わたしの見ている世界 4
平穏無事……とはいかないが、なんとか今日も一日乗り切ったみかげは、心身ともに疲弊した体を引きずりながら帰宅の途についていた。
気を遣った結が「送ろうか?」と声をかけてくれたが、マラソンで心配をかけた上に、特濃プリンまでご馳走になり、さらに自宅まで付き添わせたのでは、さすがに心苦しいし格好もつかない。居候だって三杯目はそっと出すものだ。
それに先ほど深山からいわれた一言が、どうにも気になって仕方がなかった。考えを整理するためにも、一人になる時間は欲しかった。
みかげは茜色の空を見上げると、ふと足を止め、後ろを振り返った。
遠くの山の峰々が、赤く染まった夕景に映えている。それは、美しいと表現するに足りる『赤』で彩られていた。
しかし、みかげの口からは。
「違う」
無機質な音が漏れた。
「あの赤じゃない……」
みかげはマラソンの途中で見たあの光景を、強く脳裏に映していた。
(結局、結には話せずじまいだったな。やっぱり打ち明けた方が良かったかな……)
しかし仮に打ち明けたとして、結に解決できる問題でないことも明らかだった。
憐れみの眼差しを受けながら保健室に連行されるのが関の山、だろう。
気になることは、他にもあった。あのとき、結だと思っていた人影が突然、杞紗峰に姿を変えたこと……。
(どうして、杞紗峰先輩なんだろう。そりゃたしかに、強烈すぎる出会いだったけど)
少なくとも、救いの手を差し伸べてくれるような存在ではなかった。王子様役なら、まだ結の方が相応しい。
(そういえばあのとき、白い光の中に消える寸前、先輩、笑っていたっけ。これまでに見たこともない、安らいだ笑顔で……)
あんな優しい表情をつくれる人だとは、正直意外、もっといえば驚きだった。
あの慈しみに満ちた眼差しは、一体誰に向けたものなのだろう……なにげなく、そんなことを思った。
が。
(え、今わたし、なんて言った? あの微笑は、誰に向けた……?)
心の中で繰り返して。
全身、総毛立った。
(あそこに居たのは……わたし、じゃない!?)
そうだ。杞紗峰が微笑みかけたのが、自分ではない別の誰かだとしたら?
あの『赤い世界』を見ていたのが、自分ではない別の誰かだとしたら──。
「みかげちゃん」
自分を呼ぶ声に、みかげは我を取り戻す。
声のする方を向くと、白の農作業着を着込んだ初老の男性が立っていた。傍らには、刈り取ったであろう雑草が高く積み上げられている。
「いま帰りかい?」
「あ……こんにちは、野池のおじさん。もう、こんばんは、かな」
「ぼーっとしてたようだけど、大丈夫かい?」
「はい、平気です。少し考え事をしていたもので……」
「そうかい? ならいいんだけど」
「それよりも! 昨日は、新鮮なお野菜を戴いてありがとうございました。さっそくおばあちゃんが天ぷらにしてくれて、すごく美味しかったです!」
「そうか美味しかったかい、それはなによりだ。いちばん良いのを選ったつもりだったからね、そういってもらえると嬉しいよ」
男性は嬉しそうに目を細める。
「どうだい、学校のほうは。もう慣れたかな?」
「さすがにまだ三日目ですから。自宅のように、とはいきませんけど、それなりに」
「それは頼もしいな。みかげちゃんなら勉強は問題なさそうだし、あとはいい友達をみつけるだけかな」
「みんなとても親切にしてくれるし、きっといい友達に巡り合えると……思い……ます」
(巡り合うどころか、一周回って正面衝突した気分だけど)
素直すぎる本音は、自分の中に仕舞っておいた。
「よかったよ。ここの生活に馴染めなかったらどうしようて、ウチのと話していたとこだったんだ。上手くやっていけそうで、なによりだ」
「ご心配おかけしました。でもまったく大丈夫ですから」
みかげの闊達な口調に、男性は頬を緩ませた。
「それじゃ、わたしそろそろ行きますね。暗くなりますから、おじさんもお気をつけて」
「ああ、引き止めてわるかったね。一重さんにもよろしく」
「はい、さようなら」
みかげは手を振って、再び歩き出した。
気分は先ほどより、ずっと軽くなっている。
(わたし、ここへ来てから誰かに助けられてばかりだな……)
「いつか、返さなきゃ」
そんな言葉が、自然に漏れた。
「あ~さっぱりしたーー」
風呂から上がったみかげは、バスタオルでくしゃくしゃと髪を拭いた。
癖のない黒髪は、すぐにもとのフォルムを取り戻す。
そのまま台所へ行くと、冷蔵庫を開けてジュースの瓶を取り出した。
「お風呂お先にいただきましたー。おばあちゃんも冷めないうちに」
流しでは、祖母の一重が夕食の後片付けをしている。手伝いを申し出たが、あなたは疲れているだろうからと、先にお風呂を勧められてしまった。
「水のせいかな、肌触りが良くてスベスベになった気がする」
「それはみかげちゃんの肌が、生まれたてみたいだからでしょう」
一重はそう言って、上品に笑った。
「あ、そうそう。学校帰りに野池のおじさんに合ったよ。お野菜のお礼、いっておいた。おばあちゃんによろしく、だって」
「まぁ、そうかい。わざわざありがとうね。みかげちゃんから直接いってもらうのが一番だからね、喜んでいたんじゃないかい」
「うん、とても」
「じゃあ、あとで何かお返ししなくちゃね。たしか頂きものだけど、焼き菓子の詰め合わせがあったかねぇ……」
「ご近所同士でそういう物のやり取りって、よくするの?」
「わりと多いんじゃないかね。ここは村全体がひとつの家族みたいなものだから。昔は日用品が足りなくなったりすると、お互い都合し合ったものよ。みかげちゃんの年頃では、
珍しいのかもしれないわねぇ」
「ふーん。でも、なにか頂いたら必ず返さなきゃならないって、気疲れしないかな?」
「必ず、ではないのよ。それに必ずしも物にこだわる必要もないの。ようは『気持ち』。できるときに、できる範囲で、できることをしましょう、って思う気持ちがなにより大切なの」
「そっか……そうだよね」
みかげはジュースを口にすると、一重の横に立った。
「わたしも、できるときに、できる範囲で、できることをする! お皿はわたしが拭いて仕舞っておくから、おばあちゃんはお風呂に入ってきて」
「あらあら、うれしいこと。それじゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら」
「わたしがいるんだから、遠慮なく甘えて!」
みかげの言葉に、一重は嬉しそうに笑って見せた。
台所の片付けを一通り終えると、みかげは自室へ戻り、クッションの上に倒れ込んだ。
「昼間のマラソンの疲れが、今になってきたよー」
肉体的疲労より精神的ダメージのほうが深刻なのは昨日、一昨日と同じでも、今日のそれはいささか種類が異なった。解決方法が見えない分、むしろこちらのほうが深刻ともいえる。湯船に浸り、全身の筋肉を解きほぐしながらあれこれ考えを廻らせたが、湯気みたいに霞むばかりで手掛かりとなるものは一向に浮かんでこない。
実体の無いものを掴もうとしても、徒労に終わる。なら、その分の労力を疲労回復に向けるのが得策といえた。つまりは先延ばし。それも有効な手段のひとつだ。
みかげはひとつの結論を導き出すと、そのまま仰向けになり、そばにあったバッグから日記帳を取り出した。普段から日記をつけるようなマメな性格ではない。が、友人の連絡先などが記されているマストアイテムであることに変わりはない。
みかげは日記帳を開くと、確かめるように文字を目で追った。
「そういえばみんな、どうしているかな。こっちへ来てから慌ただしくて、ろくに連絡もとってないけど……」
ページを閉じ、しばらく天井を見上げていたが、思い立ったように体を起こした。
「久しぶりに連絡取ってみようか。声も聴きたいし、近況報告もしたいし」
そう言うと、電話のある居間へと向かった。
居間に置かれていたのは年代物の黒電話ではなく、一般的なプッシュ式だった。
みかげは日記帳に記された電話番号を見ながら、慎重にボタンを押していく。
(夜だし、掛け間違いには気をつけなきゃ……)
受話器を耳に当てると、呼び出し音が聞こえる。
「夏美、ちゃんと高校生活送れてるかな。人見知りする子だから、心配だよ」
記憶の中の友人を思い浮かべ、小さな声でつぶやく。
電話の呼び出し音は、鳴ったままだ。
もう……何コール目だろう。
みかげは一旦、受話器を置いた。
「話し中か。夜だし、ま、仕方ないか」
少し残念そうにすると、再び受話器を手にする。
そして別の友人へと掛けた。
5,6,7…………コールは続くが、一向に出る気配はない。
しかたなくこちらも諦め、次の番号をプッシュする。
すると──
「この電話番号は現在使われておりません。電話番号をもう一度お確かめの上おかけ直しください──」
無機質な音声が、聞こえてきた。
みかげは、またしても心がざわつくのを感じた。
すぐさま、別の番号をプッシュする。
慎重さの欠片もなく、急かされるように乱暴にボタンを押した。
「この電話番号は現在使用されておりません──」
先程と同じアナウンスが流れてくる。
電話をかけた先は、見ず知らずの相手ではなく、それなりの付き合いがある友人だ。
番号を変えたのなら、変更後の番号が流れてもおかしくはない。
だが、そのようなアナウンスはなかった。二度とも。
単なる偶然か。もしくは電話回線のトラブルか。
みかげは、思い当るところほぼ全てへ電話をかけてみる。
しかし、日記に記されている友人の連絡先だけは、同じアナウンスが繰り返された。
「どういうことよ……これ」
日記帳を持った手が、力なく垂れ下がる。
「いったいなにが……起きているの……」




