第一章1 『シルフィア共和国』
──グリード・レイゼル。
その名はどう考えても日本人のそれではなく、異国の人名に他ならなかった。
否、異国というよりは、異世界というべきか。ここが日本の外の国ならば、目を覚ましていきなりそんな場所に飛ばされたことへの説明がつかない。
そして次に気になったのは、彼の語った肩書き。
リビアス王家専属秘書ということらしいが、当然ルカにはなんのことだかわからない。
だから首を傾げることしかできず、まともな相槌を打つことすらできなかった。
そんなルカの反応を受け、グリードは肩を竦めて小さく鼻で笑ってみせる。
「無知、無教養の貧民街の捨て子でも、さすがに耳にしたことはあるでしょう? シルフィア共和国東部国家、リビアス王家──いずれはこのシルフィアを統べることになる、名誉と栄光を授かりし家柄ですよ」
「えっと……ごめんなさい、耳にしたことがないんだけど……」
歴史は得意科目ではないが、それでもそんな国名など聞いたことがない。
そんなルカの返答に、グリードは微かに目を丸くしながら驚愕の感情を露わにする。
「……冗談でしょう? この国に生きておきながら、リビアス王家の名を知らないだなんて。呆れを通り越して、心配にすらなってきますが。あなた、オグルドでは一体どんな生活を送ってきたんです?」
「……オグルド? って、何?」
「あなたの眠りこけていた貧民街の名前に決まっているでしょう。これは驚きだ。まさか自分の居場所の名称すら知らなかったとは」
「……ていうか私、そもそも貧民街の捨て子じゃないし」
「……は?」
畳み掛けるかのようなルカの発言に、グリードはいよいよ怪訝な表情を極める。
眉間に皺を寄せながら、まじまじとルカを見据える彼は、やがて頭痛でも覚えたかのように自身の頭に手を置き、それから「ふぅ……」と小さく息を吐くのだった。
「眩暈がしてきました。これではお話にすらならない。一体、どこから話を進めればいいのやら……」
「じゃあ、こっちから質問してもいい……? たしか、シルフィア共和国って言ったよね? それがこの国の名前なの? それなら、そのリビアス王家っていうのがこの国の王様の家柄ってこと?」
一つずつ、確実に疑問を解消していきたい。
ルカ自身も未だに異世界召喚された事実に頭がまるで追いついていないのだ。
だからこそ、今はなんでもいいから情報が欲しい。そのルカの要求に、グリードはやむを得ないとでも言いたげな顔をしながら、再び口を開くのだった。
「どうやら、本当に何も知らないようですね。……些か不本意ではありますが、いいでしょう。──リビアスというのは、シルフィアの東部に位置する一部国家のことを指します。このシルフィア共和国というのは、それぞれ四つの分散した国家が集うことで成り立つ国、というわけです」
「四つの……分散した国家?」
「ええ。東部国家リビアス、西部国家イレニカ、南部国家レベシア、北部国家フレデス──この四大国家それぞれに平等の政権が与えられており、それによって権力の分散を叶えているのが、この国の現状です。分散国家制、と銘打たれた現体制こそが、このシルフィアの在り方なのですよ」
権力の分散。
つまりこのシルフィア共和国は、一つの王家が頂点に立ち支配している国ではなく、その内部に存在する四つの国それぞれに政権を与えた国というわけだ。
それはルカの世界で言うところの、三権分立に近いものなのかもしれない。
立法、行政、司法に権力を分散させ、権力の集中を防ぐというもの。唐突に多くの国名が次々に出てきて混乱しかけているが、そう考えれば少しは理解できる。
「じゃあ、いずれはこのシルフィアを統べることになる……っていうのは?」
「──。言葉の通りです。リビアスはやがて、この国の頂点に立つ。勝利を約束されし血族なのですよ」
指先で眼鏡を抑えながら、グリードは語る。しかしルカの表情は難しいままだ。
「……あの、言葉の通りがわからないから聞いてるんだけど……このシルフィア共和国っていうのは、国家を四つに分けて、権力を分散させてるんじゃないの?」
そう説明したのはグリードだ。
にも関わらず、彼の言うようにリビアスがその頂点に立ってしまえば、分散国家制とやらにはなんの意味もなくなってしまう。
権力の分散を防ぐための体制が支配するこの国の中で、その内の一つの国家が支配者の座に君臨すれば、国内全体が混乱の渦の中に飲み込まれるのではないか。
そんなルカの考えを見透かすかのように、やがてグリードは口を開くのだった。
「その通り。しかしそれはあくまでも、建前に過ぎない上辺の話です。実際のところ四大国家それぞれの大公は、この分散国家制に納得してなどいないのですよ。互いが互いを敵視しており、この上なく邪魔に感じているのがシルフィアの現状──つまり、誰もが唯一無二の頂点の座を求めているのです。彼らは皆、自身の他に王を名乗る者達が存在していることが許せないというわけです」
「……敵視? じゃあ、そもそもなんで分散国家制なんて体制を作り出したの? その四人の王様皆が納得していないなら、誰がそんなことを最初に言い出したわけ?」
「それは、このシルフィアの中央に位置する中枢都市、アルディオ内部の中枢会が取り決めたこと。彼らは複数人の老議員から構成されるシルフィア全体の運営を指す組織です。その権限は四大国家と同等のもので、対等の立ち位置にあるのです」
「中枢会……」
つまり、このシルフィアを取り仕切るのは東西南北に位置する四大国家と、その中央に存在する中枢会なる組織、ということらしい。
そして現代における分散国家制はその中枢会が発案したもので、そこから今のシルフィアに至るのだと言う。
「ええ。しかし先ほども言ったように、分散国家制はあくまでも表面上だけのもの。そして各国家と中枢会の権限の程度は同等のもの──つまり、四人の大公達はこの現状を変えたいというわけです。より強く、より民を先導できる者こそが唯一無二の王に相応しいと、誰もがそう主張しているのですよ」
「……少しずつわかってきた。じゃあつまり、その四つの国家は相当仲が悪いってこと?」
そこまでを言い終えたルカに対して、グリードは唐突に「ふっ」と鼻で笑うのだった。
「仲が悪い、ですか。可愛らしい言い方をしますね。まるで子どもの喧嘩のような表現だ。……しかし実際は、そんなものではありません。国境沿いでは常日頃から兵士達の小競り合いが続いていますし、死傷者も多く出ています。今はそれで済んでいますが、もしもなにかのきっかけがあれば、手のつけられない大戦争に発展するでしょう。このシルフィア全体を揺るがしかねないほどの……ね」
「──」
戦争。
その単語に、ルカは神妙な面持ちになる。やはりいつの時代、どの国にも戦争というものは存在してしまうのだろうか。
元の世界、海の向こう側でも、ルカの見えない所で国家間の戦争は行われていた。
異世界に来てからもその存在を身近に感じることになるとは──と、ルカはどこかやるせなさを覚えてしまう。
「……なんだか話を聞いてると、とても同じ国の中の話には感じられない。その四人の王様も、その国の人達も、皆シルフィア共和国っていう一つの国の人々のはずなのに」
「──。同じ国の人間同士だからと言って、考え方や価値観も同じとは限りませんよ。それが人間という生き物の性ですから」
ルカの言葉を受けたグリードは、そう冷たく言い放つのだった。
そして残念ながら、それこそが真理なのだろう。人と人が互いを理解し合い、尊重し合うことの難しさを、生きとし生けるものすべてが痛感しているはずだ。
そうでなければ、人間同士の争い──ひいては戦争なんてものは、この世から生まれてなどいないのだから。
「……この国の状況は、なんとなくわかった。だから次は、やっと一番聞きたいことが聞ける」
「一番聞きたいこと、とは?」
小さく首を傾げるグリードに対し、ルカは「決まってるでしょ」と若干前のめりになっていた。
「リビアス王家の専属秘書さんがどうして、この私を馬車に乗せて走ってるわけ? その理由がまだ聞けてないんだけど」
「……ああ、そのことですか。いいでしょう。別に隠すことではありません。むしろ私もその話がしたかった。そろそろ本題に入りましょうか」
ルカに向き直り、グリードはその理由を口にするのだった。
「──あなたを、我々リビアス王家の使用人に迎えるためです」
「……は? し、使用人って……?」
「使用人は使用人です。あなたにはこれから召使いとして、当家の家事全般をして頂きたい。それに対する報酬は当家の居住権と安定した生活──どうです? あなたにとっても、悪い話ではないでしょう?」
得意気にそう語るグリードだが、ルカはそのあまりに突然の申し出に困惑を隠せなかった。
目を覚ましたら唐突に異世界へと落とされており、そうかと思えば見知らぬ男に馬車に乗せられ、王家で使用人として働けなどと──あまりに状況が目まぐるしく、思考をまとめる余裕さえない。
そして何より気になったのは──
「……眠ってた私を馬車に乗せて、そのままこうして王宮に向かってるところを見ると、私に拒否権がないように思えるんだけど……」
そもそもの話、人に対して使用人をやってほしいとお願いする場合は、まず馬車に乗せる前にルカを起こし、そこで要求するべきなのだ。
にも関わらず目の前のグリードはその過程を無視し、いきなり無防備のルカを馬車に乗せて連行している。
──つまりグリードのそれは、お願いではない。限りなく命令に近い、強制的な申し出なのだ。
そんなルカの発言を受け、当のグリードは「拒否権?」と首を傾げる。
「そんなもの、最初からあるわけがないでしょう? 貧民街の浮浪児を相手に、何故に我々が気遣いをするのです? いいですか? 改めて申し上げますが、リビアス王家はやがてシルフィアを統べることになる一族……私達とあなたは、決して対等な立場ではないのですよ」
「浮浪児って……だから私は──。はぁ、もういいや……これ以上は話がややこしくなるだけだし」
再び反論しようとしたが、すんでのところでルカは辞める。
自分が貧民街の浮浪児ではないと否定したところで、それならどこから来たのかという問いに対して、上手く答えられる自信はない。
異世界の住人に異世界転生してやって来ました、なんて口にしたところで、頭のおかしい奴扱いされて白い目を向けられるだけだろう。
そうなるくらいなら、変に否定しない方がよほどマシというものだ。
リビアス王家こそが至上の存在であり、それ以外の人間は底辺の石ころだと言わんばかりのグリードの態度は気に入らないが、とにかく彼は、何が何でもルカを王宮へと連れていきたいらしい。
「そもそもなんで、よりによって貧民街の人間を王宮の使用人に採用するわけ? そんな話、聞いたこともないんだけど」
次に感じた不自然な点を口にするルカ。
先ほどからグリードの言葉を聞いていると、彼はよほどリビアス王家を崇拝しているらしい。
そんな彼からすれば、貧民街の人間を使用人として迎えるなど、言語道断なのではないだろうか。
「本来であれば、私も不本意ではありますが……しかしこれは、当家の大公が直々に決めたことです。大公の命令は絶対。私にそれを否定できる権利はありません」
「えっと、大公って、王子様だったっけ……? その人が、わざわざ貧民街から使用人を採用したいって言い出したの?」
「ええ。あの方は、とても慈悲深く寛大なお心の持ち主です。以前より貧民街でしか生きていけない人間を救いたいとお考えになられ、安定した生活と引き換えに当家の使用人としての仕事を与えたいと仰っていました。その記念すべき最初の一人目が、あなたというわけです」
「……ふぅん。でも、なんで私なの? その貧民街から私を選んだのは、その王子様じゃなくてあなたの判断?」
なんとなくで投げかけた質問だった。
本当に、特に深い理由はない、一応聞いておきたかっただけの単純な問いかけ。
だが次の瞬間、その問いを受けたグリードの表情が微かに硬直するのを、ルカは確かに見るのだった。
まるで何か、不都合なことでも聞かれたかのような反応──そんな風にも受け取れる。
「……? どうかしたの?」
「──。いえ、なんでもありません。気にしないでください」
僅かに動揺した様子を見せながら、グリードは咳払いを一つする。
「あなたを選んだ理由は……貧民街の浮浪児の中では、まだまともな容姿と清潔感を持っていたからです。……まあ、些か奇天烈な身なりはしていますが」
ルカのラフな寝巻き姿を眺めながら、グリードはそう呟く。
しかしこれが仮に外出用の私服だろうと制服だろうと、異世界人の目には等しく奇天烈な身なりに見えるのだろう。
そもそもの文化が違うのだから、こればかりは仕方のない話だ。
「大公は貧民街の中から一人のみ選んでくるよう私に命じましたが、具体的にどういった人間を選ぶのかは私に委ねられています。よって、私の独断という形であなたを選ばさせて頂きました」
「……でも私、使用人なんてやったことないんだけど。本当に私なんかでいいの?」
「今更引き返して、別の人間を選べとでも? それは私の信念に反するので、到底できませんね。それにそうなることは、あなたにとっても不都合のはずですよ? せっかく王宮での安定した生活を手に入れられるというのに、みすみす自ら、その機会を逃してしまうのですか?」
「──う。それは……」
悔しいが、グリードのそれには反論できない。
貧民街の浮浪児では断じてないが、それでも右も左もわからない異世界で独り彷徨うなんてことは、ほとんど自殺行為にも等しい愚行だ。
衣食住のすべてを一瞬にして失ったルカにとって、王宮での安定した生活は率直に言って有り難い。
その対価として使用人の仕事をこなせというのは、安い代償とも言える。
それならば──と、ルカはようやく自身の意志を固めるのだった。
正直に言って、まだ混乱と目まぐるしい状況の変化に思考が追いついていないが、それでも今は構わない。
ここで自分が返せる答えは、ただ一つだった。
「──わかった。使用人の仕事、やってやろうじゃないの」




