引き篭り師弟【拍手SS】夜の月 ※師匠視点
ちょっとだけ本編のネタバレ要素があります。
「すごーい! お月様、ちかい!」
アニムが子どものように瞳を輝かせ、夜空に手を伸ばした。その腕を追い越した子猫たちは、浮遊魔法の膜に張り付く。表情こそ見えないものの、ぱたぱたと小刻みに動いている羽がすべてを伝えてくる。
「ふぃーねたち、とぶより、おしょらなの」
「やっぱ、ありゅじは、しゅごいのじょ!」
今日はいつもに増して見事な月だ。おかげで始祖が半分だけ夢から浮いてきている。オレの魔法生成も順調だった。
風呂に入り、さて徹夜明けに一日はたっぷり寝るかと自室に戻っていた。廊下の大窓の前で、はしゃいでいるアニムと子猫たちを発見したのは数分前のこと。
現時は、透明な膜に包まれる浮遊魔法で、空高く昇っている最中だ。
「ししょー、ありがと!」
「あんまりに暴れて、膜を破るなよ?」
「弟子、素直なのに。ひどーい!」
子どもより幼い調子で頬を膨らませたアニム。が、眼前に降りてきた子猫たちの頭が横に倒れると、ただちに機嫌をなおした。
上機嫌になったアニムは、中央で胡坐をかいていたオレの隣に腰を下ろし、再び頭上の月に笑みを向ける。
「そりゃ、失礼。楽しんでもらえているなら良かった」
「うん。ししょーとフィーニス、フィーネ、一緒だから特に」
不意打ちの言葉に、心臓が跳ねる。アニム本人にとったら大したことない一言だったに違いない。けれど、オレにとっては……。
悟られぬよう、アニムを盗み見る。ついさっきまでは、子猫たちと同レベルで興奮していたのに。今は、ただ唇に柔らかさを乗せている。流れる艶やかな髪よりも、幼さの残る色をうつした横顔に、見とれてしまった。
「この世界、月、大きいね。それに、色、ししょーの目と、一緒」
細められた瞳に、心がざわついた。
それは、『この世界』という声にだったのか。オレの瞳に宿る氷と、とれてしまったからなのか。焦れる。
つい、頬に伸びてしまいそうになった手。所在なさげに、後ろへつく。そのまま、無理矢理気味に状態を逸らして、顎をあげた。
手袋をしていない今、アニムに触れてしまうのはヤバイ。雰囲気もあいまって、理性のタガが外れてしまうのは必至だから。
「お前のとこも似たような話があるってのは、前に聞いたよな。この世界の月は、魔力の源でもある。あぁ、そういや。何十年かに一度、蒼い月の魔力が高まった時には、添い月と子月も姿を現すんだ」
「へぇ! 見てみたいなぁ! まるで、ししょーと私、フィーニスとフィーネ、みたい、だね」
「うな?」
名を呼ばれ反応した子猫たちが、ふらりとアニムの膝に降り立った。
じゃれあっている三人は気がついていないのだろう。オレたちを垣間見ている影に。
水晶と月の煌きで、今夜は割と明るいとはいえ、闇は闇。そこを漂った、花びらたち。ここで手を伸ばしてやるわけにもいかず、心の中で「泣くなって」としか呟いてやれない。
「あっ、花びら! どこから、舞ってきた、かな」
「アニム……視えたのか?」
思わぬ言葉に、呆気に取られてしまう。目を見開いて固まったオレより、驚いたようなアニムが濃い紫の満月を作りだした。子猫たちは「もう、にゃいにゃい?」と膜に張り付いている。
アニムの故郷は、夜でも月明かりのみが頼りということはなかったらしい。この世界でも、魔力が豊富な都や魔力が豊富な街は、夜でも魔法灯が煌々としている。
アニムがこちら側にきて一年ほどになる。が、いくら結界内とはいえ、アニムを夜に一人で出歩かせるなんてさせるはずがねぇし、夜目がそこまできくとも思えない。そもそも魔力もないアニムだ。あの欠片の気配を悟ったとは……。
「うん。色とか、形とか。はっきりは、わからなかった。花、違った? ふんわり、綿毛だった? 適当、ごめん、です」
「いや、お前もちったー夜目が利くようになったんだって、驚いただけだ。悪い」
好意には鈍いくせに。人の揺らぎには敏感なアニムは、納得出来ないようだ。冷静を取り繕って両の口端を落としたオレの顔を、不安げに覗きこんできた。
柔らかい香りに誘われ。頬を数回、軽く叩いてしまった。あまり他人に触れることのないオレは、未だに加減に悩む。痛くなければいいのだが。
また驚くのだろうという予想は、あっさり裏切られた。
「私、馴染んできた、ね」
呼吸が止まるかと思った。
遠慮がちに、オレの手に触れてきたアニムの柔らかな指の腹。掌にしみてくる頬の温度がぐんとあがった。
アニムには、蕩けるような微笑が浮かんでいる。綺麗な瞳がオレだけを見て、オレだけを映している。自分に寄り添ってくれる眼差しに、卑怯だと思いながらも、涙腺が緩んだ。
高位魔法を発動させているみたいに、鼓動が早まっていく。けれど、高揚感じゃなくて、たまらなく苦しい。お前の色が怖い。オレをオレじゃなくする。
「あにみゅ、おだんご、たべるのぞ!」
「あい! おだんごだんごー!」
くらりと。距離をつめそうになった瞬間。子猫たちが、前においてあったバスケットに降り立ち、大きな声をあげた。
助かった。
「よーし! アニム特性、お月見団子! 中身は、それぞれ、お楽しみだよー!」
オレの安堵など知る由もないアニムは、嬉々としてバスケットの中身を出している。
師匠として信頼されているのは、日ごろの態度からもわかる。アニムが他人行儀だったのはほんのわずかな期間だった。ある日、ふっと警戒心や遠慮がなくなった。アニム曰く、「理由は、内緒!」らしい。なんだその可愛い台詞と言い方はと、内心で悶えたのも懐かしい。
それはそれとして。異性として見られていないので、暴走せずにすんでいる。虚しさをごまかすように、胸を撫で下ろした。
自分だけが、目の前の女に振り回されているのを実感させられると、切なくなるが。
「あっ。フィーニス、おてて、拭いてからね」
「ふぃーねも! あにむちゃ、ふぃーねの、おてても、ふいちぇ!」
「はーい。ぴっか、ぴかの、桃色、肉球、だよー!」
折角だからと持ってきた団子に、手を伸ばしたフィーニス。それを制したアニムが、フィーニスとフィーネの手を順番に拭いてやる。フィーネはアニムに拭いてもらうのを楽しんでいたが、フィーニスは横目でずっと団子を見下ろしていた。恨めしそうに。よだれが垂れている姿に、思わずこぼれたのは笑い。
「いっただきみゃーす!」
「たべるのじゃー! いただくのぞー!」
ようやくありつけたと、自分の腹よりも随分と大きな団子にかぶりついた子猫たち。
あまりに幸せそうな笑みと膨れ上がった両頬に、自然と頬が緩んでいく。不思議な気持ちだ。
「月が、綺麗だな」
体中に広がっていくぬくもりがくすぐったくて、アニムたちから視線を外した。
事実を述べただけなのに、アニムは鈴を鳴らすように笑う。耳に届く声は愛らしいし、アニムが小さく肩を揺らす様子には、とても癒される。けれど、素直に可愛いなんてからかってやれる余裕はない。
おかしい。全く持って、おかしすぎる。余裕のない自分が。
「なに笑ってやがる」
「だってね」
誘うように、ちらちらと揺れているアニムの毛先を引っ張ってやった。
アニムが唇を尖らせると、子猫たちも真似る。団子をよそに顔ごと前に出している。
けれど、子猫たちはアニムに顎をくすぐられると、すぐに団子に興味を移した。
「んだよ」
「あのね、私の国、文豪、異国の言葉、訳した。月、綺麗ですねは、ね」
もったいぶった口調のアニム。言葉を切って、口を覆った。
わざとらしく瞼を落として、二の腕を掴んでやる。てっきり、いつもみたいに真っ赤になってもがくと思ったのに。
「あなたを、愛して、ます。いう意味に」
「――なっ!」
されるがまま、向きを変えただけで笑った。丸すぎない、形の良い瞳の下、ほんのりと目元を染めて。
アニムから出るとは思っていなかった言葉に、喉が詰まった。出たのは、悲鳴に近い声。きっとオレは、勘違いもはなはだしく、真っ赤に染まっているだろう。
アニムの思考回路は把握しているつもりだ。そもそも、こいつの言葉の裏に男女の色はない。前提として。
「まっまさか、赤ん坊から、んな言葉が出てくるとはな」
「もう! 赤ん坊、余計! 私、考えたないもの!」
喜ぶべきか、純白と嘆くべきかは別として。
だから、アニムは知識を述べただけなのだ。重々承知だ。別に、オレだけに向けて告げたのでもない。過去と現在の経験上、判断はつくのにも関わらず。
ただ、赤みを増していくアニムに、喉がつぶれて、声が出なかった。やっとの想いで絞り出した音は、随分と掠れていた。
「しっかし、どんな口説き文句だよ」
「こっちの世界、では、違う?」
「あたり前だろ。んな、そら寒い台詞言ったことなんざねぇし、知らねぇよ」
だから、今のも意識して口にしたんじゃねぇぞ。言外に照れ隠しを呟く。
アニムだって、先日センの奴に愛してるなんて言葉を吹き込まれて、使いたいだけなのも承知している。
子猫たちは、素知らぬ顔で二個目の団子を頬張っている。癒される。
「へぇ。違う、口説き文句は、ご存知、ですか。そーですか」
「なに拗ねてるんだよ」
「ししょー、自意識過剰!」
団子が何個も入ってるんじゃないかってくらい頬を膨らませたアニム。ぷっと息が漏れてしまい、さらに睨まれた。
アニムが妬いているのは明らかだ。師匠としてなのか、男としてなのか。子ども扱いされている日ごろに拗ねたのかまでは読めないが。
「悪かったな。自分から口説き文句なんて口にしたことねぇし、言うつもりもねぇぜ」
全部が嘘ではない。過去、一人だけいた。遠い過去、数日だけ過ごしただけの彼女に、自分なりに零した想い。
それに、お前をしらじらしく口説くつもりはないが、溢れる場合は勘弁なという言い訳だ。
決して彼女をアニムに重ねているわけじゃない。アニムはアニムだ。オレだけのアニムがいてくれれば、それ以上の喜びはない。
でも、お前には……どう思われてしまうんだろうな。
「そっか。……そっか」
「なに笑ってんだよ」
「笑ってる? うん、私、笑ってるの、かな」
アニムは自分の白い頬を押さえて、笑いを噛み殺した。
馬鹿にされているのでないのは充分わかるが。アニムの意図まではかれず、むすりと、彼女の頬にかかっている髪を払った。つられて、アニムは目を伏せた。
ただ静かな時間が流れる。頭上の蒼い月が、冷たい空気を助長している。オレの大事な存在を受け入れるのでもなく、拒否するのでもない、月。
オレにはわからない。惑星の遥か上空にいる月が、何を想い、何を欲しているのかは。
「すんげぇ、にやついてんぞ」
「どーしてかな。私、嬉しいの。なんかね、良かったって、心臓ばくばくが、どきどき、変わってね。ししょー的、いくないのかもだけど、今日、隣いたが、私で、幸せって」
なんでだろう、と囁いたアニム。
長い溜め息が落ちた。顔を覆って項垂れると、アニムが「意味不明は、自分も、知ってる」とぶっきらぼうにぼやいた。
違う、ちがうのに。お前はお前が紡ぐ言霊の縛りと深さを知らないのだ。熱い。体も心も、たまらなく熱い。
「アニムは、言霊をしれ」
「言霊は、大事な言葉、でしょ? だから、私、ししょーが、口していいよって、なんでも、形した方いいからって、嬉しくて、してるの!」
本当に、こいつ一体何歳でどんだけ純粋培養なんだと驚かざるを得ない。言葉の拙さも影響しているのはわかるが。
でも、呆れるのと同時。まるでオレだけを待っていてくれたような、都合の良い考えも浮かんできて。どうしようもなく、泣きたくなるのも事実だ。自分の経験はともかく、目の前のこいつに恋に落ちるために、オレとしてこの世界で生きてきた意義があったかのようで。
どうしようもなく。何気なく紡がれる一言に、泣きたくなる。
「アニム」
「でも、よく、わかんないけど! 月、綺麗で、ししょー、連れて来て、くれて! フィーニスとフィーネ、一緒で、空気、美味しい!」
オレが言い訳する隙も与えず、アニムは真っ赤になって叫んだ。人気のない水晶の森、上空に、愛らしい叫びが響き渡った。真名ではないのに、オレが呼ぶだけで不満げにぼやいたあと、それにまさる極上の甘さをくれるアニム。
翳りそうになった瞳を閉じ、深く息を吐いた。眩しさとおかしな後ろめたさを隠したかったのに、むにっと柔らかいモノが唇に触れて。突拍子もなさに、視界が広まった。
「ありゅじ、おにゃかすくは、しょんぼりぞ」
「じゃあ、ふぃーねは、あにむちゃに、あーん」
フィーニスの腹の丸さほどもある団子が、唇に押し付けられていた。小さな顔の大部分を占める団子。重量のせいか、掴んでいる黒い両手がぷるぷると震えている。小さな羽根が、ひっきりなしに動いているのも見えた。
横では、アニムとフィーネが幸せそうに団子を堪能している。
「ありがとな、フィーニス。けど、一番でっかいし、お前が食べたかったんじゃねぇのか?」
「ふぃーにすは、ありゅじが、うりぇしいが、いちばんなのじゃ。あにみゅの、だんご、うまいぞ。ありゅじ、げんきなるが、だいじ」
でっかい団子の奥からひょいと覗いた口の端には、明らかに涎が垂れている。ついでに加えると、尻尾は下を向いている。
まさか、式神に心配されるなんて。しかも、成長型の赤子に、心を。
いやなのではない。むしろ――あたたかすぎて、どう反応していいのか、戸惑ってしまう。純粋に、嬉しいのに。
そっと手を差し出すと、ぽすんと音を立ててフィーニスの尻が乗った。肌をくすぐる毛がくすぐったい。
「じゃあ、フィーニスと、ししょー、半分こ! ね、ししょー。かぷって、して」
「うなぁ! ありゅじと、はんぶんこー! にゃうぅー!」
固まっているオレのふとももにふれた温度に、反射的に口を開いた。我慢している様子とは打って変わって、フィーニスが飛びついてきた。柔らかくて、わずかに甘い団子が喉を滑った。
甘い。あまりに甘くて、喉が焼けそうだ。
どんどん落ちていく甘さは、味ではないのはわかっている。明かに、空気と言う付加価値。
「ん。うまい」
「やった! 今日は、寝る前、幸せ、いっぱい!」
「うみゃぁー!」
興奮して魔力を溢れさせる子猫たち。無意識なのだろう。相変わらず団子は抱えているものの、膜を抜けた。
驚いた。オレの魔法で囲んでいる膜を違和感なくすり抜けられたのも。溶かしたはずなのに、あっさりと再生した膜が子猫たちを受け止めたのにも。オレの魔力なのに、そうでない気がした。
「まったく」
この優しさを、どう表現すればいいのだろう。頭上の月を仰ぎ見ても、見えない大樹に問いかけても。答えてはくれない。
自分の心の形を目の当たりにした気がして、苦しくなった。
「ししょー、寝る前だったのに、綺麗で、あったかい月、見せてくれて、ありがと」
「あほ弟子が。綺麗はともかく、あたたかいは意味が違う。お前の故郷でも同意義の寒色だろうが。あれは、冷たい月ってんだよ。暖色なら、薄紫とか紅い月だろ」
よいしょと。人のことを馬鹿に出来ないかけごえで、オレの背後に回ったアニム。
オレが極力触れるのを避けているのを悟っているのか。アニムは、背中をあわせてきた。アニムの体温を恐れているのは、近くにいることを幻と思っているから。なのに、記憶から欲したアニムと、目の前のいるアニムが違うのを認識していると嘯く。いや、重ねているつもりはない。アニムはアニムだ。
記憶なんて関係ない。目の前のアニムに揺さぶられるからこそ、温度を感じたくないのだ。オレはお前をなくすことが、何より怖い。お前がもたらしてくれる温度が、瞬く暇もなく、消えてしまう可能性が恐ろしくてたまらないんだ。
一度、自分から欲してしまったら、とまらないとわかるから。アニムも子猫も、全ての生活を。
とはいっても、お互い薄い夜着のままなので、困るくらいには伝わってくるのだ。
下手に抱きすくめるより、心をざわめつかせる温度。
「違う、ないよ。ししょーと、お揃い、アイスブルーだもん。寒色だけど、だれも、冷たい、思うない」
オレとアニムの会話の内容を理解したとは思えないが。フィーネとフィーニスが、柔らかい腹を、頬にあててきた。アニムいわく、ふにふにという笑みを目元に擦り付けてきて甘えてくる。アニムに同意だと態度で示しているようにも思えるし。ただ純粋に甘えてきているようにも感じられる、えもいわれぬ香り。
ついでに涎もつけてきた子猫たちに、苦笑が浮かんだ。
なんて――愛しい存在なのだろうと。
「ししょの、アイスブルーは、ししょーの、心と、混ざって、煌いて、くるしくて、ふんわりなの」
「あほ弟子が。一貫性って言葉は学習済みか」
「一貫、してるです。センさんも、僕もって、言ってたです。センさんの奥さん、ディーバさん、からも、一票、貰ってる、です! ししょーの、アイスブルーは、きらって、ほくほく」
親友と妻の姿が容易に浮かび、舌打ちをかましてしまった。それでも、アニムが気に病んだ様子はなかった。
心持ち。後ろに体重をかける。触れ合った腕の肌が、わずかに強張ったが。あっという間に、馴染んできた。もたれ掛かった重さと、首筋を擦る髪に。相手に重い意図はないんだからと、傍らに置いていた酒瓶に手を伸ばす。
鼻を刺激してきたアルコール。潤った視界を閉じた。