お空のパン屋さん
夏の終わりのやさしい風が吹き抜けていく午後。大空を見上げると、まるで誰かが指でなぞったみたいな真っ白な飛行機雲が、パン屋さんを目指すようにどこまでも長く伸びていました。
お空のパン屋さん
街の人たちが、そのように噂をささやくようになって、もうずいぶんと月日が経ちます。そのパン屋のご主人さんは、古いお店のなかで、今日も不思議なオーブンを動かしています。そのオーブンは、燃料として「雲の切れ端」と「風の匂い」が必要なのです。
「今日は、少しだけ甘い風を練り込んでみるかなあ」
ご主人さんが木のヘラで空気をかきまぜ、オーブンに放り込むと、ふんわりと焼きたてのミルクパンのような香りが漂ってきました。それは街のどこかで誰かが深呼吸をするたびに鼻先をかすめる、なんともいえない香りです。
ご主人さんがその日つくったのは、雲の形をしたパンでした。こんがりと焼き色がつき、ふわふわと弾力があるそのパンは、大きく開けられたお店の窓から青い空へと放たれていきます。
「さあ、行ってらっしゃい」
日差しは強くなり、街の人たちは少しだけ疲れた顔をしています。そんな人たちの頭の上を、ご主人さんのつくったパンたちが静かに通り抜けていきます。
信号待ちをしている若い男性が、ふと空を見上げ、
「なんだか甘い匂いがするなあ」
と微笑みました。
公園のベンチでうたた寝をしていた老婦人は、夢のなかで、焼きたてのパンをほおばる感触に、目をつぶったまま笑みを見せています。
ご主人さんのパンは、空腹を満たすことはありません。けれど、すううと鼻と口からその香りを吸い込むと、不思議と心が軽くなるのです。
夕暮れが近づき、空がオレンジ色に染まるころ。最後のひとつ、ひときわ大きく焼けた「夕焼けパン」が、ゆっくりとにじむ空から姿をかくそうとしています。今日一日をがんばり抜いた誰かのために、一番やわらかく、そして、やさしく焼かれています。
ご主人さんは、店先のベンチに腰掛け、空に溶けていく自分がつくったパンを見送りました。
街に灯りがともりはじめます。
「明日もまた、いい風が吹くといいねえ」
八月の終わりのさわやかな夜風が、ご主人さんの髪をおだやかになでていきます。お空のパン屋さんは、明日もまた、たくさんの誰かの心をおなかいっぱいにさせるため、静かに準備をはじめるのです。




