第5話 月下の再会
「傑作だったなぁ、レシオの這いつくばるあの姿!」
深夜の裏通り。自分たちの他には誰もいない静かな空気を、オルバドの声が切り裂く。
「死にかけの虫みてぇだった! はっはっは!」
「俺は、あの死んだ目がよかった。ヒッ、ヒヒヒ……!」
ゼズが同調し、時間も場所も考えない二人の笑い声が黒い空に跳ねる。
ゆえに、ブラウの沈黙を無視できなかった。
「ブラウよぉ。どうした、さっきから黙りこくって」
「何か、考えごとか?」
前を歩いていたオルバドとゼズは、足を止めてブラウに振り返る。
顎に手をやっていたブラウが、目線を二人に向けた。
「……あいつ、やっぱり見てたよな」
「あ? ……あー、そりゃあ、なあ?」
「見てた。確実に」
オルバドとゼズが顔を見合わせる。
「だよなぁ」
ブラウは深く息を吐き、首を横に振った。
「どうも最近、俺は気が緩んじまってたらしい」
「そんなに気にすることかぁ? この町のやつらは自分のことで手一杯だ。レシオひとりが騒いだところで、誰も聞きやしないさ」
「ただのガキに、何ができる」
楽観する二人をブラウが睨む。
「別にレシオが怖いわけじゃねぇ。だが、あいつが誰かにあの夜のことを話したら、どうなる?」
「どうなるって……」
「……また、話す。その誰かが、別の誰かに」
「この町で悪魔が人間を襲った。そんな噂が立ってみろ。せっかく住みやすくなったのに、また人間どもが警戒する。やつらだって来るかもしれねぇ」
一理ある、そう言うようにオルバドは鼻を鳴らした。
「じゃあ、どうするってんだ? 口外しないよう脅すか?」
「はははっ! おいおい、なに人間みたいなこと言ってんだ」
空に浮かぶ月に、雲がかかる。
「もっと相応しいやり方があるだろう?」
色を深めた夜闇の中で、ブラウの目に禍々しい光が揺れた。
「俺たちのやり方がよぉ……!」
◆◆◆
レシオが指輪を失くしたと気づいたのは、店の片付けを終えたときだった。
全身から冷や汗が噴き出し、すぐに裏口へ向かった。
「ない、ない……!」
目視では限界があり、膝と両手を土に汚しながら懸命に探したが、それらしき物はない。
「どうして、こんな……!」
上手くいっていたはずだった。上手くいくはずだった。
しかし現実は非情で、大切なものばかり失っていく。
「いや……」
手を止めたレシオの口角が、震えながらわずかに上がる。
「俺のせい、か」
もっと早く、メリエルの異変に気付いていたら。
もっと早く、クレイのところへいけたら。
もっと早く、店に戻れていたら……。
「あっ」
脳裏を過る、今日の出来事。それが傷だらけの紅い女の姿を映して止まる。
「ひょっとして、あのときに……!」
深く沈みかけていた思考に、わずかな光明が差した。
「そうだ、きっと、そうなんだ……!」
あの場で落としていたのなら、ここで見つかるはずがない。
「行かなきゃ!」
見つからないかもしれない。もう誰かに拾われているかもしれない。
不安な心も当然あるが、それを吹き飛ばすには十分な衝動がレシオの足に宿っていた。
「こんな夜更けにお出かけかい?」
しかし、それを阻む影が躍り出る。
「オルバド……さん」
ニタニタと意地の悪い笑みを浮かべた巨漢がレシオの前にいた。
「あれだけ痛めつけられたくせに、元気だなぁ」
「べ、別にいいでしょ。仕事以外の時間で、俺が何をしたって!」
「まあなぁ。普段なら別に止めやしない。でもなぁ、今日はダメだなぁ。ははは……!」
意味不明な言動から、レシオはオルバドが酔っていると考え、彼の横を通り過ぎようと動いた。
「俺、急いでるんで。また明日――」
「だからぁ」
半歩前に出たオルバドが、レシオを阻んだ。
「行かせないって言ってんだろ」
普段の荒々しい雰囲気が消え、冷たい眼差しがレシオを貫く。
何かがおかしい。
直感でしかないが、レシオはオルバドへの警戒心を強め、後ずさる。
裏口が開き、二人の視線が動く。
「おいおい、部屋にいねぇと思ったら、また出てきてんのか」
「全然、懲りてない」
ブラウとゼズだ。普段は閉店と同時に帰る三人が、なぜか揃っていた。
レシオの中の違和感が、さらに膨れ上がる。
「アンタたち……。まだ、俺を殴り足りないんですか?」
「そういうわけじゃねぇよ」
ブラウが笑いながら否定した。
「さっきのはあれで終わりだ。でもな、あれこれ考えた結果……お前を殺すことにした」
「……は?」
男たちの皮膚がゴボゴボと泡立ち、内側から輪郭が歪んでいく。
「悪く思うな……いや、存分に恨んでくれていいぜ。それくらいは許してやる」
「ついでに自分の不運も恨んどけ!」
「ヒ、ヒヒ、ヒハハハハッ!」
ゼズのおぞましい笑い声が響きわたり、やがて消える。
三体の悪魔が、現れた。
ブラウの変わった悪魔は、レシオがあの夜に見た、女を喰っていた蝙蝠の悪魔である。
しかし、レシオにとって驚くべきことは別にあった。
「人が、悪魔に……!?」
悪魔が人よりも獣に近い見た目をしていることは知っている。
だが、今のは明らかに人から悪魔への『変身』だった。
「まあ、そう見えちまうよな」
蜥蜴の悪魔が発したオルバドの声に顔を上げる。
「逆。俺たち、人間に化けてた」
ゼズと同じ口調で、狼の悪魔が続いた。
「じ、じゃあ、ずっと、アンタたちが店に来たときから、ずっと……!」
「お前は、悪魔と働いてたわけさ」
蝙蝠の悪魔が、腕と一体化した羽根を広げた。
「言うまでもねぇが、お前を殺すのは、あの夜に俺を見たからだ」
前にはブラウとゼズ。後ろにはオルバド。
「俺たちのことは、今知られるとまずいらしい」
退路が、ない。
「うぁ、あ……」
命の危機に瀕しながらも逃走不能な状況に、足から力が抜け、動けなくなる。
「そら、捕まえたぜ」
鱗に覆われた手がレシオを持ち上げる。
「食い応えはねぇが、もうその生意気な面を見なくていいと思うと、せいせいするぜ」
開いた口から不快な熱気と臭気が押し寄せ、レシオは声にならない短い悲鳴をあげて身をよじった。
「おい、俺の分、残しておけよ」
そんなレシオなどお構いなしに、ゼズが鋭い爪の生えた指で口の端のよだれを拭う。
「うるせぇな。わかってるよ。こいつと、こいつの妹。俺たちできっちり半分ずつだろ」
「ああ。もっとも、互いの顔を見ることはもうないけどな。はははは……!」
頭上で渦巻く笑い声に、レシオは病に伏せたメリエルを思い出す。
体内で、熱が震えた。
「……を……な……」
「あ?」
「メリエルに……手を、出すな……!」
涙を流しながら悪魔を睨みつける。これだけだ。今できる抵抗は、これしかない。
それも悪魔たちには無意味だということも、わかっていた。
「この期におよんで他人の心配かぁ? ひでぇツラのわりに余裕だな」
「諦めろ。お前も、お前の妹も、もう終わり…… !」
レシオを嘲笑う二体の悪魔に、蝙蝠の悪魔が焦れたように舌打ちした。
「喰うならさっさとしろ。他の人間どもに見られても面倒だ」
「へいへい。……つーわけだ。あばよレシオ」
大きく開かれる青紫色の口腔。唾液に濡れた牙。
これが、自分の終わりの光景。レシオはそう確信した。
死ぬ。何もできないまま。何も分からないまま。
絶望という言葉すら空虚に思えるほどの無力感が、頭上から重くのしかかる。
ただメリエルと生きていたい。それすら叶わない現実に対して沸き上がったのは、怒りだった。
許せない。
どれだけ奪うつもりだ。
どれだけ奪えば気が済むんだ。
焼けつくような怒りを宿したレシオに起きた、わずかな異変。左目に金の色が差し込んだ。
「ああ? なんだお前、その目。気持ちわりぃ……」
至近距離から見ていたオルバドは気づいたが、一笑に付した。
「まあいい。食っちまえば、同じことだ」
レシオの頭が、オルバドの口腔に覆われて――
「やっと見つけた!」
弾けた声に、その場にいた全員の動きが止まった。
「……のはいいけど、わりと最悪の状況か? これ」
目を開いて声の主を探し、酒場の屋根の上に見つける。
「あ……」
その姿は、一度見たら決して忘れられない。
「よう。また会ったな。レシオ!」
月光を背に受ける『紅』が、そこにいた。