第1話 人と悪魔と
目の前で、『怪物』が人間を喰っている。
肉の一片、血の一滴さえも食い尽くさんとばかりに、赤く濡れた牙が皮膚を裂いていく。
半身を失った女性の身体は、蝙蝠に似た怪物が噛みつくたびにビクンと跳ねる。
その様は、ついさっきまで生きていたことを嫌というほど主張していた。
少年――レシオ・バーネットは即座に壁の向こうへ身を隠す。髪と同じ茶色の目を見開いた顔から、冷たい汗が滴り落ちた。
《悪魔》。人々はその怪物をそう呼ぶ。
鋭い爪牙や翼など個体によって姿が異なり、《聖女》が率いる人類との戦争――聖魔戦役に勝利したこの世界の支配者たち。生き残った人類は悪魔の影に怯えながら暮らしている。
「はっ、はっ……!」
浅い呼吸を繰り返す口を手で覆う。聖女は悪魔と戦うための特別な力を持つが、レシオにそんなものはない。仮にあるのなら、震え続ける足から情けなさを感じることも無かっただろう。
残された道は二つ。
逃げるか。喰われるか。
悪魔がこのまま姿を消すという可能性もあるが、そんな都合のいい話はないと、恐怖に塗り潰された思考でも理解できた。
レシオの本能は、逃走の命令を送り続けている。だが、怯えきった身体が命令を受け付けない。
そこでふと気づく。聞こえない。
身体を食い千切る音も。こぼれた血と臓物が地面を叩く音も。何も聞こえない。
レシオは半ば無意識に、目を悪魔がいる方に向けた。
「――そこで何してる。レシオ」
後ろからの声に、短い悲鳴が飛び出す。二人の男がレシオを見下ろしていた。
片方はでっぷりと太り、片方は骨と皮だけかのように痩せている。
「オルバドさんに……ゼズさん……?」
レシオが働く酒場の店員たち。乱れきった思考では、その事実しか認識できない。
「なんで、ここに……?」
うわごとのように、そうつぶやくのがやっとだった。
「いたら悪いか?」
「お前には、関係ない」
突き放すような物言いの二人に、レシオは続ける。
「だ、だって、悪魔がそこに……」
言いかけた小柄な身体に、重い衝撃が走る。オルバドの右足が、レシオの腹にめりこんでいた。
「ぐ…… っ!?」
「悪魔だと……? 何を寝ぼけたこと言ってやがる」
「サボる言い訳、へたくそ」
「ほ、本当です……! すぐ近くに、あ、悪魔が……!」
「口答えか!? ああっ!?」
うずくまるレシオがまた蹴りつけられる。十代前半の幼い身体には明らかに行き過ぎた暴力。だが、心を痛める様子は男たちにはない。レシオはいつものようにいたぶられていく。
――ダメだ。
痛みと衝撃で飛びそうな意識を、迫る危険を考えて繋ぎ留める。
こんなに物音を出したら気づかれる。みんな殺されてしまう。まだ、死ぬわけにはいかない。
レシオが思い浮かべたのは、共に酒場で働く妹の姿。
あいつのためにも、死ぬわけには――
「何の騒ぎだ」
若い男の声が、レシオを蹴る二人を止めた。
「よお、ブラウ。女漁りは終わったか?」
オルバドにそう呼ばれた筋肉質の男――ブラウは、ぽりぽりと頭を掻く。
「まあな。今日はまずまずだった。なかなか俺に見合う女はいねぇな」
「ヒヒ……相変わらず、面食い」
「うるせぇ。……で」
ブラウが地面に転がるレシオへ冷たい目を向ける。
今、あの路地から出てきたか? レシオは痛みにぼやけた頭で思考するが、ブラウには血の一滴も付いてないように見えた。
「なんでコイツがいる」
「知らない。俺たちも、今見つけた」
ゼズの言葉にブラウは鼻を鳴らす。
「まあいい。興味もねぇ」
ブラウはレシオの茶髪を無遠慮に掴み、横たえた身体を持ち上げた。
「う、く……っ!」
先ほどと違う痛みがレシオを苛む。ブラウもまた、同僚のレシオへ日常的に暴力を振るっていた。
「ようレシオ、こんなところで寝てるたぁ、お前も度胸が据わってきたな? え?」
「……そっちこそ……いいんですか……」
「ああ?」
「悪魔が、近くにいます……! こんなところにいたら、く、喰われちゃいますよ……!」
そう聞いて怯えない人間はいない。レシオは恐怖に顔をゆがめて逃げていく三人を想像する。
「何言ってんだ、お前」
だが、ブラウの反応は冷淡だった。
「悪魔なんて、もう何か月も町に現れちゃいねぇ。くだらねぇこと言ってんじゃねぇぞ!」
オルバドやゼズよりも力強く腹を蹴られた。その勢いでレシオの身体が壁にぶつかる。声も出せず苦悶するレシオに、ブラウは不愉快そうに舌打ちした。
「チッ、時間の無駄だ。行くぞ」
ブラウを先頭に三人が店の方へ戻っていくのを睨みながら、痛みを噛み殺して起き上がる。ゴミの詰まった革袋は近くに転がっていた。
「あの、クソ野郎ども……!」
見てくれは悪くないからと、いつも服に隠れた場所ばかりを狙ってくる。
だが、痛みは現実に生きている証拠。今だけはこの痛みにわずかな安堵を覚えた。
「でも……じゃあ、あれは…… 」
あの光景はいったい何だったのか。三人が去り、静けさが戻っている。いつの間にか、血の臭いすら消えていた。レシオは恐る恐る路地を覗き込む。
「……え?」
そこには何もなかった。あるはずの血の海も、肉片も、どこにもない。
殺風景な道が淡い月明かりを浴び、その光の向こうに果ての無い闇を広げている。
「どうして……」
思わず踏み入りそうになったが、脳裏に焼き付いた光景が、レシオの足に絡みついて止めた。
――何もないなら、それでいいじゃないか。
頭の奥に、自分の声が響いた。
――きっと、疲れて妙な幻覚を見たんだ。
――それよりも、早く仕事に戻らないと。
――働かなくちゃ。明日を生きるために。
声に賛同するようにレシオは踵を返す。
「そ、そうだ。気のせいだ、きっと……!」
そして、一度も振り返らず、駆け足でその場を離れるのだった。
次回は本日12時頃に更新です!
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、
ブクマ、感想、いいね、などなどお願いいたします!
それでは次回も楽しみに!