プロローグ 『裏切り者』
──いつからだろうか。母が自分を見てくれなくなったのは。
幼い頃の記憶を辿れば、そこにはいつだって柔らかな笑顔を向ける母の姿があった。
自分がいて、母がいて、父がいる。どこにでもある、ありふれた家族の光景。
一切の穢れを知らなかったあの頃は、何もかもがキラキラと輝いていた。
ゆっくりと流れる時間の中、家族三人で食卓を囲い、他愛のない会話をしながら笑い合って──そんな日常の尊さを、今になって強く実感してしまう。
どうして人は、いつも失ってから大切なものの価値に気付くのだろうか。
それを手放さない内に愛しく思えていれば、人は幸せを噛み締めたまま生きていけるのだろうか。
──ある日を境に、父が死んだ。
あまりにも突然のことだった。
元々病弱な体質ではあったが、薬を飲みながら上手い具合いに仕事を続けられていた。
そんな父が唐突に職場で倒れ、そのまま帰らぬ人になったのだ。その訃報を耳にした母は青ざめ、酷く取り乱していたことはよく覚えている。
多分、それからだった。
抜け殻のように空っぽになってしまった母は、その日から笑うことがなくなったのだ。
そればかりか喜怒哀楽のすべてが欠落してしまい、かつての面影は失われていた。
そんな母の目には、もう自分は映らない。
いつからか母とは会話が減り、距離も置くようになっていた。そうしている内に、気付いてしまったのだ。
──母が愛していたのは自分ではなく、父だけだったのだと。
かつての幸せな時間は父がいたから成り立っていただけで、そこに父の存在が欠けたのなら、母が愛するものはもうどこにもない。
父がいなくなったあの日から、否、自分は最初から──母に愛されてなんて、いなかったのだ。
◇
「ん……ぅ」
──不鮮明な視界が捉えたのは、見慣れない天井だった。
やがてそれは、薄闇の中にはっきりとした輪郭を描いていく。次第にルカは意識を取り戻し、それと同時に全身の激痛を感じ取るのだった。
気付けば自分の体は硬く冷たい床の上に仰向けになっており、そのひんやりとした触感を全身で味わっている。
「……っ」
痛苦に顔を歪めながら、ルカはどうにかその場に起き上がる。
──そしてその瞬間、何もかもを思い出していた。断片的な記憶の数々が、一本の糸ですべて繋がっていくかのような、そんな感覚で頭の中が埋め尽くされる。
「ぅ……ぅうッ」
両手で口元を抑え、込み上げる吐き気をどうにか堪える。
ルカの脳裏を過ぎるのは、為す術なく霊獣に喰われたメイナの最期。肉も骨も髪も衣服も、何もかもが無慈悲に噛み千切られて、命を奪われた彼女の最期を──ルカは生涯、忘れることはないだろう。
「メイ、ナ……メイナ……ぁ」
気付けば自分の頬を、熱い涙が伝っていた。
優しくて、笑顔が眩しくて、そして何より、勇気のある子だった。自分よりも歳下なのに、丁寧に使用人の仕事のことを教えてくれて──そんな彼女のことが、好きだった。
だが、もう彼女はどこにも存在しない。この世界の、どこにも。
その残酷すぎる事実が両肩に重く伸し掛る。
それをどうにか否定したいのに、否定しようとすればするほど、彼女の最期がフラッシュバックするのだ。
「──。ここは、どこなんだろう……」
溢れる涙を手の甲で拭い、ルカは自分の置かれている状況を確認する。
薄暗く隙間風が吹くそこは、まともな手入れの行き届いていない不衛生な場所だった。
天井付近には蜘蛛の巣が張られており、全体的に埃っぽい。個室のようだが、何よりも目を引いたのは──
「……鉄格子があるってことは、牢屋?」
部屋の唯一の出入口にある鉄格子。
そこから見えるのは、橙色の灯りが弱々しく照らす通路で、人の気配はない。
察するに、誰かが意識を失った自分をここまで連れてきて、監禁したということだろうか。
「──」
ルカの記憶の最終地点は、突如として目の前に現れたグリードだ。
彼は市街地の惨状など目に入っていないような態度で、いつものように淡々としていたのはよく覚えている。
そして彼の合図で霊獣が現れ、ルカは為す術なくその口の中に──。
「……私をここに閉じ込めたのは、グリードさん……なの?」
順序立てて推測すれば、それが自然な解となる。
だが、それでもわからないことだらけだ。一体何故、あのグリードが自分を誘拐し、こんな牢屋に閉じ込めたのか──。
「なんで……意味がわからないよ……」
自分の声が震えているのがわかる。
グリードは、この世界に落とされてから初めて出逢った青年だ。これまで接してきた彼の印象を言うなら、冷静沈着で感情表現の薄い、常日頃から淡々としているロディアの従者といったところか。
だが、彼は決して悪い人間ではなかった。
言葉足らずではあったが、いつもロディアの役に立てるように振る舞い、従者の見本として、彼の右腕で在り続けた。
下の者への面倒見も良く、常に真面目で、真っ直ぐで──そんな彼のことを、心のどこかで尊敬していた。
そのはず、だったのに──。
「──」
ここで考えていても仕方ない。
とにかく今は、ここから抜け出すことを考えなければ。話はそれからだ。
なにか、脱出に使えそうな道具はないだろうか。そこまでを思考した、その矢先であった。
「──ルカさん、お目覚めですか?」
「……!」
聞き馴染みのある青年の声が耳朶を打ち、ルカはその場に硬直する。
そうして声のした鉄格子の向こうを見れば、やがてそこにグリードが姿を見せるのだった。
彼はやはり、いつもと同じような淡々とした無表情と声色をしている。この異質な状況下においても変わらない彼の在り方は、どこか不気味と言っても過言ではない。
「グリード、さん……」
「ああ、よかった。意識ははっきりしているようですね。そうでなければ困ります。あなたには、五体満足でいてもらう必要があるんですから」
「ここに私を連れてきたのは、やっぱりグリードさんなの……?」
「ええ、その通りです。霊獣を操るなんて初めての試みでしたが、どうにか上手くいってよかった。霊獣があなたを食い殺してしまっては、意味がありませんでしたからね」
「──」
その彼の発言で、ルカは確信する。
やはり間違いない。手段は知る由もないが、霊獣の群れを動かし、市街地を攻撃したのは──その張本人は、目の前のグリードだ。
そして霊獣を介して孤立したルカを誘拐し、市街地からここまで移動してきたのだとわかる。
「一体何が起きているのか……わけがわからないといった顔ですね」
「……当たり前でしょ。聞きたいことが多すぎて、どれから質問すればいいかわからないよ……」
「あなたはいつもそうでしたね。そしてその度に、私が説明する羽目になる……もはやお決まりの流れです」
「──。なんで、そんな風に平然と話していられるの? わかってるの……? メイナが、死んだんだよ!? グリードさんが、市街地で霊獣の群れを操ったせいで! それだけじゃない! 市街地の大勢の人達だって、なんの罪もなかったのに……霊獣達に襲われて、ただ無慈悲に殺されたッ!」
依然として変わらないグリードの淡々とした在り方に、とうとうルカの堪忍袋の緒が切れる。
導火線に火が点いて、一気に爆発を引き起こすように──もう止められない。
そうだ。たとえ状況が見えなくても、明確に理解できることが一つだけある。
メイナが死んだのも、市街地の大勢の人々が殺されたのも──そのすべての元凶は、目の前のグリードに他ならない。
それを改めて実感したとき、ルカの中の憎悪が一気に膨れ上がる。これまでに感じたことのない、形容し難い怒りはルカの声を震わせ、顔を熱くした。
「──なんの罪もない?」
その矢先だった。
ルカの零した発言に引っ掛かったグリードは声色を低くし、眉を顰める。
一体何が彼を反応させたのか理解できず、ルカは思わず沈黙してしまう。
そんな彼女を前に、グリードは続けるのだった。
「やはり、あなたはなにもわかっていない……。そんなあなたに力が継承されたことが……今は心の底から悔やまれますね」
「は……?」
力が継承された──それは、聞き捨てならない発言だった。
しかしそれが一体何を意味するのか、ルカは理解できない。当然だ。それを理解するには、情報があまりにも少なすぎる。
「言ってる意味がわからないんだけど……市街地をあんな風にしたのは、グリードさんの仕業なんでしょ……?」
「──。言ったでしょう。あれは、あなたのせいだと。あなたの中の力が、あの結果を招いたのです」
淡々とそう語るグリード。
確かに、彼はあのときも同じことを口にしていた。しかしルカには、当然その心当たりがない。
だからルカからすればグリードのそれは、単なる自分勝手な、責任転嫁の言葉にしか聞こえなかった。
そんな彼の変わらない在り方に辟易し、ルカはうんざりとした溜め息を漏らす。
「……もういい。これ以上は平行線になりそうだから。だから別のことを聞くことにする」
「別のこととは?」
「ここはどこなの? リビアスのどの辺りなのか、それくらいは教えてもらってもいいでしょ?」
ルカがそう尋ねると、グリードは「リビアス?」と首を傾げる。
「ここはリビアスではありませんよ。シルフィアの南に位置する南部国家、レベシア──その王宮の地下牢です」
「え……!?」
その彼の言葉に、ルカは驚愕し目を見開く。
この世界に落とされたあの日、グリードから聞いた。自分達がいるシルフィア共和国は、東西南北に位置する四つの公国から構成される国なのだと。
その東に位置するのがロディアの統治するリビアスで、自分が使用人として生活していた場所であった。
そこからどの程度距離があるのかはわからないが、自分がすでにリビアスではなく、別の公国に移動していたとは──。
「レベシアって……一体なんで……それに、王宮……? 全然話についていけないんだけど……」
「まあ、それに関しては無理がありませんね。仕方ありません。一から説明することにしましょう。──リビアス王家の専属秘書。私があなたに名乗ったその肩書きは、実はまったくの嘘偽りだったのですよ。本当の私は、このレベシア王家の従者の一人。あのリビアス王家には、六年前から素性を隠して潜伏していたに過ぎなかったのです」
「……は、ぁ?」
グリードの語るその種明かしは、あまりにもルカには唐突すぎるものだった。
だからその理解に脳の処理が追いつかず、愕然とした声が零れてしまう。
「リビアス王家に潜伏していた理由はただ一つ。私の唯一の主であるレベシア王家大公、グレス・レベシアからの命令を承ったためです。グレス様の目的は、『再生の巫女』の奪取。世界でただ一人だけが持つことを許された、禁忌の回復術の使い手を、自身の支配下に置くことなのです」
「……禁忌の、回復術?」
その単語に引っ掛かり、ルカは首を傾げていた。
『再生の巫女』に関しては、一度だけ耳にしたことがある。暗がり魔との死闘の中、突如としてルカの目の前に現れた、あの花畑の少女──。
彼女もまた、そのようなことを口にしていた。ルカに対して、『再生の巫女』を継承すると。
結局──あの少女が何者だったのか、『再生の巫女』とは何なのか、何故それをルカに継承したのか、何もかもがわからないままだったが。
しかしグリードが同じ単語を口にしたということは、彼はその辺りの事情について何かを知っている。それだけは間違いなさそうだ。
「ええ。あなたの持つそれは精霊術でも式術でもなく……回復術という第三の力なのですよ。そしてその力を持つことができるのは、この世界においてただ一人のみ。我々はその使い手を、『再生の巫女』、あるいは、禁忌の回復術師と呼んでいます」
「──。そんなこと、ヤクモは教えてくれなかったけど……」
グリードの語るその重要な情報は、確かに聞き捨てならない価値のあるものだった。
しかし、だとしても違和感は残る。精霊術に精通し、四大霊座の肩書きを誇るヤクモは、ルカの持つ力についてそのようなことは言っていなかった。
彼はあくまでも、ルカの持つ力を式術の類だと結論付け、『治癒の式術』と命名した。
仮にグリードの言葉が真実だとして、この世界の理に明るいヤクモが、そのような間違いをするだろうか。
「それはそうでしょう。この事実を知るのは、シルフィア内部の一部の人間のみ……四大国家の中では、我々レベシア王家しか把握していない情報なのですから。ヤクモさんが間違いを口にするのも、無理のないことです」
「──」
「ここまで、本当に長かったですよ。『再生の巫女』がリビアスに出現すると事前に知らされた頃から、あのリビアス王家に従者として潜伏し、六年もの年月を過ごしてきた……主の命令とはいえ、数年間も敵国に潜伏する羽目になってしまった。──私にとってはあの年月は、終わらない地獄の日々でした」
そう語るグリードの声色には、確かな絶望と嫌悪が含まれていた。
それは到底、ルカのよく知る彼とは程遠い。まるで別人の言葉であった。
「……グリードさんは、ロディアに忠誠を誓ってたんじゃないの? あの言葉も、振る舞いも──何もかもが嘘だったの?」
だからルカは、思わずそんなことを聞いてしまう。
グリードはリビアス王家の中で、誰よりも一番にロディアの右腕として動いていた。
その忠誠心は気高く、揺るぎないもので──そんなグリードの側面を、ルカはいつだってその目で見てきたというのに。
「……言ったでしょう。私の唯一の主は、この王宮の大公であるグレス・レベシアだと。私にとってロディア・リビアスなど、憎き敵国の人間でしかありません。あれの側近として日々を送るのは、到底耐え難い悪夢に過ぎませんでした」
「──。嘘……だよ。そんなの、私の知っているグリードさんじゃ、ない……」
自分の声が震えているのがわかる。
ルカの中のグリード・レイゼルが、音を立てて崩れ落ちて──もはやその原型さえ留めていなかった。
「一体、あなたが私の何を知っているというのですか。勝手に理解した気になって、勝手に失望されるのはやめて頂きたいですね」
「──」
「さて。とりあえずあなたへの説明は、こんなところですか。私の任務は、これですべて達成です。リビアス王家での下らない使用人ごっこはもう終わりだ。──失礼します」
最後にそう言い捨てて、グリードは牢屋のルカに背を向ける。
たった数本の鉄格子で阻まれているだけなのに、何故だか彼との距離がとてつもなく遠いような気がして──その事実があまりにも辛く、ルカは今にも泣いてしまいそうになった。
やがて彼の姿が通路の奥に消え、再度の静寂がルカを襲う。
「……私の敵は、グリードさん……あなただったの?」
ぽつりと零したその呟きは、誰の耳にも届かずにただ、消えた。




