心葉帖【拍手SS】雨が呼ぶ想い人①
心葉堂の休業日。
いつもなら、日常品を買いだめしたり、異国の品を見に市場へ繰り出したりと、心弾む日だ。けれど、今日に限っては、心葉堂の誰も、外へ出てはいない。
蒼は廊下を歩く足を止め、おもむろに空を見上げた。
「今日は、もうずっと雨かな」
朝方から降り続いている大雨は、昼を過ぎても止む気配はない。むしろ、勢いを増している。
屋根だけで開放的な渡り廊下は、冷え込んでいる。朱色の手摺では、吹き込んできた雨雫が、絶え間なく滑っていた。水晶が張り巡らされている足元では、アゥマを含んだ水が、いつもと変わらない様子の涼しい顔で流れている。時折、淡く光りを灯した様子は、星の川を思わせる。
蒼は雨が好きだ。もちろん、太陽の光を受けて咲き乱れる花々に包まれるのも大好きだが、樹々や瓦と雨が作り出す音は不思議と安らぎを与えてくれる。それに、頬を冷やす空気も、気持ちが良い。
心が落ち着いていたからか。おかげで、予定していた数よりも多くの茶葉を浄練することが出来た。
「さすがに、これだけ雨足が強くちゃ、紺君は来ないかな」
それだけが、残念でならない。蒼は溜息をつく。白い息が、ふわりと浮かび上がり、消えていった。
廊下を歩き続けていると、思ったより、体が冷えてきた。午前中はムシムシとしていたのだが、気温自体下がってきたらしい。
蒼は、肩に掛けていた、厚めの布を掛けなおす。紺樹が来ないだろうと踏んで、軽装したのは間違いだったかもしれない。胸に沿っている丸い襟の裙子では、腰紐がないこともあり、風が舞い込んできて寒い。肩や胸元は、なんとか肩掛が守ってくれるが、やはり、普段着よりは風を感じる。存在を主張している胸も、肌寒さに白さを増している。
蒼は茶瓶を詰めた竹籠を抱え直すと、床を鳴らした。
「一人でお茶、飲もうかな」
紺樹は心葉堂の休業日には、必ずといって良いほどやって来る。街中で落ち合う時もあれば、夕食前に訪れる時もある。僅かな時間でもと、蒼がいれた茶を飲み、話をして帰っていく。
蒼がまだ修行に出る前は蒼の部屋や居間で、店を継いでからは店で茶を楽しむ。
紅は「休みたい時は、きちんと文句を言えよ」と言ってくれるが、蒼にとって、紺樹と過ごす時間は充分休養となっている。
(そんなこと、紅には言えないけど)
何かと口うるさく心配する紅の胃を痛めることは、控えたい。胃痛の原因になると知りながら、からかってしまうこともあるが、最近紺樹の話題は特に毒になるようだ。
過保護と言って間違いない兄。全くうっとおしくはないが、もう少し自分に気を回しても良いのにとは、つくづく思う。彼女でも出来れば、変わるのだろうか。それはそれで、寂しいかもしれないが。
蒼は、大きく頭を振った。いつもは耳上で束ねている髪は、両の首横で緩く結えられている。くすぐったさに、わずかに肩が震えた。
「こーいう考えに行き着くから、いつまで経っても、子ども扱いされるんだよね」
ぼやきながら、廊下から店へと続く扉の鍵を取り出す。鍵には、桃色の硝子玉をあしらえた可憐な花飾りがついている。紐の先にある金の鈴が、しゃらんと鳴った。雨音と交ざり合って、不思議と心が落ち着く音色だ。
扉を開け、店との住居の間にある倉庫に、幾つかの茶瓶を置いていく。一つの花茶けを残し、茶器を一式持って暖簾をくぐった。
店の脇には小さな憩い場があり、くつろげるようになっている。
「これじゃ、紺君が来てくれるの期待しているみたい」
蒼は、選んだ茶瓶を掲げた。思わず、苦笑が浮かぶ。花茶の言葉を思い浮かべ、肩を竦めた。
竹筒から煮水器へ水を注ぎ、沸き立てる。その間に菓子でも取ってこようと、一度小部屋を出る。
「あれ、誰かいるのかな」
ふと。店先の扉に人影が映っているのに気がついた。蒼は色硝子に目を凝らす。すると、相手もこちらの気配を感じたのは、控え目な調子で扉が叩かれた。
蒼の顔がぱぁっと輝いた。
あの影、叩き方。
蒼は、すぐに誰だか理解出来た。気が付けば、駆け足で扉へと急いでいた。
「今、開けるね!」
予想以上に弾んだ声が飛び出てきた。下手をしたら、住居の方にまで響いたかもしれない。蒼は慌てて口を覆った。扉の向こうの影が、肩を揺らして笑ったのが、わかった。
開けた先には、きっと雨風に当てられた彼がいるに違いない。まず拭くモノを用意して、温かい茶をいれて。あと、彼が好むお茶請けも出そう。水婆が持ってきてくれた、新作の練り菓子がある。
蒼は花茶に感謝をした。夢美連連。真っ白な茉莉の花と深紅の千日紅が交互に咲いている、可愛らしい花茶。意味は――。
(ありがと! 本当に願いが叶ったよ!)
扉を背にして、深呼吸をする。胸に手を当てると、ふくらみの上からでもわかるくらい、鼓動が跳ねている。髪や服をいじり、緩みきった頬を叩く。大丈夫、乱れてはいない。
蒼は勢いよく振り返った。扉の向こうでは、蒼の奇妙な仕草に彼――紺樹が首を捻っているだろう。
ぎゅっと、取っ手を握りしめる。内側に引くと、隙間から冷たい空気が一斉に流れてきた。それでも、今の蒼には丁度良い。むしろ、もっと体温を下げてくれても良いのにと思えた。
目の前には、予想通り、雨で髪や肩を濡らした紺樹が立っていた。
「いらっしゃい、紺君! いつからソコにいたの? 寒くなかった? 濡れて、大変だったでしょ? 早く入って」
自然と笑みが広がっていく。今、自分の顔を見ることが出来たら、蕩けていく頬をだらしないと思ったかもしれない。
現に、目があった紺樹は、柔らかく微笑んでくれた後、一瞬驚いたように目を見開いた。余程自分はにやけていたのだろうと、蒼は心の中で頬を打った。
やや下に向いていた紺樹の視線は、笑顔と共に、すぐさま蒼の目線に戻されたから。余計なことを考えるのはやめようと、蒼は紺樹の袖を握った。
じんわりと。濡れた袖が、蒼の体温を吸い取っていった。濡れてしまうからと重ねられた紺樹の手も、肌を震わせてくるほどだ。けれど、蒼の頬は染まっていく。
それを誤魔化すように、蒼は笑みを深めた。