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放課後、職員室までの足取りは重く、時間になっても扉を開けることができずに、私は廊下に立ちつくしていた。すると突然扉が開いて、中から出てきた立花先生が、私を見てふわっと微笑んだ。
「あ、須田さん。ちょうどよかった。ちょっとあっちの教室で話そうか」
先生は私を進路指導室まで連れて行き、参考書や赤本でいっぱいの狭い教室で、私たちは机を挟んで向かい合って座った。私は、先生の顔が見れなかった。
「この前のテスト、須田さん急に点数落としましたよね。今日もどこか調子悪そうだったし」
「あ……すいません、私」
「あぁいや、謝らないで。怒ってる訳じゃなくて。もしどこか躓いてたり、分からないところがあるなら、僕がいつでも力になるよって言いたかったんだけど……困ってます、なんて言いづらいか、担任でもない先生に」
困ったように笑いながら、先生は頬を搔いた。私は、恐る恐る口を開いた。
「……あの、私先週ずっと体調悪くて、それで満足に勉強できなくて……」
「あ、なんだそういうことだったの? それは大変でしたね、すみません決めつけるような言い方して。ちゃんと勉強できない理由があったのに」
正直、そんなことを言われると思っていなかったから、少し面食らった。
「いえ、私の方こそ、理由があったとはいえ赤点を取ってしまったのは事実なので……それから、なんだか数学がよく分からなくなって、分からないことも怖くて、それで…………」
話しているうちに、目の前の机がじんわりと涙で滲んできた。それが耐えきれず落ちたのを見て、立花先生はティッシュを差し出してきた。
「不安だったよね。気付いてあげられなくて、授業で当ててしまってごめん。ゆっくり、また一緒にやっていきましょう。確実に段階を踏めば、また分かるようになりますから」
ね、と笑う立花先生の眼鏡の奥の目が優しくて、私はまた泣いてしまった。
それから、放課後や昼休みに立花先生のもとを訪れると、先生は職員室や進路指導室で丁寧に数学を教えてくれた。あの時あんなに混乱していたのが嘘のように、一度理解してしまえば、また前のようにスラスラ解ける感覚が蘇ってきた。その度に、立花先生は嬉しそうに「そう!よく出来ました」と褒めてくれる。
先生といると安心した。ずっとこの時間が続けばいいと思った。心から、幸せだと感じた。
ある時、友達が立花先生の話で盛り上がっていた。
「立花先生って彼女いるのかな」
「え、いるって噂聞いた」
「えーまじか。結構タイプだったからショック」
「狙ってみればいいじゃん、ただの噂だし」
「いや彼女いた場合まずいっしょ。ていうか教師の時点でアウトだから」
そっか、この気持ちって、ダメなものなんだ。その会話を聞いて、私は知った。
味のしないコーヒーを飲みながら窓の外を眺める。もう二時間も経っている。ここに来るのは、今日で三度目。前に立花先生がこの喫茶店に入っていくのを見かけて、気づけば私も追いかけるように入っていた。でも向こうは私に気づくことなく、少ししたら店を出ていった。それから、ここに来たらまた先生に会えるかもなんて思って来てるけど、どれだけ待ってみても現れないまま、ただ外を眺めるだけの虚無の時間を過ごして私は帰る。
先生に会いたいが為にこうやって喫茶店に来てみたり、もう理解できる数学を分からないふりをして聞きに行ったりして、本当に馬鹿みたいだと自分でも思う。ダメだとわかっているのに、止められない自分が許せない。夏なのに外がもう暗いことが、時間の経過を表していた。
そろそろ帰らないと、親に心配される。小さく溜息をつき、残りのコーヒーを飲もうと手を動かしたら、グラスに当たり勢いよく倒してしまった。氷と一緒にコーヒーがこぼれ、テーブルをはみ出して床まで広がっていく。あぁ、最悪。
紙ナプキンでテーブルを拭いていると、会計を済ませた女性がポケットティッシュを取り出し、床を拭き始めた。
「あ、すいません大丈夫です」
「制服は汚れませんでしたか?」
「え?」
床を拭き終わって立ち上がった女性は、私の制服を見た。夏服の白いシャツにも赤いリボンにも、どこにも染みがないことを確認すると、彼女はニコッと笑った。
「大丈夫そうですね、よかった」
「……全然大丈夫なんかじゃないです」
「そうですか?」
「全然……汚れきってる」
口から言葉が勝手にポロポロとこぼれ落ちた。ダメだ、知らない人にこんなこと言ったって困らせるだけなのに。私どんどんおかしくなってる。普通に生きてたら、こんな変なこと言ったりしないで済んだのに。どこで間違えたの、どうして。
「お腹、空いてませんか」
「……え」
思わず顔を上げると、彼女はさっきと変わらぬ笑顔で、私に聞いてきた。
「コーヒー一杯じゃお腹空きません?この前もここ座ってましたよね、確か」
「……見てたんですか」
「すみません、見慣れない方がいるなと思って……あのよかったら、ナポリタン食べませんか?」
私はさっきおかしなことを言ったと後悔したけど、この人も大概おかしなことを言っている。そんな状況がまたおかしくて、私は笑ってしまった。親に『今日遅くなる』とだけ連絡して、スマホをしまった。




