3
「ただいまぁ」
部屋の電気をつけて上着をハンガーに掛けた後、アサはボールのネットをポールハンガーに掛けてみた。いくつかの帽子の中にピンクのボールが浮いているのがなんだかアンマッチで、それがすごく気に入った。
その時、インターホンが鳴った。
「アサちゃーん。帰ってる? 夕飯持ってきたよー」
扉の外からいつもの声がして、アサは心を踊らせながら鍵を開けると、外には可愛らしいモコモコの部屋着を着た菜摘がタッパーを持って立っていた。
菜摘は同じアパートの下の階の住人で、去年越してきた大学生だ。去年の春、彼女が余ったおかずを初めてお裾分けしてくれた日から、月曜の夜にはたまにこうしてアサの部屋で一緒にご飯を食べている。アサは火曜が休みで、ナツミは大学が全休であるためだ。
「いつもありがとう。今日は何かな」
「今日はね、豚バラとナスのポン酢炒めと、もやしナムルだよ」
「きゃあ楽しみ。座っててね」
アサはタッパーを受け取って台所に向かい、予約しておいた炊飯がされていることを確認する。炊飯器を開けて白い湯気を顔面に浴びる瞬間を今日も楽しみつつ、まだ温かいタッパーのおかずを皿に盛り付けていく。
「ねぇねぇアサちゃん」と呼びかける声が聞こえ、台所から顔を覗かせると、菜摘はボールを指さして不思議そうに聞いてきた。
「これなぁに?この前まで無かったよね」
「子供用のボール。さっき買ってきたの」
「へぇ、でもどうして?」
「うーん……欲しくなっちゃって」
「ふーん。そういう時あるよねぇ」
小さなテーブルに皿を並べ、アサもコタツの中に足を入れる。もう春だけど、コタツはアサも菜摘も気に入っていて、まだ布団を外せずにいる。菜摘の部屋には、コタツは無いらしい。
「いただきます」
甘酸っぱい味付けの豚肉とナスはさっぱりとしていて、熱々のご飯との相性がいい。もやしナムルも味が濃すぎず薄すぎず、ビリッとした辛味が、これまたご飯を運ぶ箸を止めさせない。
菜摘は、ご飯の上にナスを運びながら口を開いた。
「私ね、ナス苦手だったの」
「そうなんだ」
「うん。でもある時、料理上手な友達が麻婆茄子を作ってくれてね。それ食べて、美味しいって思ったの」
「そっか。克服したの?」
「うーん、まだ漬物とかは食べられないから、完全克服とは言えないけどね。でもナスを美味しいって思わせてくれたその子には、感謝してるんだ」
そう言ってまた一口、彼女はナスを食べた。
「たぶん、私一人じゃ無理だったと思うから」
「…苦手なものって、別に苦手なままでも生きていけるけど、好きなものが一つでも増えたら、その分人生は楽しくなるよね」
「そう。幸せだなーって、思うことが増えるから」
菜摘の料理は温かくて、お腹にも心にも染み渡る感じがする。「今日も幸せだなあ」とアサが呟けば、「私も幸せ」と返ってくる。誰かと食べるご飯は、それだけで温かい。
「アサちゃん、明日は何するの?」
「明日は、そうだなあ。天気が良ければ散歩でもしようかな。なっちゃんは?」
「私は友達と遊びに行くよ」
「いいね、楽しんできてね」
「アサちゃんもね」
その後、空になったお皿とタッパーを二人で洗って、菜摘は部屋へと帰っていった。
次の日、いつもより少しゆっくり起きたアサはカーテンを開け、差し込む太陽の眩しさに思わず目を瞑る。よし、今日は散歩日和だ。小さくガッツポーズをして、いつも通り朝の準備を済ませる。
出かける直前、どの帽子を被ろうかとポールハンガーに手を伸ばしかけ、浮いているピンクのボールが目に飛び込んできた。アサは茶色のキャップを被り、ボールのネットを指にかけた。
いつもの道を、ネットに包まれたボールをたまに蹴ったりしながらのんびりと歩く。すると香ばしく甘い香りが鼻を掠め、アサは思わず道沿いにあるパン屋に立ち寄った。
この辺に越してきてすぐに見つけたこの小さなパン屋は、メロンパンとクロワッサンが美味しい。アサは美味しいものを見つける時にはとても鼻が利く。トレーには、いつも通りメロンパンとクロワッサン、そして『焼きたて!』のポップが立っている塩パンを乗せた。
レジに向かうと、そこに立っている店主の奥さんが明るい笑顔で話しかけてくれる。
「あら、アサちゃんいらっしゃい。今日は塩パンも買うのね」
「焼きたてって言われたら、食べたくなっちゃいました」
「そうでしょう。やっぱり焼きたてはアピールしていくべきね」
奥さんとは、ここに通いつめているうちに話すようになった。彼女はアサの手にぶら下がるボールを一瞥し、でも何も言わずに笑顔で袋を手渡してくれた。その空気感が、心地よかった。




