ドクトルさんと喧嘩
「ケントさん。今日は喧嘩をしましょう」
「ああ、分かった」
とある日。いつものように顔を突き合わせて朝食を取っていると、ドクトルが本日の予定を宣言した。
毎度毎度のことなので健人も反射的に返事をしてしまったのだが、ふと違和感を抱いたためパンを口に運ぶ動作がピタリと止まる。
ケンカ? はて、今までそんな作業をやったことあったかな? などと思考を巡らせているうちにも、ようやく彼女の言葉が喧嘩を意味していることに気づいた。
「え、喧嘩? 喧嘩って、その……仲の悪くなった二人が争ったり口論したりすること……だよね?」
「はい、その喧嘩です」
「……どゆこと?」
意味は分かっても、意義が理解できない。
唖然としたままドクトルを見つめていると、彼女は得意げに答えた。
「先日、街で治療している時に、とある主婦の方からお話を聞いたんです。うちの旦那と喧嘩をしてしまって、少々うんざりしている、と。ですが次に会った時は仲直りしたらしく、むしろ以前よりかなり仲良くなってたみたいなんです。惚気話を聞かされるこちらとしては、それはもう大変でしたよ」
「はあ」
「そしてこんなことわざがあることも聞きました。喧嘩するほど仲が良い、と」
「ほお」
「だからケントさん、私と喧嘩しましょう」
「……んん?」
今の話でどうして最後の一言に繋がるのかが理解できず、健人は首を捻った。
っていうかむしろ、その言い方だと雨降って地固まるの方が正しいんじゃないか? 喧嘩するほど仲が良いというのは、仲が良ければ喧嘩くらいするって意味だし。いやもちろん、そこが主題ではないので指摘はしないが。
とそこで、健人はようやくドクトルの意図を理解した。同時に、普段からかわれているお返しだと言わんばかりに、彼はニタニタと表情を緩ませながら言う。
「ふーん。ってことは、ドクトルさんは俺と仲良くなりたいってわけか」
「……? ええ、そうですよ。当たり前じゃないですか。私はもっとケントさんと仲良しになりたいんです」
「お、おう」
きょとんとしながら言うドクトルに、健人の方が逆に照れてしまった。面と向かってあなたと仲良くなりたいとか、嬉しすぎて先ほどとは別の意味でニヤニヤしたくなる。
恥ずかしさを誤魔化すため、咳払いした健人はおもむろに天井を見上げた。
「っていっても、ドクトルさんと喧嘩かぁ。また難しい注文をするなぁ」
「やっぱり難しいですよね。私もケントさんと喧嘩している姿が想像できません」
ドクトルもまた目を閉じて悩み始める。
「昔はたまにですが、弟と喧嘩をしたこともありました。でも姉という立場なので、どうしても弟を叱る意味での喧嘩が多くなっていたような気がします。対等の喧嘩をしたという記憶は無いんですよね」
「俺は友達と何回かあるけどな」
「え、そうなんですか? 参考までに教えてください」
「言っても、小学校の時に取っ組み合いの喧嘩をしただけだよ。罵り合いはバカとかアホとか低レベルなやつ。だからといって、ドクトルさんとは殴り合いの喧嘩なんてしたくないしなぁ」
そもそも成立しそうにない。
女の子を殴る拳は持ち合わせていない以前に、ドクトルを殴った痛みの大部分は、おそらく自分に返ってくるのだ。そんなものは喧嘩とは呼べない。
「男女間の喧嘩って……どうやるんでしょうね?」
「安易に言えば、相手の悪い所や気に入らないところを言い合って、お互いの気分を害すれば始まるんじゃないかな?」
「悪い所、ですか」
ドクトルが健人の全身をじっくりと観察し始めた。
そしてしばらくした後、はっきりと宣言する。
「無いですね」
「早くも企画倒れじゃねえか」
「あ、しいて言えばそういうところですかね。たまに私の知らない言葉を使うところ」
「うっ……以後気を付けます」
「謝ったら喧嘩にならないじゃないですか!」
確かにその通りだ。相手の主張を受け入れてしまっては、喧嘩に発展しない。
「ではケントさんも私の悪い所を指摘してください」
「無い!」
「もっと考えてくださいよ……」
頭を抱えたドクトルが、呆れたようにため息を吐いた。
「悪い所じゃなくて、ダメなところはあるけどな」
「ほうほう。どこですか?」
「可愛すぎて俺がダメになりそう!」
「かわ……」
突然の攻撃に顔を赤らめたドクトルが委縮してしまった。そして顔を伏せながら「以後気を付けます」と呟く始末。何を気を付けるのか分からないし、そもそも健人としてはそのまま可愛くても全然問題ないのだが。
話が逸れそうになったところで、早くも二人の間に諦めムードが漂い始めた。
ドクトルが落ち込みながらぽつりと漏らす。
「やっぱり私たちはまだ喧嘩ができるほど仲が良いわけではないのですね……」
「いやでも、喧嘩なんて無理やりやるようなことじゃないよ。普通に生活してれば、お互いの譲れないところがそのうち出てくるはず。そうすりゃ、自然と喧嘩できるようになるさ」
「そ、そうですよね」
決して今の仲が悪いわけではないと諭され、ドクトルは安堵したようだった。
しかし次の瞬間、彼女は自らのお腹をさすりながら衝撃的な一言を宣った。
「私もいつか、ケントさんと喧嘩できるくらい仲良くなりたいです。いずれケントさんとの子供も欲しいですし……」
「ブハッ!?」
あまりに唐突な発言に、健人は危うくミルクを吐きそうになった。
急に何を言い出すんだという目でドクトルを凝視するも、絶句した口からは言葉を紡ぎ出せそうにない。
「えっ……ケントさん。どうしてそんなに驚いているんですか?」
「い、いやいやいや。ドクトルさんが子供が欲しいなんて言うから!」
「将来的に、ですよ。仲の良い夫婦には子供が授かるものでしょう?」
「俺たち夫婦だったの!?」
「あ、いえ、すみません。夫婦ではないですが、同じ家に住んでいるのですから夫婦のようなものと認識していました。もしかしてケントさんは……イヤでしたか?」
「そんなことない! 全然いいよ! むしろ嬉しいんだけどさ……」
まさかドクトルは、自分たちの関係をすでに夫婦のようなものだと捉えていただなんて……。気づけなかった罪悪感を抱くのと同時に、健人も自分の考えを改めなければいけないなと決心した。
すると突然、ドクトルが難問を前にしたように眉間に皺を寄せる。
「でも、分からないんですよね。どの程度夫婦仲が良くなれば子供ができるのでしょう。それに独身の女性が妊娠する場合もありますし……」
「ん? どういうこと?」
「どのようにして子供を授かるのか、疑問に思っているのです」
今度はミルクどころではなく眼球が飛び出るかと思った。
まさかの波乱に内心は取り乱しつつも、外面は冷静を装って問い返す。
「もしかしてドクトルさんは……どうやって子供ができるのか知らないの?」
「はい、知りません」
からかっている様子はない。ドクトルはいたって真面目な顔をしていた。
「言っとくけど、キャベツ畑やコウノトリじゃあないからね?」
「キャベツ畑? こうのとり? ……もしかして、子供は神様が与えるものだという逸話みたいなものですかね? そんなことは分かっています。私だって白魔導士の端くれ。過去に三度ほど、助産師として出産に立ち会ったこともありますから」
ええええええええええええ!!!!
出産に立ち会ったことがあるのに、子供の作り方は知らない……だと!?
頭の中は驚愕の絶叫で埋め尽くされ、健人は言葉を失ってしまった。
「私が知らないのは、どうやって子供が生まれてくるかではなく、どのようにして女性のお腹に子供が宿るかなんです。それこそ神様が夫婦仲を良しと認定して、子供を授けるわけではないんですよね?」
「ま、まあ、そうだけど……」
「なら本当に不思議です。口づけではお腹に子供ができる因果関係がありませんし……すでにケントさんとの間に子供ができていてもおかしくはありません。仲の良い夫婦にはできやすくて、未婚の女性や夫婦仲が険悪でもできないことはない。うーん……世の夫婦はどのようにして子供を作っているのでしょう?」
「…………」
真剣に悩み始めるドクトルを前に、健人は目を泳がせてしまった。
しかし動揺が顔に現れてしまったのはマズかったようだ。健人の些細な変化を見逃さなかったドクトルが、鋭利な矛先を向けてくる。
「というか、その口ぶりだとケントさんは知っているんですよね?」
「うん、まあ、知ってるといえば知ってるんだけど……」
「教えてください!」
興味津々にテーブルを乗り出してきたドクトルの瞳は、キラキラと輝いていた。
彼女の求めることは一から十まできっちりと応えてやりたい。応えてやりたいのだが……話題が話題だけに気恥ずかしく、健人も妙に委縮してしまう。
「えっと、そのですね……雄しべと雌しべが、なんていうか……」
「え、なんですって? 全然聞こえないんですけど」
ちょっとばかり高圧的な態度に、さすがの健人も吹っ切れた。
顔を真っ赤に染めながら、指で簡単なジェスチャーを作って叫びだす。
「だからさ! 男性器を女性器の中に……あっ」
説明しようとしたところで、唐突に気づいた。
「もしかしてドクトルさんは……男性器って見たことない?」
「何を言ってるんですか? あるに決まっています」
「あ、あるんだ……」
何故かショックを受ける健人。
ただ彼が落ち込む理由を、ドクトルは理解していないようだった。
「先ほども言いましたけど、私は白魔導士ですからね? 怪我を治す際に服を脱がすのはよくあることです。特に戦争で傷ついた兵士ばかりの野戦病院ですと、どこに怪我を負っているのか判りづらいですからね。それに弟もいましたし」
「お、おう……」
そうだ。医者にとって、それは当たり前のことだった。
彼女が特定の男性と深い関係があったわけじゃないと知り、健人は露骨に安堵する。ただ彼の気持ちとは反比例して、今度はドクトルの方が深く俯いてしまった。
「そういえば思い出しました。これまた不思議なことなんですが、私、入院患者の……特に男性の下のお世話をしたことがないんですよね」
「どういうこと?」
「私にも分かりません。ですが他の白魔導士の先輩方が、あなたはいいから別のことをやってといつも厄介払いされていました。簡単に思い出してみても、男性のお世話はまったくさせてもらえなかったはずです」
何でだろう? と考え込むドクトルを見て、健人はふと気づいた。
「もしかしてドクトルさん以外の白魔導士って、年配の人が多かった?」
「はい。十代は私一人で最年少でしたね。あとは二十代と五十代が数人。ほとんどが三十代と四十代の女性でした」
「なるほどな」
野戦病院にいた頃のドクトルの年齢は、おそらく十五か十六そこらだっただろう。他の白魔導士の女性が気を遣って、治療以外ではあまり男性に近づけさせなかったのかもしれない。ドクトルは可愛いし、病院内で何か間違いでも起これば大問題に発展しただろうから。
というわけでドクトルの生い立ちを鑑みれば、彼女が子供の作り方を知らない……もとい知る機会が無かったのも特に不思議ではなかった。
「それでケントさん。男性器と子供を作ることに何の関係があるんですか?」
「いや……関係があるというか、むしろメインというか……」
「?」
またまた健人の声が小さかったらしい。ドクトルは訝しげに首を傾げた。
そこで突然、頭の上に豆電球が灯ったかのように彼女は顔を明らめる。
「あっ、良いことを思いつきました」
「……なんか嫌な予感しかしないけど」
「ケントさんにとっても良いことかもしれませんよ」
そう言いながら、ドクトルは朝食の空いたお皿を手に取って立ち上がった。
「どうやらケントさんは、私に子供の作り方を教えるのがイヤみたいです。なので、ちゃんと教えてくれるまで私とケントさんは喧嘩しているということにしておきましょう」
「ちゃんと教えるまでって……子供の作り方を?」
「そうです。子供の作り方を」
満面の笑みで宣言し、どこか楽しげな足取りでキッチンへと向かうドクトル。その背中を呆然と見送った後、健人は頭を抱えたのだった。




