清楚可憐な俺の彼女はイケない事を沢山仕込まれてます(仕込んだのは俺です)
★放課後、彼女は呼び出された★
昼休みの終わり。
廊下の奥から響いた一言が、教室の空気を変えた。
「――桐谷。放課後、例のやつ」
クラスの全員が、声の主を見た。
篠宮湊。
染めた髪、緩んだネクタイ、気だるげな笑み。
“学校一のチャラ男”と呼ばれる男。
その湊に呼び止められたのは、
学年一の優等生にして“天使”と称される少女――桐谷紗月。
彼女は一瞬だけ顔を上げて、
何も言わずに頷いた。
それだけで、教室の空気が凍りつく。
誰もが思った。
――あの桐谷が、チャラ男と?
放課後、二人の姿は消えていた。
目撃情報によると、
校門の外で一緒に歩く姿が見えたらしい。
並んで話していた、と。
けれど、何を話していたのかまではわからない。
ただ一つ確かなのは、
その日の夕方、
桐谷紗月の唇が、ほんの少しだけ甘い匂いを纏っていたこと。
――放課後。
陽が傾く校舎裏。
夕焼けがコンクリートの壁を金色に染めている。
「……昨日の続き、やるぞ」
低く笑う湊の声。
桐谷紗月は、制服の袖を握りしめて立っていた。
視線を落とし、ほんの少し頬を染めて。
「ここで……やるんですか?」
「他に誰もいねぇだろ」
「でも、誰かに見られたら……」
「見られたら、それは運命だな」
「……そういう言い方やめてください」
「なんだよ、可愛いじゃん」
彼女の息が止まる。
夕風が吹き抜け、髪が頬に触れた。
「……これ、本当に“練習”なんですか?」
「ああ。ちゃんと覚えとかないと、焦るからな」
「焦る……?」
「うん。初めての時に失敗したら困るだろ」
その会話だけを聞いたら、
誰もが誤解するに違いない。
紗月は少し黙って、
顔を上げる。
「……わかりました。やってみます」
「おう。ゆっくりでいい」
湊が頷く。
静かな沈黙。
そして――柔らかい音。
湊は無言で見つめていた。
夕陽に照らされた彼女の唇。
指先。
その動きがやけに丁寧で、
ひとつひとつ確かめるようにゆっくりだった。
「……どう?」
「すごく……あまい、です」
「だろ」
「なんか……背徳的ですね」
「だからいいんだよ」
声が重なり、
風が音をさらっていく。
しばらくして、
紗月がふっと笑った。
「……篠宮くん」
「ん?」
「これ、先生に見つかったら怒られますよね」
「見つかったらな。でもバレなきゃセーフだろ」
「またそういうこと言う……」
彼女が小さくため息をつき、
指先を拭った。
「……あ、少しつきました」
「どこ」
「ここ……」
指で頬を指す仕草。
湊は笑ってハンカチを取り出した。
校舎の影が伸びて、
二人の姿を飲み込んでいく。
沈黙の中、
風に乗って、ほんのり甘い匂いが流れた。
湊はハンカチを畳みながら、
ちらりと手元を見る。
そこには、潰れかけたパンの包み紙が残っていた。
◇◇◇
★夜中、清楚な彼女が電話してきた★
夜中の一時。
静まり返った部屋の空気を、スマホの震えが切り裂いた。
画面に浮かぶ名前を見て、湊は目を瞬く。
――桐谷紗月。
昼間、あれほど真面目だった彼女が、
この時間に電話してくるなんて。
寝ぼけた頭が一瞬で冷めた。
指先が、自然と通話ボタンを押していた。
「……もしもし」
『……起きてました?』
静かな声。
眠気の膜を透かして、柔らかく響く。
「まあ、一応な。どうした」
『……少しだけ、声が聞きたくなって』
その一言で、心臓の鼓動が変わった。
外では風が揺れ、どこか遠くで犬の鳴き声。
「……眠れないのか」
『はい。何かしてないと、落ち着かなくて』
「何かって……」
『変なことじゃ、ないです』
ほんの少し息が笑いに混ざった。
それが、やけに色っぽく聞こえた。
『今、音……聞こえますか?』
「音?」
『……ほら、これ』
耳を澄ます。
小さく“トン”と何かを置く音。
そして、そのあとに“湯気”のようなノイズ。
「おい……何してんだよ」
『内緒です』
「まさか、誰か来てるとかじゃねぇだろうな」
『違います。ひとりです。……ちゃんと鍵も閉めてます』
その“ちゃんと”という言い方が、
逆に想像をかき立てた。
「……声、少し近くないか?」
『マイクが近いだけです。ほら、こうすると温かくて』
「なにをしてんだ」
『だから、内緒ですってば』
言葉の合間に、
何かをすするような音が混ざった。
湊は喉が鳴るのを抑えきれなかった。
『ねぇ、篠宮くん』
「ん」
『これって、悪いことですよね』
「……まぁ、時間的にはな」
『ふふ……でも、少しだけ楽しいです』
「お前、真面目なクセに」
『練習中ですから』
電話越しの笑い声。
ほんの数秒の沈黙が、妙に長く感じた。
そのとき、
かすかな“カチリ”という音。
器のぶつかる音。
続いて、ひどく静かな“すすり音”。
『……あつっ……でも、おいしい……』
「お前……まさか」
『内緒』
声の向こうで笑いが弾けた。
その音が、夜の空気に染み込んでいく。
『……篠宮くん』
「なんだ」
『今夜のこと、誰にも言わないでくださいね』
「誰にも言わねぇよ」
『約束、ですよ?』
「ああ」
短い沈黙。
息が揺れて、
そのまま通話が途切れた。
湊はスマホを伏せて、
ふと空気の中に残る香りに気づいた。
――カップのふたが、机の上でゆっくりと冷えていた。
◇◇◇
★休日、清楚な彼女が街で見つかった★
休日の午後。
人混みのざわめきと、噴水の水音が重なっていた。
その中で、
黒髪の少女がまっすぐ立っていた。
桐谷紗月――
学校では清楚で、近寄りがたい存在として知られる彼女。
そんな彼女が、チャラい男と並んで歩いている。
それだけで、通り過ぎる誰もが二度見した。
「よく来たな」
「……来たな、じゃありません。人、多すぎます」
「だから練習になるんだよ」
「練習って……」
「ほら、昨日も言ったろ。度胸試しってやつ」
湊は笑いながら歩く。
彼の視線の先には、群衆と喧騒。
そして、その真ん中に――紗月の緊張した横顔。
「ほんとに、ここでやるんですか」
「ここが一番バレにくい」
「……それ、わざとですよね」
「さぁな」
からかう声に、紗月は眉をひそめた。
それでも、歩く速度を落とさない。
二人の距離は近い。
けれど、触れそうで触れない。
すれ違う人々の視線が、
まるで針のように彼女の背中を刺していく。
「……誰かに見られたらどうするんですか」
「見られたら……どうもしねぇよ」
「そういう問題じゃ――」
「お前、真面目すぎ」
湊が笑う。
その笑い声は、群衆の喧騒に紛れて溶けた。
やがて二人は足を止める。
噴水広場の中央、太陽の光が反射して眩しい。
人波の中に、小さな円が生まれた。
「……ここで?」
「うん。ここがいい」
「……やっぱり、恥ずかしいです」
「大丈夫。誰もお前らしいって思わねぇから」
「“らしい”って、どういう意味ですか」
「こういうとこに来るタイプじゃないってこと」
「……」
紗月は小さく口を閉じた。
視線が下を向く。
彼女の白い指先が、何かを握りしめている。
「……行くぞ」
「はい」
「練習だ。自信持て」
「……わかりました」
湊の声は真面目だった。
その瞬間だけ、軽口も冗談もなかった。
紗月は深呼吸して、
ゆっくりと一歩、前に出た。
彼の背後をすり抜け、
陽の光の中へ。
通りすがる人たちが、立ち止まる。
ざわめきがわずかに波打つ。
「……なに、あれ」「撮ってる人いる」
「ねぇ、あの子……桐谷さんじゃない?」
「マジ? チャラ男の彼氏と?」
そんな声を、湊は聞き流した。
その目には、別のものしか映っていなかった。
――立ち止まって、何かを差し出す彼女の姿。
その仕草が、あまりにも静かで、
あまりにも綺麗で、
彼は一瞬、呼吸を忘れた。
彼女が戻ってくる。
頬はほんのり赤く、
でもその表情は、どこか晴れやかだった。
「……どうでした?」
「完璧」
「ほんとですか?」
「ああ」
彼女はほっとしたように笑った。
「……ねえ、篠宮くん」
「ん」
「これ、秘密にしておいてくださいね」
「誰にも言わねぇよ」
その短い会話で、
また周囲の視線が集まる。
二人は何かを隠している――
誰の目にも、そう見えた。
やがて、紗月がバッグを開けて何かをしまう。
白い封筒。
そこに赤い印が、ひとつ押されていた。
湊はそれをちらりと見て、
何も言わずに歩き出した。
風が吹く。
封筒の端が、ほんの少しだけ覗く。
――「募金証明書」
その文字は、誰の目にも映らないまま、
午後の光に溶けていった。
◇◇◇
★清楚な彼女が初めて嘘をついた★
昼下がりの図書室。
窓際の席に、彼女の姿があった。
桐谷紗月。
整った姿勢と静かな横顔。
ページをめくる音が、風よりも静かに響く。
その向かいに、篠宮湊が腰を下ろす。
誰もいない席。
図書委員すら気づかないほどの、隅のテーブル。
「よく入れたな。カード持ってねぇのに」
「……生徒手帳、見せました」
「嘘ついた?」
「……ちょっとだけ」
声が小さい。
でも、その“ちょっとだけ”の響きが妙に甘かった。
「で、今日は何の練習だ」
「……言わせるんですか」
「一応、確認な」
「“静かにする練習”です」
「お前、真面目に言うなよ」
「篠宮くんが決めたんです」
紗月は小さく口を尖らせる。
頬のあたりが、少し赤い。
湊は椅子の背にもたれ、
机の上の本を一冊ずつ眺めた。
「しかしまあ……よくこんな場所にしたな」
「落ち着くじゃないですか」
「俺の隣で?」
「……慣れました」
その言葉に、湊の指が止まった。
「……あのさ」
「なんですか」
「お前、ちょっと変わったよな」
「どこがですか」
「嘘つけるようになった」
紗月はページをめくりながら、
ほんの一瞬、目を伏せた。
「……練習の成果です」
「まじで言ってんのか」
「ええ。嘘をつくのって、案外難しいですから」
「何の嘘だよ」
「……内緒です」
沈黙。
時計の針が、遠くで小さく鳴った。
彼女の指先が、紙の上を滑る。
視線は本に落としたまま、
ほんのり唇が動いている。
「……ねぇ、篠宮くん」
「ん」
「もし私が、悪いことしてたら……嫌いになりますか?」
「どうだろ。内容によるな」
「じゃあ……たぶん、大丈夫です」
笑いながら言う。
でもその笑みの奥に、少しだけ影が見えた。
湊は身を乗り出した。
「おい、何隠してんだよ」
「なにも。見ないでください」
「見られたら困ることしてんのか?」
「……そうかもしれません」
小さく、机の下で何かが擦れる音。
ふたりの膝が、かすかに触れた。
心臓が一瞬だけ跳ねた。
「……お前、それ……」
「内緒です」
彼女が笑った。
その笑みは、昼間の光よりも柔らかかった。
チャイムが鳴った。
紗月はゆっくりと立ち上がり、
手元のノートを閉じた。
「……これ、預かっててください」
「え?」
「バレたら面倒なので」
「なにそれ」
「見たらだめです。嘘の練習ですから」
そう言い残して、彼女は去っていった。
湊は机の上のノートを見つめた。
表紙には、整った文字。
“提出用レポート 篠宮湊・桐谷紗月”
角に小さく、鉛筆で書かれた走り書き。
“代筆済 ※提出は私がやっておきます”
湊は吹き出した。
「……おい、それはもう嘘じゃなくて、優しさだろ」
◇◇◇
★放課後、清楚な彼女が待っていた★
「ねぇ聞いた? 桐谷さん、またあの人と残ってるって」
「うそ、今日も?」
「うん。しかも、教室の鍵、閉めてるって」
放課後の廊下で、
噂だけが風より早く流れていた。
――清楚な彼女が、また“チャラ男と”二人きり。
誰も真実を知らない。
けれど、その噂が“いかにも”なほどに似合ってしまうから、
みんな信じていた。
教室の中では、
その噂の中心にいる二人が、
窓際に並んで座っていた。
「……お前、今日も残るとか、マジで真面目だな」
「だって、篠宮くんが“次も練習ある”って言ったから」
「そんな素直に来ると思わなかった」
「……嘘つかないって、決めたので」
夕陽が斜めに差し込み、
彼女の頬を薄く染めた。
「じゃあ、始めるか」
「はい。……でも、本当にここでやるんですか?」
「ここが一番スリルある」
「スリルって……言い方が悪いです」
「悪い方が、覚えやすい」
「……篠宮くん、ほんとに先生みたいですね」
「“イケないこと講師”だからな」
「自分で言わないでください」
そう言いながら、
彼女の表情はどこか楽しそうだった。
「……まずは、姿勢」
「姿勢……?」
「そう。見られてると思え」
「だ、誰にですか」
「外の奴らに。見られてるって意識すると、
余計に集中できる」
「……こんなの、誰かに見られたら誤解されます」
「誤解ってのは、だいたい当たってる」
「もうっ」
彼女の肩が小さく震える。
湊はその横顔を見て、
何かをこらえるように笑った。
教室の外、
廊下の陰から見ている二人の女子がいた。
「やっぱり……近くない?」
「うん……手、添えてる……?」
「ちょ、ちょっとやばくない?」
見えるのは、
夕陽に染まった教室で、
顔を寄せ合う二人の姿だけ。
その距離は、ほんの指一本分。
「……だめです、篠宮くん」
「何が」
「近いです」
「じゃあ、離れてみろ」
「……できません」
「ほらな」
彼女の頬が、ほんのり赤くなる。
湊は手を離し、笑う。
「……ほら、言っただろ。
“練習”ってのは、恥ずかしいくらいがちょうどいい」
「恥ずかしい……です」
「上出来」
しばらくして、
チャイムが鳴る。
「……今日の分、完璧だな」
「本当ですか」
「ああ。俺が保証する」
「なら、次もお願いします」
「いいけど……ちゃんと続けろよ?」
「もちろんです」
彼女の声が少しだけ弾んだ。
湊が教室を出るとき、
机の上に白い箱が置いてあるのに気づいた。
開けると、中には小さなスプーン。
持ち手の裏に、
手書きの文字が刻まれていた。
――「デザートの盛り付け、もう少し上手くなりたいです」
湊は思わず吹き出す。
「……料理部かよ、お前」
外の廊下では、
まだ数人の生徒が噂をしていた。
「ねぇ、やっぱり二人、怪しくない?」
「うん……完全に何かしてたよね」
その言葉を背に受けながら、
湊は笑って歩き去った。
◇◇◇
★清楚な彼女が傘を差した★
放課後。
校門前で、雨が降り出した。
夕暮れのグラウンドは灰色に濡れ、
部活帰りの生徒たちが次々と走っていく。
「――ねえ、見た?」
「またあの二人」
「ほんと、もう隠さなくなったね」
そう囁かれていたのは、
並んで傘を差す男女。
篠宮湊。
そして、桐谷紗月。
傘の下で顔を寄せ合うように見えるその姿は、
誰が見ても“恋人”にしか見えなかった。
「……見られてますよ」
「気のせいだ」
「絶対見られてます」
「放っとけ。どうせ誤解だ」
「その誤解を生んでるのは、あなたです」
湊は笑った。
紗月は頬をふくらませ、
でも傘の柄を離そうとはしなかった。
「なあ、桐谷」
「なんですか」
「お前、今日で最後だぞ」
「……ええ、知ってます」
短い沈黙。
雨の音が、二人の間を満たした。
「……覚えたか? “イケないこと”」
「たぶん」
「“たぶん”じゃ困るな」
「じゃあ、もう一度教えてください」
「教えるって……またここで?」
「ええ。ここがいいです」
彼女の言葉に、
湊は目を細めた。
「……お前、だいぶ悪くなったな」
「あなたのせいです」
そう言って笑う声が、
雨に溶けた。
傘の縁から落ちる雫が、
湊の肩を濡らす。
紗月はそれに気づいて、そっと身を寄せた。
「……これも、イケないことですか?」
「さあな」
「なら、覚えておきます」
その距離は、
すれ違う誰が見ても“そういう関係”にしか見えなかった。
「……じゃあ、次は?」
「え?」
「もう、“練習”は終わりでしょ」
「そうだな。今日で卒業だ」
「それは、少し寂しいです」
「……お前、本当に真面目だな」
紗月は傘を傾け、
湊の肩をすっぽり覆った。
そして、小さく呟く。
「……次は、私が教える番です」
湊が顔を上げると、
視界の端に色があった。
傘の内側――そこには、
ペンで書かれた小さな文字が滲んでいる。
“いつか、私もあなたにイケないことを教えられるように。”
湊は小さく笑って、
空を見上げた。
雨が止みかけていた。
〈END〉




