第1話 奇妙な客はカゲロウと名乗った
悪い話と、すごく悪い話があるんだけど、どちらを先に聞きたい?
え? どちらも同じじゃないかって?
じゃあ、悪い話から先に話すね。
先月、おばあちゃんが亡くなった。大分歳なのにずっと働き詰めで、ある日、寝床から出て来ず、店が開かないことを不審に思われ、布団の中で冷たくなっているところを発見されたらしい。働き者のおばあちゃんらしい最期だ。
次に、すごく悪い話をする。
都築ましろ、24歳。会社をクビになりました。
思えばぼんやり生きてきた。ぼんやりした気持ちのまま大学を卒業した後、適当な会社に就職し、二年後倒産。なあなあで生きてきた私は、突如社会の荒波に放り込まれた、とまあ、こういうわけ。
それで、突然何もやることがなくなった私は、親から「暇になったんならおばあちゃんの店の片付けに行って来て」と送り出されたのであった。
断る理由もないため、実家から電車で二駅の町にあるおばあちゃんの家兼店へと足を運んだ。駅を降りてから徒歩5分。駅前商店街の外れに建つ、木造二階建てのこぢんまりした食堂だ。何でも戦後間もない頃に建てられたとかで、良く言えば昭和レトロあふれる、悪く言えばぼろい店だ。
ここに来るのは高校生以来7年ぶりだろうか。小さい時は足繁く通ったが、勉強が忙しくなるにつれだんだん足が遠のいた。忙しいだけでなく「おばあちゃんらしい古めかしさ」を何となく避けるようになったという事情も、正直なところある。
思春期特有の強迫的な潔癖さと言えばいいのか、肌に馴染んだ服が急に恥ずかしく思えて脱ぎ捨てるような、あの独特な感覚。今となっては、どうしてあんなに避けようと思ったのか自分でもよく分からない。こうして人気のない店に足を踏み入れても、当時の心境を思い出せなかった。
いざ店内に足を踏み入れると、昔の記憶と何ら変わらぬ内装にいささか衝撃を受けた。まるで時が止まっていたかのように感じられる。思えばせいぜい7年でそう変わるものではないが余りにそのままだ。
当時の店の賑わいはよく覚えている。おばあちゃんは「寿寿亭」という定食屋をやっていた。盛りのいい生姜焼き定食やハンバーグ定食を求めて、学生や会社員に人気があった。店の中はおいしそうな匂いでいっぱいで、みなおいしそうにご飯を頬張っていたっけ。
そんな記憶とは裏腹に、今現在、静かでがらんとした店内は、空気までひんやりして心まで凍てつきそうになる。昭和の中頃に建てられた木造造りの店内は、今となっては古めかしくて、逆にありがたがる人もいるかもしれない。
建付けが悪いためガラガラとやたら大きな音を出す引き戸、厨房の前にはカウンター席もあるが、今は仕入れた物などを一時的に置いておく物置場になっている。壁にはこれまたいつのものか分からないシミだらけのメニュー表に交じり、おばあちゃん手書きの追加メニューの張り紙、油汚れが隠せない壁、安っぽいデザインなのに丈夫で何十年も交換してなさそうなテーブルと椅子、さすがに床材が浮き上がって来て10年前似張り替えたビニル製のタイル。
厨房はきれいに片付いており、亡くなる前日まで普通に働いていたのが分かる。もういい年だったのに辛くなかったのだろうか。誰か手伝いの人に来てもらっていたのだろうか。
丁寧に使っていたとはいえ、何十年にも渡って蓄積されたものを片付けるのに、一体何日通えばいいのだろう。これを全部私一人でやるのかと思うと途方に暮れたが、幸か不幸か時間だけはたっぷりある。しばらくここに寝泊まりして片付けに専念しよう。
そんなことを考えながら、片付け作業に取り掛かる。そうして30分ほど経った後、どこからかカラン、コロンとやけによく響く下駄の音が聞こえてきた。
カラン、コロン、カラコロン。
私は、はっと息を飲んで顔を上げた。入り口の引き戸は開けておらず、屋外の音はある程度遮断されているはずなのに、一際響く下駄の音。よく考えたらそれだけでも奇妙だが、私を驚かせたのはそこではない。
前にどこかで聞いたことがある。何だろう、この懐かしさ。
初めて聞く音に心の底から懐かしい気持ちがこみ上げる。この矛盾した現象が本能的に気味悪く感じられた。でも湧き上がる感情は抑えられない。自分でもどうしたらいいか戸惑っていると、いつの間にか引き戸が開いており、入り口に一人の男が立っていた。
おかしい、引き戸は鍵がかかっていたはずなのに。
下駄の音の主はどうやら彼らしい。肩に届きそうな無造作に伸びた髪を後ろにまとめ、着流しに下駄を履いたその姿は随分奇妙なものに写った。そろそろ寒くなる季節というのに羽織りも着ていない。歳の頃は30近くだろうか、顔つきは若いのに若白髪なので年齢不詳のところがある。入り口に立った彼は、切れ長の目をゆっくりと店内にさまよわせ、エプロン姿の私に目を止めた。
「しばらく店を閉めとったから心配して来てみたら、ようやく再開のようじゃ。よかった、よかった。はて、お千代さんはどうしたのかのう?」
「あ、あの、祖母は亡くなりました。それで、店も閉めることになったんです」
私は、若干声が上ずりながら答えた。千代というのは祖母の名である。お千代さんという呼び名から、まだ若い彼は祖母の知り合いであると察せられる。いつどこでどうやって、祖母は孫ほど年の離れている男性と知り合ったのだろう。私は、心の中で疑問に思った。
「へえ、お亡くなりに。そら知らなんだ。あのお千代さんが。へえ」
男性は、真から驚いたというような声を上げて、目を丸くした。知り合いなら、もう少し詳しい情報を教えておいた方がいいかなと考え、私は追加説明をすることにした。
「直前まで元気に働いていたんですけど、先月、朝起きて来なくて、布団の中で冷たくなっているところを発見されました。残念ですけど、苦しまず逝けてよかったと思います」
「そうさのう。あの人らしい死にざまじゃ。そうか、もう会えんのか」
男性は、どこか遠くを見るような目になって、かみしめるように呟いた。どういう関係かは知らないが、おばあちゃんを偲んでくれているのは分かる。その心は伝わるのだが、一体この人は何者だろうという疑問がむくむくと膨れ上がった。
まだ若いのに、やたら時代がかった口調、変に馴れ馴れしい態度、第一、そこまで親しい仲ならもっと早く訃報を聞いてもよさそうではないか。この人は何者で、二人はどんな間柄だったのだろう。そんな疑問が頭をもたげ、私は落ち着かない気分になった。
「あ、あの……祖母とはどんなご関係で?」
「うん? ああ、友人、とでも言えばええかのう。もう長い付き合いだ。あんたはお孫さん?」
「え、ええ」
一応答えてはくれたが、微妙に質問をはぐらかされてしまった。しかも、長い付き合いって、彼が子供の頃からここに通い詰めたということ? それなら私も顔くらい知っててもよさそうなものなのに、今日が初対面だ。
そんなことを考えていたら、彼はとんでもないことを言い出した。
「お千代さんは残念だったが、お孫さんが跡を継いでくれてよかった。これから開店準備なんじゃろ?」
「ええっ? 違いますよ! 店を畳むのに片付けをしていたところです。これが開店準備に見えます?」
私はそう言うと、周りにたくさん置いてあるダンボール箱を指した。
「だって、エプロンを着けておろう?」
「調理のためじゃなくて、片付けしてるからですよ!」
私はびっくりして反論したが、相手はけろっとした表情で引き戸に寄りかかりながら腕を組んでいる。この人変だ。どこか浮世離れしている。言葉にできない違和感に襲われた私は、居心地の悪さを覚えた。
「そうか、それは残念だ。あんたは跡を継ごうとは思わんの?」
「まさか! こないだまで普通のOLだったんですよ! 食堂なんてできません!」
「なんだ、その年で料理もできんのか」
「そうじゃなくて! おばあちゃんの跡を継ぐ気はないってことです!」
私は、時代錯誤も甚だしいこの発言に切れそうになった。自分が女だからそんなことを言われたんだろうと思ったのだ。実際料理はできる。管理栄養士の免許を持ち、前職もそれに関係した仕事だったので、それなりに作ることはできた。でも、わざわざ目の前の男に教えてやる義理はない。
「そうかあ……それは残念だ、それは残念だ……」
彼は、私の怒りなどお構いなしに、顎をさすりながら呟いていた。そもそもこちらのことなど一切頓着していない様子だ。そのことにまた腹が立ったが、それよりやるべきことがあるのを思い出して、片付け作業にまた取り掛かった。全く、飛んだ邪魔が入ったものだ。
しかし、彼はそれで諦めたわけではなく、更にびっくりすることを言って来た。
「なあ、それならわしと一緒にこの店をやってみないか?」
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