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プロローグ 『転生少女と秘書の青年』

 ──初めてだった。これほどまでに、何かを心の底から憎悪したのは。

 胸の内を焦がすのは酷く歪んだ黒い感情。自分でも、渦を巻くその正体が何なのかを、痛いほどに理解できる。

 憎くて憎くて仕方ない。この手で奴らを蹂躙してやりたい。生命の糸を断ち切り、亡き者にしてやりたい。

 そう激しく願ってしまう、その感情。


 人はそれを、『殺意』と呼ぶのだ。


「……る、せない」


 震える声が、ルカの口元から零れ落ちていた。

 それと同時に頬を伝うのは、激情に駆られて流れる涙。憎しみも悲しみも怒りも、全部が滅茶苦茶にごちゃ混ぜになったような──そんな落涙であった。


「──許せない」


 ようやくはっきりと口にできたその言葉を噛み締め、ルカは頬の涙を拭うことも忘れながら、眼前に広がる灼熱に包まれた街を見据える。

 肌を突き刺す熱気の痛みすら、もう何も感じない。あれほど刺激していた黒煙の臭いさえも、もう鼻腔には届かない。


 ただルカは強く願った。──あの子の命を奪ったあいつらを、すべてこの手で殺してやると。


 奴らが目の前で、あの子の命を無慈悲に奪ったように、私だって、なんの慈悲もなく奴らを殺す。

 それがせめてもの、あの子への餞になると信じて。


 だから、



「──絶対に、殺してやる……ぅッ」



 ルカはもう一度だけ呪詛のような怨嗟の声を絞り出し、目の前に広がる地獄に向けて、その憎悪の瞳を向けていた。




 ◇

「……ん、ぅ」


 薄ぼんやりとした意識が覚醒に近づくのを微かに感じながら、彼女──真城瑠花(ましろるか)は、不鮮明で朧気な視界を自覚する。

 そうして数秒という時間をかけ、ようやく彼女は寝起きの感覚を頭で掴み取っていた。


 それと同時に込み上げてくるのは、『あぁ、今日も一日が始まるのか』という倦怠感に他ならない。

 ただでさえ寝起きにはめっぽう弱い体質なのに、それを自覚するのは心底体に堪えるものだ。


 一日の始まりなんてものは、誰にだって平等に与えられている。

 だからそれに対して不平や不満を口にするのは、贅沢な悩みだということはわかっている。

 しかしながらそんな理屈を受け入れ、前向きに物事を考えられるほど、高校生というのは大人じゃない。

 そんな言い訳を頭の中でため息混じりに呟きながら、ルカは唐突に二つの違和感に襲われていた。


「……ぇ?」


 それを自覚した途端、微睡みの中に溶けかけていた意識は鮮明に確立する。

 鼻先で感じたのは、慣れ親しんだ自分の部屋の毛布の匂いではない。自分は今、申し訳程度の一枚の布切れに包まれて横向きになっている。


 心地よい温もりなんて欠片もないその感触の中、次に気づいた違和感は、肉眼で捉えた眼前の視界。

 本来であれば、それは見慣れた自室の光景であるべきだ。しかし現実には違う。ルカの目の前に広がっているのは、紛れもない外の景色。


 ──それも、ただの景色ではない。そこは日本とは到底思えない、教科書でしか見たことがないような、中世のヨーロッパのような街並みであった。


 敷き詰められた石畳の上には煉瓦造りの民家が規則正しく建ち並んでおり、向こう側には天を貫くような巨大な時計塔が見えた。

 街を行き交う人々の服装も例外ではなく、誰もがその街並みにあったような着こなしをしている。

 その中には鎧を身に纏った傭兵の姿も確認でき、間違いなくルカの常識からは程遠い世界が広がっていた。


 対する自分はと言うと、寝巻き用の部屋着の灰色のパーカーに、黒のインナー、灰色のショートパンツというラフにラフを重ねたような格好だった。

 浮いているだなんてレベルの話ではない。外で寝巻きを晒しているから非常識だなんて、そういう次元の話ではないのだ。


 ──異端。今の自分の状態を表すとしたら、その言葉が何よりも最適であった。


「……は、ぁ?」


 素っ頓狂な声が口元から零れる。

 それと同時にルカの体は反射的に起き上がっており、その目はみるみると見開かれていく。

 そうしてすっかり眠気が振り払われた思考の先に理解する。石畳を駆け抜ける度に揺れる軽い衝撃。視界の正面に映るのは、二頭の馬の背中に、そこに腰掛ける御者の後ろ姿。


 ──いわゆる馬車という存在に、ルカは乗っていたのだ。


「……なに、これ。もしかして私、まだ夢の中だったりする?」


 独り言を零したその声は、自分でもはっきりとわかるくらいに震えていた。

 当然だが、自分はヨーロッパに旅行に来たわけでは断じてない。昨日の夜のことだって、鮮明に記憶に残っている。

 なんのことはない。いつも通りに学校から帰宅して、いつも通りに宿題を終わらせ、いつも通りに夕食と風呂と歯磨きを済まして就寝しただけだ。


 それがどうして、何故に自分はこんな状況に陥っているのか。

 人生は理不尽なことばかりだと言うけれど、これではもはや理不尽を通り越して意味不明だ。

 ルカは寝癖を風に晒しながらただただ口を開け、唖然としながら視界に広がる街並みを眺めることしかできない。


 その矢先であった。



「──ようやくお目覚めですか。随分と待ちくたびれましたよ」



 放心状態だったルカの耳朶に、唐突に男の声が響く。

 咄嗟に真横に振り向くと、そこには一人の青年が馬車の客席に腰掛けていた。

 眼前の街並みにばかり気を取られていたせいで、その存在に気づくことができなかったのだろうか。


 七三に分けた黒髪に、黒縁の眼鏡、鋭い紫紺の双眸が特徴的な、整った顔立ちの男であった。

 黒を基調とした正装は堅苦しい雰囲気を醸し出しており、ルカの寝巻き姿とはどこまでも対照的。

 しかしながらそれに対する羞恥心など湧く余裕すらない。今のルカにとっては、自分の寝起き姿を見知らぬ異性に見られているこの状況こそが、ただただ不安を掻き立てられるものだった。


「だ、だれ……?」


 ようやく絞り出せたその言葉は、微かに震えの混じったもの。

 文字通り、まったく知らない相手だ。ルカの送ってきた十七年の人生において、目の前の男の顔はそのアルバムにはない。

 だからまずは相手の素性を把握しようとして投げかけた問いであったが、それを受けた男の反応は──軽いため息がただ一つ。

 そして、


「相手のことを知りたいのなら、まずは自分の名を名乗るのが必要最低限の常識では? さすがは貧民街の捨て子。礼儀も作法もあったものではありませんね」


「ぇ……貧民街? 捨て子って……私のこと?」


「寝惚けているんですか? 他に誰がいると言うんです?」


 辟易した、とでも言いたげに冷たい視線を浴びせてくる青年。

 一応は敬語で接してきているが、その言葉の孕む棘は鋭い。その態度にルカは思わずムッとしたが、今はそれよりも気になることがある。


 ──たった今、彼は確かにこう言った。貧民街の捨て子、と。

 そしてどうやら、それは紛れもなく自分自身を指す言葉らしい。しかしまるで意味がわからない。


 当然の話だが、ルカは貧民街に縁もなければ、捨て子でもない。東京生まれ東京育ちの、生粋の日本の女子高生だ。

 特別裕福な家庭でもなければ、特別貧しい家庭でもない。どこにでもいる有象無象の、ありふれた学生と言って差し支えないだろう。


 つまりは目の前の男の言葉はまったくの的外れということになり、お門違いもいいところなのである。

 だがそれを抜きにしても引っ掛かるのは──やはり目の前の光景に他ならない。

 この中世ヨーロッパのような街並みは、果たして一体何なのか。それを説明できないことへの歯痒さが悔しいが、その瞬間、ルカは思い出したかのように自身の頬を指で抓ってみることにした。

 その結果は──


「……夢じゃ、ない」


 古典的なやり方だったが、どうやらこれは紛れもない現実らしい。

 それを受け入れるためにはまだまだ時間がかかりそうだったが、とにかく現時点で結論を出すとするなら、これはやはり、



「──異世界召喚ってやつ、なの?」



 馬鹿げているとは心底思うが、そうでも言わなければ説明がつかない。

 目を覚ましたらいきなり異世界に飛ばされたなど、理不尽にも程があるとは思うが。


 ルカは一度だけ深呼吸をし、頭の中をクールダウンさせる。そして冷静さを取り戻して話を整理させるのだった。


 ──これを異世界召喚だと仮定したとして、どうやら自分は男の言う貧民街なる所で眠っていたということなのだろう。

 そして、そんな自分を捨て子だと考えた男はルカを拾い、この馬車に乗せて移動中……ということで合っているのだろうか。

 その答え合わせは、目の前の彼に聞けばわかることだ。だからルカはまず、男の要求に応えることにするのだった。


「──私の名前はマシロ・ルカ。……あなたは誰なの?」


 自己紹介を並べた上で、今度こそ男の素性に迫る。

 その疑問を受けて男はもう一度だけ軽く息を吐くと、真っ直ぐとルカの顔を見据えて口を開くのだった。


「──リビアス王家専属秘書、グリード・レイゼル。以後お見知り置きを」

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