表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/9

第1話 人と悪魔と

 目の前で、『怪物』が人間を喰っている。


 肉の一片、血の一滴さえも食い尽くさんとばかりに、赤く濡れた牙が皮膚を裂いていく。

 半身を失った女性の身体は、蝙蝠(コウモリ)に似た怪物が噛みつくたびにビクンと跳ねる。

 その様は、ついさっきまで生きていたことを嫌というほど主張していた。


 少年――レシオ・バーネットは即座に壁の向こうへ身を隠す。髪と同じ茶色の目を見開いた顔から、冷たい汗が滴り落ちた。


 《悪魔》。人々はその怪物をそう呼ぶ。


 鋭い爪牙や翼など個体によって姿が異なり、《聖女》が率いる人類との戦争――聖魔戦役に勝利したこの世界の支配者たち。生き残った人類は悪魔の影に怯えながら暮らしている。


「はっ、はっ……!」


 浅い呼吸を繰り返す口を手で覆う。聖女は悪魔と戦うための特別な力を持つが、レシオにそんなものはない。仮にあるのなら、震え続ける足から情けなさを感じることも無かっただろう。


 残された道は二つ。

 逃げるか。喰われるか。


 悪魔がこのまま姿を消すという可能性もあるが、そんな都合のいい話はないと、恐怖に塗り潰された思考でも理解できた。

 レシオの本能は、逃走の命令を送り続けている。だが、怯えきった身体が命令を受け付けない。

 そこでふと気づく。聞こえない。

 身体を食い千切る音も。こぼれた血と臓物が地面を叩く音も。何も聞こえない。

 レシオは半ば無意識に、目を悪魔がいる方に向けた。


「――そこで何してる。レシオ」


 後ろからの声に、短い悲鳴が飛び出す。二人の男がレシオを見下ろしていた。

 片方はでっぷりと太り、片方は骨と皮だけかのように痩せている。


「オルバドさんに……ゼズさん……?」


 レシオが働く酒場の店員たち。乱れきった思考では、その事実しか認識できない。


「なんで、ここに……?」


 うわごとのように、そうつぶやくのがやっとだった。


「いたら悪いか?」

「お前には、関係ない」


 突き放すような物言いの二人に、レシオは続ける。


「だ、だって、悪魔がそこに……」


 言いかけた小柄な身体に、重い衝撃が走る。オルバドの右足が、レシオの腹にめりこんでいた。


「ぐ…… っ!?」

「悪魔だと……? 何を寝ぼけたこと言ってやがる」

「サボる言い訳、へたくそ」

「ほ、本当です……! すぐ近くに、あ、悪魔が……!」

「口答えか!? ああっ!?」


 うずくまるレシオがまた蹴りつけられる。十代前半の幼い身体には明らかに行き過ぎた暴力。だが、心を痛める様子は男たちにはない。レシオはいつものようにいたぶられていく。


 ――ダメだ。


 痛みと衝撃で飛びそうな意識を、迫る危険を考えて繋ぎ留める。

 こんなに物音を出したら気づかれる。みんな殺されてしまう。まだ、死ぬわけにはいかない。


 レシオが思い浮かべたのは、共に酒場で働く妹の姿。

 あいつのためにも、死ぬわけには――


「何の騒ぎだ」


 若い男の声が、レシオを蹴る二人を止めた。


「よお、ブラウ。女漁りは終わったか?」


 オルバドにそう呼ばれた筋肉質の男――ブラウは、ぽりぽりと頭を掻く。


「まあな。今日はまずまずだった。なかなか俺に見合う女はいねぇな」

「ヒヒ……相変わらず、面食い」

「うるせぇ。……で」


 ブラウが地面に転がるレシオへ冷たい目を向ける。

 今、あの路地から出てきたか? レシオは痛みにぼやけた頭で思考するが、ブラウには血の一滴も付いてないように見えた。


「なんでコイツがいる」

「知らない。俺たちも、今見つけた」


 ゼズの言葉にブラウは鼻を鳴らす。


「まあいい。興味もねぇ」


 ブラウはレシオの茶髪を無遠慮に掴み、横たえた身体を持ち上げた。


「う、く……っ!」


 先ほどと違う痛みがレシオを苛む。ブラウもまた、同僚のレシオへ日常的に暴力を振るっていた。


「ようレシオ、こんなところで寝てるたぁ、お前も度胸が据わってきたな? え?」

「……そっちこそ……いいんですか……」

「ああ?」

「悪魔が、近くにいます……! こんなところにいたら、く、喰われちゃいますよ……!」


 そう聞いて怯えない人間はいない。レシオは恐怖に顔をゆがめて逃げていく三人を想像する。


「何言ってんだ、お前」


 だが、ブラウの反応は冷淡だった。


「悪魔なんて、もう何か月も町に現れちゃいねぇ。くだらねぇこと言ってんじゃねぇぞ!」


 オルバドやゼズよりも力強く腹を蹴られた。その勢いでレシオの身体が壁にぶつかる。声も出せず苦悶するレシオに、ブラウは不愉快そうに舌打ちした。


「チッ、時間の無駄だ。行くぞ」


 ブラウを先頭に三人が店の方へ戻っていくのを睨みながら、痛みを噛み殺して起き上がる。ゴミの詰まった革袋は近くに転がっていた。


「あの、クソ野郎ども……!」


 見てくれは悪くないからと、いつも服に隠れた場所ばかりを狙ってくる。

 だが、痛みは現実に生きている証拠。今だけはこの痛みにわずかな安堵を覚えた。


「でも……じゃあ、あれは…… 」


 あの光景はいったい何だったのか。三人が去り、静けさが戻っている。いつの間にか、血の臭いすら消えていた。レシオは恐る恐る路地を覗き込む。


「……え?」


 そこには何もなかった。あるはずの血の海も、肉片も、どこにもない。

 殺風景な道が淡い月明かりを浴び、その光の向こうに果ての無い闇を広げている。


「どうして……」


 思わず踏み入りそうになったが、脳裏に焼き付いた光景が、レシオの足に絡みついて止めた。


 ――何もないなら、それでいいじゃないか。


 頭の奥に、自分の声が響いた。


 ――きっと、疲れて妙な幻覚を見たんだ。

 ――それよりも、早く仕事に戻らないと。

 ――働かなくちゃ。明日を生きるために。


 声に賛同するようにレシオは踵を返す。


「そ、そうだ。気のせいだ、きっと……!」


 そして、一度も振り返らず、駆け足でその場を離れるのだった。

次回は本日12時頃に更新です!


面白い、続きが気になると思っていただけましたら、

ブクマ、感想、いいね、などなどお願いいたします!


それでは次回も楽しみに!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ