堕天使
1
キラニン宮殿に一発の銃声が轟いた。銃を撃ったのは娼婦ならぬ男娼、床に倒れているのは大統領。それは、ちょっと遅めのアフタヌーン・ティー・タイムの出来事であった。
豪奢な金箔のサロンには娼婦やら大臣やらが入り乱れていた。ドアを蹴破る稲妻のような音が、放心したサロンの人々を我に返らせた。
「諸君!」
軍服姿のリン中将以下20名余の軍隊が、怒声と共に現れた。
「10月29日午後4時00分をもって、軍部による新政権が樹立された。貴様ら旧政府高官を直ちに逮捕する」
リン中将の肩眼鏡が、午後の陽射しを浴びてキラリと鋭く光った。
「動くな!」後方のレオ少佐が、素早くピストルをぶっ放した。
走り出そうとした太鼓腹の法務大臣が、太股を押さえてそこらをのたうちまわった。
「きゃー」一人の娼婦がその場で卒倒した。
「クーデター?」一人の娼婦が唖然と呟いた。
「クーデターだ」例の男娼が繰り返した。
「さあ、さっさと連れて行け」
リン中将の掛け声と共に、逃げ惑う娼婦や大臣達は屈強な軍服姿の若者達に取り押さえられ連行された。
バルコニーから西日が差し込み始めていた。贅沢の限りを尽くしたサロンは、金や銀やルビーやエメラルドで、文字どおり宝石箱をぶちまけたように光り輝いていた。
リン中将は、真紅の絨毯の上にそれを見つけた。
「おかしい、いつの間に大統領は殺られたのだ」リン中将は首を傾げて、床の上に転がっている血まみれの死体を見た。
「リン中将」レオ少佐がいつもの事務的な口調で報告書を読み上げた。「旧政府高官12名と娼婦5名、男娼1名を逮捕しました」
リン中将は眉を吊り上げた。「男娼だって?」
「はい、僕です」例の男が手を挙げてすかさず答えた。
腰まで届く金髪はゆるやかに波打ち、夕陽を浴びて黄金の輝きを放っていた。長い睫毛、薔薇色の唇、灰緑色の大きな瞳。端正な顔立ちには知性のかけらも見られない、とリン中将は思った。
「なんたることだ」リン中将は卒倒せんばかりに声を張り上げた。「なんたる腐敗、なんたる堕落。西側文明に毒された腐った旧政府そのものだ」
リン中将は血に染まった死体を指して、嫌悪に激しく打ち震えた。「ここに転がっているこいつが、カメリア国を堕落させたのだ」
金髪の巻き毛はこともなく言ってのけた。「大統領を撃ったのは僕だよ」
リン中将は思わず声をなくして、この巻き毛男を見つめた。
「なんだ 、こいつは病気か」リン中将は横に立っていたレオ少佐に耳打ちした。
「さあ、まともではなさそうですが」
「リン中将」別の軍人が報告をしに来た。「官僚達の話では、大統領を撃ったのはどうやらあの男娼らしいです。拳銃も傍に落ちていました」
美しい青年はどこ吹く風といった感じで、知らんぷりしていた。リン中将はエイリアンに遭遇した気分になった。
「もういい、とっとと連れて行け」
「はい、リン中将」
大統領を撃った男は、抵抗するでもなく、おとなしくレオ少佐に連れられて出て行った。リン中将は、驚きと嫌悪のあまり、一番肝心なことを彼に聞くのを忘れていたことに気が付いた。
「奴は一体、なんだって大統領を撃ち殺したりしたのだろう」
キラニン宮殿のサロンに、夜の帳が降り始めていた。
2
リン中将は月光に映し出されたキラニン宮殿を後にした。黒のキャデラックは、町の北西部に位置する陸軍指令本部へ向かっていた。すべてが順調に運んでいた。クーデターに躊躇の色をみせていた海軍総帥バレンも、新政権樹立の声明後、すぐさま我々に賛同の意を表した。奴は昔から蝙蝠と呼ばれていた。
リン中将は、後部座席の窓を半分開けさせた。凛とした夜気が車内に流れ込んだ。リン中将は一つ身震いをした。
「素晴らしい夜だ」リン中将は澄み切った空気の匂いを嗅いだ。
「身が引き締まりますね」レオ少佐が真面目くさって言った。
一体、こいつには人間らしい感情があるのだろうか。リン中将は、彼に接する度にしばしば考えさせられた。まあ、確かに有能な人物ではあるあが。
教会の鐘が重々しく夜の町に響き渡った。教会の反発はさして考慮に入れる必要もないだろう。彼らがどんな行動に出られるというのか。せいぜい女のように、ぐちぐちと文句を並べるだけだ。宗教の名を借りた偽善者達め。
キャデラックはゴールド・センターの一画を走っていた。町の中心部に位置するこの区画は、金持ち連中の大豪邸が建ち並んでいた。アメリカでいうところのビバリー・ヒルズ、日本でいうところの田園調布というところか。プール付の庭、よく手入れされた芝。ごく一握りの金持ち達。彼らの大半は、いまいましい外国人商人達だ。フン大統領と手を組んで、私腹を肥やしてきた豚どもめ。彼らが西側から持ち込んできたおびただしい悪魔の商品の数々。堕落と破滅、殊にあの音楽といわれる騒音。あの騒音が若者の脳を破壊していくのだ。外国人商人どもは48時間以内に国外退去を命じられることになっていた。ざまあみろ、さっさと出て行け。我々の手で、このカメリア国を建て直すのだ。
道路から少し離れた暗闇には、みすぼらしい石造りの家がひしめいていた。貧困の巣窟だ。まだまだこの国は貧しい。リン中将は、夕陽に照らし出されたキラニン宮殿のサロンを思い出した。黄金色に光り輝く部屋。黄金色の少年。あのくそいまいましい、背徳者め。いやなことを思い出してしまった。
レオ少佐がくしゃみをした。リン中将は隣の席に目をやった。レオ少佐は姿勢一つ崩さず、能面のような顔で前方を見据えていた。陸軍司令本部の窓の灯りが、夜の海を行く船のように近付いてきた。この男はひょっとしたらアンドロイドなのかもしれない、と、リン中将はらしくないことを思った。
夜だというのに、司令本部は活気に満ちていた。人々は煌煌と照らし出されたフロアー内を飛びまわっていた。すれ違いざま肩を叩き合う者、ウインクする者。人々の靴音と喋り声が、ぶんぶんという唸りになっていた。
リン中将は皮張りの椅子に深々と腰をおろし、女性将校が入れた熱いコーヒーを啜った。
「けれど、大統領を殺しておしまいになるとは、思ってもみませんでしたわ」
女性将校の言葉に、リン中将は目を白黒させた。
「いや、それは……」彼は不愉快な言葉を口にしたくなかったので、途中まで言いかけて止めた。
「彼は殺されて当然です」女性将校は興奮した面持ちで言った。
リン中将はその言葉に軽く頷いた。
その頃、司令本部の地下室では尋問が行われていた。暗く湿った部屋の中に、例の男娼が強烈なライトを浴びて座っていた。汗に濡れた金髪が褐色をおび、額に張りついていた。が、これは緊張による汗でも恐怖による冷や汗でもなかった。彼は完全にリラックスしていた。ただ単に、ライトの熱が暑かったのだ。
レオ少佐は幾度となく繰り返した質問をまたしてみた。
「君は何故、大統領を殺したのだ」
美しい青年は ―汗に濡れ、髪は乱れ、服は裂けていたが、レオ少佐はこの青年を大変美しいと思った― 気の抜けた調子で、同じ事を答えた。
「ただ、なんとなく。あんまり風が心地よかったので」
「ふざけるな」傍らのロン軍曹が青年の胸ぐらを掴んだ。
が、いつものように殴ることはしなかった。鬼軍曹と恐れられるこのいかつい男でさえ、彼の顔に傷をつけるのには躊躇していた。絹のゆったりとしたアイボリーのブラウスが、やけに似合っていた。ほっそりとした柔軟な姿態。流れるブロンドの髪。彫りの深い灰緑色の瞳。そういえば、昔聖堂の壁画で見たことがある。まるで天使のような。
レオ少佐は一瞬うっとりと見入ってしまった。が、すぐさま我に返った。カビ臭い地下室の湿気に、自分の任務を思い出したのだ。
「それでは、フランス文学かなにかだ。あんまり空が青かったので人を殺したという話が確かあったが」
ロン軍曹は天使のブラウスから手を離して振り返り、感心したふうに言った。「レオ少佐は、フランス文学を読んだりするのですか」
彼はゴリラに似ている、とレオ少佐は思った。
「自分は文学とかいうものには、まったく縁がないものでして」ゴリラが愛想笑いをしながら言った。
そりゃそうだろう、とレオ少佐は思ったが口に出しては言わなかった。
真夜中まで続いた尋問も、結局なんら得るところはなかった。彼は質問には全て答えた。なんの躊躇もなく。例の気の抜けた調子で。ただ、言っていることがどうも理解できなかった。何故、大統領を殺したのか。そこのところがさっぱりわからなかったのだ。
レオ少佐はひとまず今日の尋問を終えることにした。カメリア国には昔から古い諺がある。明日できることは明日やろう。
3
一夜明けると、カメリア国クーデターのニュースは世界中を駆け巡った。そもそもカメリア国はアジアの東に位置し、人口100万、これといった取り得もないちっぽけな国である。大半の人がこの国の名前さえ知らなかった。そこで、世界中を駆け巡ってはみたものの、このことを扱ったニュース番組は非常に少なかった。が、しかし、ことCIAにおいて事情は少々違っていた。
CIA長官は大統領からの電話をようやく切ることができた。
「ジョナサンを呼んでくれ」
ノックもそこそこに、黒のスーツに身を固めたジョナサンが長官室に入ってきた。極東地域担当のジョナサンは、まだ30代半ばの切れ者と評判の男だ。ストレートの黒髪に黒い瞳。頬に傷があるのは湾岸戦争での名誉の負傷という噂もあったが、本当のところはどうやら女性問題での痴情沙汰という説も一部には流れていた。
スペイン系の血をひくジョナサンは、七つの海を駆け巡る海賊というイメージがあった。彼の荒々しい怒声が、CIAの建物に響かぬ日はなかった。と、同時に、彼の完全主義は報告書の隅々にまで及び、彼の部下達は他の部署の2倍は働いているとぼやいていた。彼の恋人が自殺したのも、彼の完全主義の由縁であるという憶測も飛び交っていた。
「大統領からひどく叱られたよ」CIA長官は開口一番ぼやいた。
ジョナサンは大統領の名を聞いても眉一つ動かさなかった。
「天下のCIAがカメリア国のクーデターを全く察知できなかったとはなんたることだ、とね」
「もうしわけありません」ジョナサンは卑屈になるでもなく悪びれるでもなく、あっさりと言った。
カメリア国は戦略的にも経済的にも大した意味を持っていなかった。ひょっとしたら、CIA長官でさえこの国の名前を今の今まで知らなかったかもしれない。いや、それは誇張し過ぎだが、気にも留めていなかったことだけは確かだ。今回のこのちょっとした騒動は、ただ単に大統領のCIAに対するいやがらせだった。
ジョナサンは、早々に長官室を立ち去り、自分のオフィスへ戻ってきた。秘書のクラリスは、鬼の居ぬ間に身繕いに励んでいた。
「長官にしぼられました?」クリスは慌てて書類をばたばたと机の上に広げた。
「いつものことさ」
ジョナサンは秘書室を通り抜け、自室の扉を閉めた。窓辺に立ち、冷たくなった空気の中で僅かな葉を残す木々を見下ろした。カメリア国のクーデターは、実際彼にとっても寝耳に水であった。一体、J・Jは何をしていたのだ。ジョナサンは自分の部下の不甲斐なさに腹を立てた。J・Jをカメリア国へ潜入させたのは3ヶ月ほど前のことだ。教育機関を終えたばかりのJ・Jを実習がてらさして重要でないカメリア国へ送り込んだのだ。しかし、いくらペーペーとはいえ、何の兆候も掴めず未だにその後の連絡さえ入ってこないとは。あいつは落第だ。ジョナサンは怒りと共に、新米部下のことが心配になってきた。
戒厳令の敷かれたカメリア国の首都は、大した混乱もなく平穏を保っていた。陸軍指令本部の4階で、リン中将は満足気に朝のお茶を飲んでいた。南部で親フン大統領派のラオ国防長官が陸軍と小競り合いを起こしたがそれもすぐに鎮圧された。
民衆は平静を保っていた。彼らにはどうでもよかったのだ。フン大統領がカダ陸軍総帥に変わろうと、彼らの生活は何も変りはしないだろう。しかし、リン中将は、ちょっとした夢想家であったと言えよう。彼は真剣にこの国を変えるつもりで、クーデターを進めてきたのだ。富める者も貧しき物もいない、平和と愛に満ちた楽園。エデンの園を彼は夢に見ていたのだ。
「おはようございます、リン中将」レオ少佐がいつもと同じ顔で入ってきた。「例の大統領を撃った男ですが」
彼は数枚の書類をリン中将に渡した。取り調べ室で撮られた数枚の写真の中で、 金髪の青年は微笑みさえ浮かべていた。まったく、こいつはどういう神経をしているのだろう。リン中将は思わず書類を破り捨てたくなった。
「ミカエル・アンジュ。21才」レオ少佐は報告書を読みあげた。
「エンジェル? 天使だって?」
「いえ、アンジュです」
「どっちにしろ、ふざけた名前だ」
レオ少佐は報告書を読み続けた。ミカエルは裕福な貿易商人の家に生まれた。15才のときに両親が飛行機事故で死亡。彼は両親の残した遺産でそれなりに気ままに生きてきたようだ。
「いったい、なんだって男娼などやる必要があったのだろうか」リン中将は素朴な疑問を口にした。
それは何故大統領を殺したのかという質問と同じだ、とレオ少佐は思った。彼の行動の説明をつけようとすると、頭が混乱してくるだけなのだ。
「CIAとも他のあらゆる諜報機関とも接触を持った形跡はありません」
「では、一体何が目的なのだ。奴はなんと言っているのだ。英雄にでもなるつもりか」
レオ少佐はこの質問には即座に答えた。「ただ、風があんまり心地よかったので、と彼は言っています」
リン中将は一瞬口を開けたが、すぐに気を取り直した。
「西洋文明の退廃の縮図だな、彼は」
「はあ」レオ少佐が曖昧に言った。
「アメリカでは、国民の半数が精神病院へ行ったことがあると聞いている。病める若者だよ、西側文明の堕落者だ」リン中将は結論をくだした。「奴は精神病だ」
留置場は満員になっていた。旧政府高官とそれに付随する者達。例のサロンにいた娼婦達と男娼もいた。男娼ミカエルの隣の房には、あのとき「クーデターだわ」と呟いた娼婦がいた。
「ハロー」娼婦がミカエルに挨拶を送った。
ミカエルもにっこりと微笑んだ。「宮廷で、あまり見かけたことなかったけど」
「ええ、初めて宮廷へ行った日にあんなことになってしまって」娼婦が答えた。
「そりゃ、とんだ災難だね」ミカエルは他人事のように言った。
「とんだことをしたのは、あなただわ」
「そう?」ミカエルは肩を竦めた。
「私たち、これからどうなるのかしら」
「彼らは銃殺刑だね」ミカエルは旧政府高官の房を指さした。
「あなたは?」娼婦が訊ねた。
「僕も死刑だね」ミカエルはことも無げに言った。
死んで行く者が言うセリフではない、と彼女は思った。
「そうだわ、あなたの名前、聞いてなかったわ。私は、ジュディ。ジュディ・ジュノンよ」
「僕はミカエル。ミカエル・アンジュ」
男娼の声は甘い天使の呟きを思わせた。
4
総帥室は軍司令本部の最上階にあった。リン中将はエレベータを待つのももどかしく、非常階段をものすごい勢いで駆け上がった。
「おお、リン中将か」
カダ総帥の低い落ち着いた声とは対照的に、リン中将は甲高い声を張り上げた。
「いったい、どういうことなのですか」リン中将の片眼鏡はずり落ちそうになり、彼はそれを手で押え込んだ。
「どうしたのだね、リン中将」カダ総帥はびっくり仰天した。
「外国人商人どもを48時間以内に国外退去させるという指令が、あなたの名前で撤回されているのはどういうことなのですか」
「ああ、そのことか」カダ総帥は、何かとんでもないアクシデントが起こったのかと思っていたので、ほっとした。「その件に関してはバレ海軍総帥とも話し合ったのだが、多少様子を見ることにしたのだよ」
「しかし」
「いきなりの退去では、他の諸外国も黙ってはいないだろう。幸いにも、今のところ我々の新政府はどの国からも圧力を受けていない。内政が固まるまで、他国と揉め事は起こさないほうが良いだろうと判断したのだよ」
「しかし」
リン中将の言葉は、カダ総帥の言葉で遮られた。
「過去の方針をとりやめたわけではない。延期しただけだ。我々新政府が十分に軌道に乗るまで」
リン中将は3回めの「しかし」を言おうとした。が、カダ総帥はもうその話は打ち切りだというふうに話を変えた。
「ところで、例の大統領を撃った男の件だが」
リン中将は、なんのためのクーデターだ、と腹の中で叫んでいた。
「まずいね、彼は」
「まずいと言うと?」リン中将は鸚鵡返しに訊ねた。
「大変まずいことだ。このクーデターの引き金を引いた男が、いかれた精神錯乱者の男娼だと言われるのははなはだ遺憾だからね」
「ごもっともです」リン中将は軍人らしく答えた。
「彼を抹殺してくれたまえ。このことは、闇から闇へ葬りたいのだよ。あの場に居合わせた者も全て」
「あの娼婦達もですか」
「そう、1人残らず」
「わかりました」
リン中将は敬礼すると、両の踵をカチッと合わせた。くるりと180度回転して、総帥室を後にした。
エレベータまでの長い廊下を、リン中将は何か釈然としないものを感じながら、重い足取りで歩いた。ちょうどエレベータが上がってきたところで、リン中将は物思いにふけりながら乗り込んだ。すれ違いざま、一人の男が降りた。閉まっていくドアを見ながら、リン中将は遅れ馳せながら、はたと、今の男に気が付いた。彼は外国商人達の中でも最も裕福な、いわば彼らの取り締まり元とでも言うべき、インド商人のモハメッドであった。フン大統領と組んで、甘い汁を吸い続けてきた男だ。さっそく鞍替えしたわけか。ブルータスお前もか。カダ総帥、あなたもですか。そう思いたくはなかった。
リン中将は、処刑執行書類に次々とサインした。ミカエル・アンジュ。大天使ミカエルか。彼は最後の一枚を書き終えた。
「レオ少佐」彼は一番の腹心の部下を呼んだ。
「はい、リン中将」
レオ少佐の機械的な声が、何故かリン中将をほっとさせた。自分は人間不信に陥っているのかもしれない。リン中将はやたらと疲れを感じた。
「明朝、旧政府高官の処刑と共に、こいつも始末してくれ」
「娼婦達もですか」レオ少佐は書類をめくりながら、訊ねた。
「そうだ。女子供を殺すのは気が進まないが致し方ない。ところで、このキラニン宮殿の警備を増やすという報告書は、どういうことなのだ」
「はい、20名ほど増員します」
「だから、どういうわけででだ」
「明日にも、カダ総帥の奥様とお嬢様達が宮殿にお移りになりますので」
「なんだって、あそこに住もうというつもりなのか、総帥は」リン中将は呆れ返って、宙返りでもしたい気分になった。
「そのようです」レオ少佐も珍しくその顔に非難の色を浮かべていた。
午後も遅くなると、キラの町は冷たい雨に濡れて煙っていた。カダ総帥は、リン中将からキラニン宮殿使用に関する不平を並べ立てられて、いらいらしていた。
雨よりも鬱陶しい男だ。カダ総帥はブランディー入りの紅茶を飲みながらそう思った。このクーデターの成功はリン中将に負うところ大であった。彼は人望が厚かった。ことこの陸軍においては、彼への信頼は絶大であった。何故かといえば、理由は簡単。彼は決して人を裏切らなかった。部下に対しても自分に対しても、決してごまかしたりしなかった。彼は根っからの軍人気質だ。しかし、彼は政治には向いていない。全くのところ、クーデターの成功した今となっては、はっきり言って邪魔である。くだらない理想論を振り回すとは。
「カダ総帥、お呼びでしょうか」
レオ少佐がきりっとした敬礼と共に、目の前に立っていた。カダ総帥は、密やかな声でレオ少佐を傍らに招いた。
「君に内密に相談があるのだが」
司令本部は夜になって、人影もまばらになっていた。資料室はひんやりとしてかび臭かった。レオ少佐は一束の書類を棚に戻した。微かに埃が舞い上がった。
レオ少佐は困惑していた。カダ総帥の話は途方もなく目茶苦茶なものだった。リン中将が密かに米国と通じて、この新政府転覆を企てているというのだ。つまり、このクーデターに乗じて、逆クーデターを起こそうとしているというのだ。
カダ総帥は最後にこう付け加えた。「彼は目の上のコブであるわけだ、私にとっても、君にとっても」
そして、リン中将なき後、君がその座に就くことになるだろうと。
実際、リン中将がそんなことをするなんて、最も有りそうにないことであった。しかし、どんなにとんでもないことでも、総帥の命令に背くことはできないのだ。それが、軍隊の掟というものだ。レオ少佐は、帰り際のリン中将の背中を思い出していた。明日にも逮捕状が出されるだろう。
レオ少佐は、留置場のある地下へと降りて行った。守衛はうとうとと居眠りをしていたが、レオ少佐の靴音にはっと起き上がり、姿勢を正した。
「一人、尋問室の方へ移したいのだが」レオ少佐は寝ぼけまなこの男に言った。
守衛は鍵をガチャガチャいわせて、左右に鉄格子のはまった廊下を歩いて行った。奥の房に目指す彼女がいた。隣の房では、ミカエルが天使のような寝顔で、安らかな寝息をたてていた。ジュディ・ジュノンは眠ってはいなかった。
尋問室に連れてこられた彼女は、狐に包まれた気分でいた。いったい、なんだってこんな夜に、たかが娼婦を尋問室などに。吊り下げられた裸電球に照らされ、レオ少佐の顔はくっきりと陰影を刻んでいた。
「さて、娼婦君」レオ少佐は、密やかな声で話を進めた。「君は、明日の朝処刑されることになった」
テーブルを挟んで座っているジュディの顔が一気に恐怖で歪んだ。「なんですって、いったいまた、どうして」
「君が大統領射殺の場に居合わせてしまったからだよ」
「ミカエルが大統領を殺ったことが世間に知れるとまずいってわけ?」
「さすがCIA。飲み込みが早い」
ジュディの顔は、蒼白になった。
レオ少佐は淡々と話を続けた。「どうせ明日には処刑されるのだ。今更否定する必要はない」
ジュディは頑固に首を振った。「いいえ、なんの間違いか知らないけれど、わたしはそんなものとは無関係よ」
「君がCIAであることは私しか知らない。君は娼婦などではない」レオ少佐は突然ジュディの手首を掴むと、真剣な眼差しで語りかけた。「CIAとしての君に、頼みがあるのだ」
これは新手の誘導尋問なのだろうか。ジュディ・ジュノン、通称J・Jは判断を下しかねた。
「必ず君を脱出させるから」
ジュディは、レオ少佐の気迫に押された。どうせ明日は処刑される身なのだ。いちかばちかこの男を信じてみようか。
「いいわ、話を聞くわ」
ジュディは黒髪のボス、ジョナサンの顔を思い浮かべた。お前は落第だ、能なし野郎。帰ったらさんざん叱り飛ばされるだろう。もしも、帰りつけたらの話だが。ジュディはあの建物を揺るがすような怒声が無性に懐かしかった。
5
靄に煙った朝が明けた。コンクリートの敷き詰められた町の中央広場に、軍の靴音が響き渡った。銃を担いだ灰色の兵隊達の前には、3本の木の柱が等間隔に並んでいた。
最初の一団が縄に縛られ、2列に並んだ軍服の間を追い立てられながら歩いた。旧政府高官はこの後に及んでもあきらめきれず、「お願いだ、やめてくれ」と叫び続けていた。静まり返った朝の空気の中で、その妙に甲高い声だけがうつろに響いていた。
リン中将は、右手を上げた。銃口が一斉に前に向けられた。振り下ろされた手の動きと共に、けたたましい銃声が続けざまに起こった。硝煙がたち込め、靄と相俟って全てがぼんやりと霞んだ。空気の流れの後に、3つの死体が残された。一言の言葉も発せらられなかった。兵士が速やかに死体を運び去った。そしてまた、彼らは次の一団を迎え入れた。
広場の横の衛兵所で、男娼ミカエルとJ・Jは自分達の順番を待っていた。J・Jは昨夜の会見を思い出して多少の希望を持っていたものの、残された人々の数が少なくなるにつれて、不安と恐怖に体中が震えた。銃声がまた一斉に轟いた。J・Jはカタカタと鳴る歯の隙間から、声を漏らした。
「ああ、また射殺された」ミカエルは平静に言った。「娼婦さん、泣かないで。まだ当分あなたの番ではありません」
J・Jはいつの間にか涙を流していた。
「なんだて、あなた、こんなときに冷静でいられるの。自分が死ぬってときに」J・Jはヒステリックに叫んだ。
新たな一団がまた連れ去られようとしていた。
「さあ、立て」
灰色の軍服に引っ立てられて、また数人が外へと連れ去られた。恐怖に叫び続ける者、声も出さずに引き摺られて行く者。
「ああ、大統領を暗殺したあなたですもの。並みの神経ではないわよね」J・Jはいよいよ神経が高ぶって、泣き声を出していた。
「僕は」ミカエルは澄んだ灰緑色の瞳を真っ直ぐに向けた。「僕は、始めから人生を生きていないだけなんだ。僕は信じていないだけなんだ。友情や愛情や神の存在を」
J・Jはこの天使のような端正な顔立ちの青年をポカンと見た。
その頃、レオ少佐は一枚の命令書を懐に携え、町の中央広場へと向かっていた。カダ総帥の署名入り、リン中将の逮捕状である。町はひっそりと静まり返っていた。民衆は家の中にこもっていた。まるで自分達には関係のないことだというように。ジープのエンジン音が響いた。リン中将の足元には、機関銃やら手榴弾が毛布に包まれていた。
「おい、お前の番だ」
突然、灰色の軍服がミカエルの横に立った。
「そら来た」ミカエルは銀行で番号札を呼び上げられた人のように答えた。「じゃあね」
手まで振って挨拶した。別れの挨拶だというのに。自分自身との。J・Jは自分の置かれている境遇も忘れ、唖然としていた。
ミカエルは堂々と死刑台への道を歩いていた。横を歩く兵隊達も役目がないというふうに、彼は一人で歩いていた。リン中将は、とうとうこいつの番かと、じっとミカエルを見つめた。ミカエルは黄金の髪をなびかせて木の柱の前に立った。死刑執行人達も彼の美しさに見いった。兵士が、その見開かれた灰緑色の瞳に目隠しをした。
リン中将は手を上げようとした。と、そのとき、この比類なき美しさを持つ青年の口から音楽のような声が響き渡った。リン中将は右手を上げそこなった。
「荒野で」ミカエルは凛とした声を響かせた。「荒野で呼ばわる者の声がする。『主の道を備えよ。その道をまっ直ぐにせよ。すべての谷は埋められ、すべての山と丘は平にされ、曲がったところはまっ直ぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救いをみるであろう』」
静寂が広場をよぎった。
「何を言っているのですか」リン中将の傍らに立つ将校が訊ねた。
「聖書だよ」リン中将は苦々しく言った。「ふん、神など信じとらんくせに」
彼は大きく右手を上げた。一体、何を考えているのだ、この堕天使は。
「構え!」
リン中将は叫んだ。銃口が一斉に向けられた。
「CHRIST!」ミカエルは叫んだ。
そのとき、レオ少佐の声が広場にこだました。「リン中将、たった今、あなたの逮捕状が出されました」
全ての目が、ジープから降りるレオ少佐に向けられた。
「どういうことだ、レオ少佐」
レオ少佐が、リン中将のほうへ向かって歩いてきた。
「西側と通じていたという容疑です」レオ少佐は命令書を右手にかざした。
「何を馬鹿な」リン中将は、真っ青な顔をひきつらせて怒りの声をあげた。
「車に乗ってください」レオ少佐は事務的に言った。
周囲の兵隊達は唖然としていた。リン中将がそんなことをするわけがないということは、彼らにもわかっていた。
「さあ、早く」
リン中将はレオ少佐をきっと睨んだ。が、彼は根っからの軍人だ。どんな命令にも背くことはできなかった。たとえそれがカダ総帥の陰謀であるとわかっていても。
ほんの2・30歩の距離にエンジンのかかったジープが停まっていた。ピストルを背中に突きつけられ、リン中将はゆっくりと歩いた。ピストルを構えて歩くレオ少佐が、リン中将の耳元で囁いた。
「リン中将、突破しましょう」
リン中将は驚いて振り返った。
「西側へ亡命するのですよ」
レオ少佐はリン中将を座席に押し込むと、自分も運転席に飛び乗ってジープを発進させた。
「しっかり、つかまって」
ジープが唖然と立ち尽くす兵士達を蹴散らかした。困惑する兵士達の中から、例の娼婦、いや、J・Jが、広場に踊り出た。レオ少佐はA級ドライバー並のテクニックで車を急回転させた。J・Jは後部座席に飛び乗った。
「おみごと、レオ少佐」J・Jは感謝の気持ちをアンドロイドに伝えた。
「どういたしまして」レオ少佐はハンドルをきりながら答えた。
リン中将は訳が分からず、必死にジープにしがみついていた。
「ねえ、あそこにいる、あの死にぞこないも連れていきましょうよ」
金髪青年は目隠しをされたまま突っ立っていた。
「お嬢さん、重たくなると速度も鈍るのです」
レオ少佐が珍しく冗談めいたことを言った。この非常時に。リン中将はすっかり面食らっていた。
「弾除けぐらいにはなるわ」
レオ少佐はスピードを緩めた。
「へい、坊や。お乗りなさい」J・Jは両手を後ろに縛られた天使を、丸太を扱うように車の中へ引き擦り込んだ。「O・K。乗ったわよ」
「了解」
「レオ少佐、気でも狂ったか」我に返った将校達が叫んだ。
「撃ち殺せ」
「反逆罪だ。西側のスパイだ」
命令を受けて、一斉に銃声が響き渡った。兵士達はジープを追いかけて走った。CIAのひよっこJ・Jも拳銃を片手に応戦した。ジープはたちまちスピードをあげると、国境へ向かって疾走した。
6
国境間近の林道を、風変りな取り合わせの4人組を乗せた車が快適に飛ばしていた。
「命拾いしたわね、男娼さん」J・Jは金髪の絡まった縄をほどいてあげた。「神は自ら助くる者を助くだわ」
ミカエルは赤くなった手首を摩った。豊かな黄金の巻き毛が風になびいた。
「ねえ、あなた、最後の土壇場でキリストを呼んだのよ」J・Jは彼の顔を覗き込んだ。
疾風で声が途切れ途切れに流れた。
「どう、生きれそう?」
ミカエルは微笑んだように見えた。リン中将は青ざめた顔を引きつらせながら、後部座席の得体の知れない2人組に声を送った。
「君達はいったい何者だ」
「救世主だよ」ミカエルは例のごとく人を煙に巻いた返事をした。
「貴様は、能無しだ」
「おじさんは、お人好しの間抜けだ」
「この、西側文明の廃棄物め」リン中将は後部座席に乗り出して、くってかかった。
まるで子供の喧嘩だ、とレオ少佐は思った。
「彼女はCIAの諜報部員です、リン中将」
レオ少佐は前方を見ながら、安全運転を心掛けていた。かなりのスピード違反ではあったが。
「CIAだって?」リン中将は叫びまくった。「レオ少佐、貴様もスパイか。なんたることだ、国を売ったのか」
「おじさんは、その愛すべき祖国にお払い箱にされたんだよ」
リン中将がまた喧嘩を始める前に、レオ少佐は話を続けた。
「私は、彼女に頼んだだけです。リン中将を逃亡させる手筈を整えてくれと」
「国境まで行けば、CIAが待っています」J・Jは言った。
「他に方法がなかったのです」レオ少佐は苦し気に言った。
リン中将にもそれはわかっていた。自分の置かれている立場と、自分のためにレオ少佐が置かれてしまった立場とを。
国境では、黒髪のジョナサンが3人の部下と共に無能な部下の到着を待ち構えていた。朝方、ジョナサンはCIA本部からの電話で叩き起こされた。彼は低血圧のため非常に機嫌が悪かった。J・Jから連絡が入ったというその電話に、朦朧として答えた。
「なんでも、カメリア国の軍部のお偉いさんを一人、亡命させてくれということだ」
「なにを言っているのだ。J・Jは。寝ぼけているのか?」寝ぼけているのは自分だ、と、ジョナサンは思った。
「彼女は逮捕され、明日には処刑されるらしい。しかし、彼女はなんとか脱出できる見込みがあると言うのだ」
「そのお偉いさんの亡命と引き換えにか」
ジョナサンは早くブラック・コーヒーを飲んでしゃきっとしたかった。
「そういうこと。国境まで迎に来てくれということだ」
「よし、わかった。飛行機の手配を頼む」
ジョナサンは落ち合う時間と場所を打ち合わせた。受話器を置くと、ため息を吐いた。いったい、J・Jは何をやらかしたのだ。逮捕に処刑だって? どうしたら、そんなとんでもないめに会えるというのだ。ジョナサンは電話を置くと、急いで支度に取りかかった。
そして、今こうして寒さに耐えながら、僅かな窪地で無能な部下を待っていた。傍らにはヘリコプター2台が発進の準備を整えていた。鳥の囀りの合間に、微かな車の音が聞こえてきた。
「ジープのようだ」ジョナサンは目を細め、曲がりくねった林道の彼方を眺めた。
「一台だけのようです」部下の一人が遠くを指差した。
微かな砂塵が舞いあがりながら近付いてきた。
「追手はいません」部下達はほっと安堵の溜息を吐いた。
ここでドンパチ銃撃戦をやる気はさらさらなかった。国際世論のやかましいこの時代に、国際問題を引き起こすわけにはいかない。もしもそういう事態に置かれた場合、彼らは速やかに引き上げることになっていた。
近付いてくる国境と人影の中に、J・Jは長い黒髪を見とめた。ジョナサン自らお出ましとは。
「彼らが君の仲間かい」レオ少佐が向かい風に怒鳴った。
「ええ、そうよ。彼らよ」
J・Jは体中の力が一気に抜けて行くのを感じた。もう、大丈夫。これで安心だ。懐かしい頬の傷がはっきりと見えた。レオ少佐は急ブレーキをかけ、車は止まった。
「ようこそ」ジョナサンは一応愛想よく右手を差し出した。
リン中将は苦虫を噛み潰した顔で、差し出された手を見ていた。ミカエルがその赤銅色の手を白い細い指で握り返した。
「よろしく、CIAさん」
明るい日の光のもとで、ミカエルは一層輝いて見えた。ジョナサンはJ・Jを睨み付けた。いったい、こいつはなんだ。ジョナサンの目はそう語っていた。J・Jはジョナサンの怒声が飛んでくる前に、急いでまくしたてた。
「えっと、こちらがリン中将にレオ少佐です」
「J・J」
「彼は、ミカエルです」J・Jは笑ってごまかそうとした。
一本道の彼方にもうもうとした砂煙が舞い上がった。
「追手が来たようです」部下の一人がすかさずそれを見つけた。「かなりの数です」
双眼鏡を手にしたジョナサンが叫んだ。「さあ、早くヘリコプターへ」
全員が2台のヘリコプターに駆け寄った。レオ少佐が、躊躇しているリン中将をヘリコプターへ押し込んだ。その横にミカエルが飛び乗った。そして、退こうとするレオ少佐の腕を、ミカエルがしっかりと掴んだ。
「残って死ぬ気なの」
「私は、よいのですよ」レオ少佐は淡々と言った。
一個師団の轟きが騒音となって迫ってきていた。
「飛ばせ」ジョナサンが叫んだ。
プロペラが急回転し、2台のヘリコプターが地上を離れた。ミカエルはレオ少佐の腕を離さなかった。このなまっちろい体のどこにそんな力があったのか。
「離してくれ、君も落ちるぞ」
レオ少佐の右の踵は地面を離れ、宙吊り状態になりかけていた。リン中将が身を乗り出し、たくましい2本の腕でレオ少佐の軍服を掴んだ。2人は満身の力を込めた。レオ少佐の体はヘリコプターの中に引き摺り込まれた。ヘリコプターは勢いよく大空に向かって舞い上がった。抜けるような青空へ向かって。
カメリア国の軍隊は、点になっていくヘリコプターを見上げた。カダ総帥と2・3の司令官達は、無駄に鉄砲を空に向けて撃った。兵士の一人がそっとその軍帽を持ち上げた。他の兵士達も同様に帽子を持ち上げ、去って行くリン中将とレオ少佐に別れを告げた。
隣国の軍用空港からチャーター機に乗り換え、例の4人組みはアメリカ中西部の空軍基地に降り立った。のどかな山間の静けさが、近代的な空軍施設と調和していた。眼下には小川が流れ、木々は黄金に色付いていた。遠くの山々は、真っ白な雪を頂いていた。ミカエルはタラップを軽やかに降りた。
「ああ、とてもいい風が吹いているね」
ミカエルは両手を広げて、風に向かい合った。シルクのブラウスが風を孕んでパタパタと音をたてた。
「自由の風だ」ジョナサンが、たばこの煙を燻らせながら言った。
「はずれ」
「はずれだとさ」リン中将が後ろを振り返って、ジョナサンにその言葉を伝えた。
「……」ジョナサンは、まだ彼らのテンポについていけなかった。
レオ少佐がクスッと笑った。ミカエルは右手を差し出した。風に触れるように。
「この風はね、生きる活力となる風だ」
J・Jは彼の言うことがいくらかわかる気がした。
「つまりね、生活の風なんだ」
「そうだ、貴様に必要なのは生活することだ」リン中将は指を突き出して、ミカエルの胸元を指差した。「規則正しい生活を。折り目正しい人生をだ」
その夜、ジョナサンはがぶ飲みしたコーヒーのせいで夕食に殆ど手を付けなかった。それでも彼はまた、夕食後のコーヒーを啜っていた。熱いブラック・コーヒーと煙草が自分の構成要素だと、ジョナサンは自覚していた。
「体に悪いことばかりですよ」
J・Jの言葉にジョナサンは肩を竦めた。「人生たかだか50年」
ジョナサンは少しばかり夜風を入れようと、重たいカーテンをひいて、窓を開けた。窓の外には星が降っていた。
ハレー彗星が接近していたというわけではなかった。裏庭の芝生の上に座り込んで顔を真上に向けたミカエルには、その言葉がぴったりに思えたのだ。いや、星が落ちてくるというより、自分が吸い込まれて行くという感じ。ミカエルは呆けたように口を開けて、夜空を見上げた。
「あんな薄着で、風邪をひくだろうに」レオ少佐は窓辺の張り出しから外を見た。
「馬鹿は風邪をひかない」リン中将はすっかり身支度を整えて、ベッドに潜り込んでいた。「毛布を持って行ってやればいい」
そう言うと、リン中将はもう目を閉じていた。
7
再び、CIA本部。秘書のクリスはいつものように鏡と睨めっこをしていた。勢いよく開いたドアから、予想に反して金髪の巻き毛青年がスキップしながら入ってきた。男? 女?
「なによ、あんた」自分より美しい者は、彼女には許せなかった。
「口の利き方を知らんところは、おまえさんと同じだ」口髭を生やした古式然とした時代の遺物が通り過ぎた。
「ジョナサンにここで待つように言われたのです」機械的な声音で無表情な男性が通り過ぎた。
クリスは、目の前を通り抜ける珍客達を、テニスコートのボールを見るように追い掛けた。
「クリス、お久しぶり」J・Jが手を振って、行列の最後尾を占めた。
「J・J。あんた、いったい何をやらかしたの。この2・3日ジョナサンが怒鳴りまくっていたのはあんたのせいでしょう」
「その話はまたあとで」
J・Jは急いでドアを閉めた。部屋の中はいかにもジョナサンらしくきちんと整理整頓されていた。ミカエルは何やら戸棚をガタガタ開けて、書類の影からブランデーと4つのグラスを取り出した。
「まあ、ミカエル」
ジョナサンがそんなところに酒を潜ませているとは、J・Jも知らなかった。
「これは乾杯用だよ」ミカエルは琥珀色の液体をグラスに注いだ。
「楽天主義者め」リン中将はそう言いながらも、グラスを受け取った。
「そう、我々の運命はどうなるかわからないのですよ」レオ少佐が言った。
「悲観主義になる必要はないわ」J・Jは琥珀色の液体の匂いをかいだ。
ミカエルはグラスを天に翳した。「乾杯」
レオ少佐も、J・Jも、リン中将も、なんだかにっこりとしてしまい、その魔法の水を口に含んだ。
「まったく、気楽な奴らだ」
いつの間にか、ジョナサンが戸口に立っていた。ツカツカと部屋の中央を横切り、窓を背にした椅子に深々と腰を下ろした。
「おじさんも、どうぞ」ミカエルは日に透けて輝くブランデー・グラスを机の上に置いた。
リン中将と俺が同じおじさんか。ジョナサンは鏡を覗く必要性を感じた。
「どうなりました、ジョナサン」レオ少佐が切り出した。
「亡命は許可された」ジョナサンは煙草に火をつけた。
「全員?」J・Jははっと息を呑んだ。「ミカエルも?」
「そう」ジョナサンは答えた。
人生は全て夢のようなものだ、とリン中将は思った。昨日までの出来ごとは、もはや存在しない。それは記憶の中にしか残されていない。そして、その記憶も時と共に薄れ、全てが不確かなものとなっていくだけだ。少しばかり長生きをし過ぎたのだろうか。こんなことを考えるようになったとは。
ミカエルはボトルを持って、皆のグラスに酒を注ぎ足した。歓喜の声は上がらなかったが、J・Jは皆に「おめでとう」を言った。リン中将はジョナサンに「ありがとう」を言った。ミカエルはJ・Jとグラスをぶつけ合った。レオ少佐は、深々と礼をした。
それから、しばらくして、ワシントンに初雪が舞い降りた頃。J・Jは町角で彼らを見かけた。町はクリスマスを迎える準備を始めていた。J・Jは一日中山のような書類と格闘した後で、疲れた頭と体と買い物袋を下げて、スーパーからでてきたところであった。大きな買い物袋を抱えたレオ少佐とリン中将の間を、ミカエルは軽やかに飛びながら、前を行ったり後ろを行ったりしていた。ミカエルの真っ白なマントの上に、白い雪が次々に降り続いていた。
「ミカエル」J・Jは叫んだ。
彼らの姿は曲がり角の向こうに消えた。J・Jは小走りにその角までやってきた。帰り道を急ぐ人々の中に、彼らの姿はもはや見つからなかった。J・Jはしばらくの間、雑踏をぼんやりと見つめていた。