陰口代
あるところに、友人と会話を楽しむ一人の女がいた。
たまの休日、しゃれたクラシックの流れるカフェ。こうして二人で会うのも久しぶりだ。
積もる話もあるだろう。二人は、やれ会社の上司が鬱陶しいだの、やれ同僚の女が気に食わないだの、やれ彼氏がだらしないだの、ここぞとばかりに不平不満をぶちまけ合った。
お互い溜まった鬱憤を晴らすように喋り倒し、会話は盛り上がりを見せる。気づけば窓の外はすっかり暗くなっていた。
楽しい時間は、あっという間に過ぎ去るものだ。
愚痴を吐き出した二人は、満足げな表情で別れを告げ、そのまま帰途についた。
自宅のマンションへと帰ってきた女。届いていた郵便物を確認すると、見慣れない一通の封書が来ている。
非常にシンプルな封書には、宛名に加え請求書と記されていた。
何か買い物でもしていたかと、女は首を捻る。ひとまず封書を破き、中に入っている用紙を取り出した。
それを見た女はさらに首を捻る。
〈陰口代〉。請求書にはそう書かれていた。
不審に思いながらも、内容に目を通していく。そこには誰の陰口を言ったかという記録、そしてそれに対する請求額が事細かに載っていた。合計すると、結構な額になる。
一体これは何なのか。宛名を確認してみるが、確かに自分に宛てたものだ。
「ふうん、最近の詐欺の手口はこういうのが流行りなのかしら」
女は馬鹿馬鹿しいと鼻で笑いながら、封書ごと請求書を放り投げる。
そして寝支度もそこそこにベッドへ入ると、すぐに眠ってしまった。翌日には、請求書のことなどきれいさっぱり忘れていた。
それからというもの、彼女はとんだ災難に見舞われるようになった。
つまらないミスを繰り返し上司にこってりしぼられ、些細ないざこざで彼氏と喧嘩し音信不通に。携帯電話は落として踏み砕くし、今朝は道すがらバイクを避けたと思えばドブに片足を突っ込んだ。
女は疲れ果てた様子で自宅に帰り、弱々しくため息をついた。
ふと、部屋の隅に放っておかれた用紙に目がいく。陰口代と書かれた、件の請求書だ。
何をこんなものと考えながらも、女は改めてそれに目を通してみた。よく確認すると、注意書きのようなものが載っている。
※この請求書を無視されますとあなたによくないことが起こりますので、あしからずご了承ください。
いくらなんでも安っぽすぎる脅し文句。いまどき不幸の手紙でも、もう少しましなことを書きそうなものだ。
だが、と女の脳裏によぎる。最近の自分を振り返ってみると、一笑に付すのも難しい。
金額を確かめる。注意書きの文面とは違って、こちらはそう安いものではない。
女は慌てて首を横に振った。こんな考え詐欺師の思うつぼだ。偶然だと自分に言い聞かせ、相手にしないことにした。
しかし、彼女の災難はやまなかった。大きなミスで会社をあわやクビになりそうな事態に陥るは、彼氏の浮気現場を目撃するはと、度重なる不幸に目も当てられない。
さすがの女も心が折れる。藁にもすがるような気持ちで、ついに彼女は陰口代とやらを指定の口座に振り込んでしまった。
するとどうだろう、不幸な出来事は面白いほどにぴたりとやんだ。
これに安堵した女は、再び元の生活を取り戻していった。
ところがこれで終わらない。再三に渡って陰口代の請求書は、彼女のもとへと送られてきた。
外で愚痴れば払えと言われ、払わないと不幸になる。
誰がこんなものを送りつけているのか薄気味悪くて仕方ないが、請求が来れば払わざるを得ない。
女は精神的にも、金銭的にも参ってしまった。
(こんなものでお金を払い続けるなんて馬鹿げている。ならばいっそ陰口など叩かなければいいのでは)
そう思い至った彼女は、このときから他人への陰口の一切をやめた。以来、陰口代の請求は何の音沙汰もなくなった。
だが、女の世界とは難儀なものだ。
陰口の一つも言えないとなると、付き合いが悪いと見なされる。それがまた噂となって反感を買い、次第に友人の輪から外れされていく。
女は悩んだ。素直に愚痴をこぼして支払うか、このまま彼女たちと関係を疎にするか。
陰口代のことを言ったところで、誰も相手にしないだろう。かえって馬鹿な詐欺に引っ掛かった女と嘲笑されるのが目に見えている。
結局陰口は言えず、かといって誰にも相談できず、ずるずると女は流されるまま孤独になっていった。
転機は突然に訪れる。
女は取引先で、一人の女性に出会った。品行方正、清廉潔白、その女性はそんな言葉を体現しているかのような人物だった。
初対面にもかかわらず意気投合した二人は、その日以降良き友人関係となった。
彼女の善性ときたら大したものだ。他人の悪口なんてもってのほか、どんな人間に対しても良い所を見つけ礼賛する。
それも下心のあるような下世話なものではない。心の底から湧きあがる善性がありありと見てとれるようで、こちらが恐縮してしまうほどだった。
すっかり彼女を信頼した女は、あるとき陰口代のことを相談することにした。
今まで誰にも明かせなかった出来事。突拍子もない話に疑うそぶり一つ見せなかった彼女は、それどころかこれまで辛かったろうと、女に代わって涙を流し始めた。
女はこの時救われた気持ちになった。そして彼女に出会うため今日までの事があったのだと、心から確信した。
それからというもの着実に信頼関係を築き、いつしか二人は真に腹を割って話せる、最高の親友となっていた。
ある日のこと、自宅に帰ると一通の封書が届いていた。
最近とんと見かけなかったあの封書だ。前と同じように、宛名と請求書の文字。
しかし彼女には、ここしばらく陰口を叩いた覚えなどない。不思議に思いながらも封を切る。
中から取り出した用紙には、こう書かれていた。
〈親友代〉。