領で、錆鬼の頭部を地面へと叩きつける。
その顔は、もはや笑みなど浮かべられないほど無残にひしゃげている。
杞紗峰は回転の力を利用し、颯爽と立ち上がると、ハサミを首から引き抜いた。
地に伏した錆の屑は、うらめしそうに彼女を見上げている。
「なにか言いたそうね? なら、そのカオらしきモノに、口を刻んであげましょうか」
ハサミの先端を、鼻先でチラつかせてみせる。
人語を解するのか、あるいは気配で察したか。錆鬼は伏したまま両腕を鎌のように変化させると、眼前にあった彼女の両脚を狩りにかかった。
しかし。その時すでに、杞紗峰の身体は中空にあった。
錆鬼の背にハサミを突き立て、その上に軽やかに倒立している。
三日月のように、しなやかな弧を描く彼女の肢体に、みかげは思わず見入った。
スカートの裾が重力に引かれて下がり始めるのと同時に、杞紗峰はハサミを掴んだまま真っ逆さまに滑り落ちる。
腕が伸びきったところで、刃先に衝撃が加わり、錆鬼の躰をより深く貫く。
その反動を利用して、ハサミを巻き込むように身をひねり横方向へ回転する。
突き刺さった刃先は、跳ね上げられたハサミの軌道に沿って、錆鬼の躰を縦に引き裂いた。
サビが飛び散り、彼女の白い制服を汚していく。
杞紗峰は表情を変えることなく立ち上がると、ハサミを一度おおきく振るった。
刃に塗られた血のりも、黒髪にこびりつく鉄粉も、制服を汚す血飛沫も、すべてが一瞬で霧散した。
「杞紗峰……先輩」
みかげは恐る恐る、彼女の名を呼ぶ。
その声に、杞紗峰はこちらへと向き直った。
「そう……まだ、名前で呼んでくれるのね」
一瞬、表情を緩めたが、すぐにその顔は曇った。
みかげは、あとに続ける言葉が見つからなかった。
杞紗峰は険しい表情のまま、語り始める。
「私の巫女名は『刻ミ巫女』。怨敵を斬って斬って切り刻む。錆の粉に還るまで、ただひたすらに切り刻む」
視線を向ける先には、今しがた斬り捨てた錆鬼の塊が残されている。
それは生への執着をみせるように、四方に散った自らの欠片を引き寄せ、再生を始めようとしていた。
だが、その速度は初撃を喰らった時に比べ明らかに落ちている。弱っている、のだ。
杞紗峰は頭上に掲げたハサミを軽く一回転させると、勢いをつけて振り下ろした。
パッと、地面から赤い煙が立ち上る。
立ち上った煙を、さらに薙ぐ。もう一度。さらにもう一度。
錆の欠片になるまで、錆の粉に還るまで、ひたすら切り続ける。
赤の世界でサビに汚れず、白のままでいることは容易ではない。
だが彼女はハサミを振るい、執拗にまとわりつく狂気を振り払うことで、白を……理性を保っているように見えた。
自分が自分で在るために、刃を立てる。相手を切り刻む。
終わりのない矛盾の中で、杞紗峰はまたハサミを振るう。
血溜まりの中心で、杞紗峰はそっと刃に指を這わせた。
元の形に戻ることのない赤い塵に一瞥をくれると、ゆっくりと振り返る。
どんな声をかければいいのか、みかげはまだその言葉を持たない。
「あなたの知りたかったこと、私は何者なのか。それは理解してもらえたかしら」
「…………」
みかげは無言のまま、小さく頷く。
しかしその頷きは、この状況を理解したからではなく、ましてや納得したからでもなく。
今ここで繰り広げられた現実を、たしかに『見た』ことに対する頷きだった。
杞紗峰も、それは分かっているようだった。
錆まみれのシューズの爪先をこちらへ向けると、ゆっくりと歩み寄った。
「もうひとつ、訊いたわね。自分は誰なのかと。その答えも、おおよその見当はついているのではなくて?」
みかげの脳裏に、あのとき目にした赤い世界と、目の前で繰り広げられた現実とが二重写しになる。
舞台も登場人物もリンクした二つの映像。
唯一、異なっているのは、おそらく──そこにいる、主人公。
なぜなら。目の前に立っている杞紗峰に、赤い世界で見せた優しい微笑みはない。
慈しむような、愛おしげな眼差しは、微塵もない。
あの表情を向けた相手は、みかげではない、別の誰かなのだろう。
だが、それらの仮説を全て当てはめても、自分は何者なのか?という解にはたどり着けずにいた。
「見当もなにも、分かりませんよそんなこと……ただでさワケわかんない状況に直面して混乱してるしているのに、輪をかけてわたしは何者かなんて……二つの事を同時に出来るほど、器用な人間じゃないです、わたし」
混乱に拍車がかかり、自分の言葉をちゃんと理解しているのかさえ怪しくなってきた。
赤い世界でみかげを襲った、あのノイズが、再び脳裏にチラつきはじめる。
「けれど、これでハッキリしたでしょう。あなたの周りで起きている異変も、あなた自身に降りかかっている怪異も、勘違いでも思い過ごしでもなく、事実だということが」
感情を排して、杞紗峰は続ける。
フラつく意識の尻尾をつかんで、みかげも会話についていく。
「じゃあ先輩は……知っていたんですね。わたしが何を見ていたのか」
「ええ」
「だから連れてきたんですね……あの赤い世界の、写し鏡みたいな、この場所へ」
「そうよ。でも、あなたが『何を見ていたか』を知っていたのではなく。あなたが『何かを見ている』ことを知っていた、と言った方が正確かしら」
「だったら……そこまで分かっているのなら、教えてください先輩。あのとき……先輩が笑いかけた人は、誰だったんですか」
「え……」
みかげの、思いもよらない問いかけに、杞紗峰は固まった。
その顔には、明らかな動揺の色がみてとれる。
「あの世界で、杞紗峰先輩は笑ってました。とても安らいだ表情をしていました。あの幸せそうな笑顔は、誰に向けたものなんですか……?」
問い詰めながら、みかげは一歩前へ出る。
逆に杞紗峰は、後退した。
「あなた、私の話しを聞いていて? 私は、あなたが『何かを見ている』ことは知っていても『何を見ている』かまでは、知らない。そう言っているの」
そう、語気を強めるのが精一杯だった。
しかしみかげは俯いたまま、前へ出る。
「だったら、どうして……逃げるんです」
ピタリと、杞紗峰の踵が止まった。
「逃げる? 私が? どういうことかしら。私は何処からも、誰からも、逃げてはいない」
「逃げてますよ、現にこうして、ワタシから」
かかる前髪から覗く仄暗い瞳に、思わず息を呑んだ。異様な有り様を、ただ見つめるしかなかった。
「でもね、もう逃げることは……ないの」
ふと上げてみせたその表情に、杞紗峰は硬直した。
「わたしはずっと、ここにいるから」
「あなた、まさか……鏡可……!?」
次の瞬間。
正面に立つみかげの、その胸を、一本のドス黒い槍が深々と貫いた。
みかげは天を仰いだまま、身動ぎ一つしない。
杞紗峰は立ち尽くすこと以外、何もできない。
近寄ることも、手を伸ばすことも、名を呼ぶことも、何一つできない。
真紅に塗られた視界に沈んでいく彼女を、ただ傍観するしかない。
みかげを貫いたそいつは、闇の中にひときわ黒い陰となって佇んでいた。
先ほど倒した赤銅色の奴とは違う、黒に黒を塗り重ねた、漆黒の錆鬼だった。
そいつには表情があった。杞紗峰を嘲笑うかのような顔があった。
「黒錆………貴様ぁぁぁぁーーーーっっ!!!!!」




