ドクトルさんの本音
『ドクトルさんの決意』よりも、だいぶ後の話。
「ん? なんだ、これ」
荷台の積み荷を仕分けしている際、健人は赤い液体の入った瓶を見つけた。
ドクトルが街の病院で診察するようになってから、訪れた患者が治療代とは別にお礼の品物を持ってきてくれるようになったのだ。せっかくの厚意を断るのは申し訳ないため受け取り続けていたはいいが、街を訪れるたびにどんどん礼品が増えていく始末。今では街で荷台をレンタルしなければならないほどだった。
品物の多くは食べ物だったり食器などの陶器だったり衣服だったりと実用的な物ばかりなのだが、中には何を勘違いしたのか、自分の子供が赤ちゃんの時に使っていたおもちゃなどを譲ってくれた主婦もいた。まあ、それはもしかしたらいつか来るかもしれない未来のために、大事に納戸にしまってあるのだが。
そんな中、見つけたのは赤い液体の入った瓶。コルクで栓がしてあることから、もしやと思いドクトルに訊ねたところ、
「あっ、それはたぶんぶどう酒ですね」
「やっぱりか」
未成年二人しか住んでいないことは患者も知っているはずなのに、なんて物を入れるんだ。と、健人は呆れてしまった。
しかし健人の態度に反して、ドクトルは妙に声を弾ませる。
「せっかくですから、今夜の夕食の時にでも頂いてしまいましょうか」
「はい?」
ついつい変な声が出てしまった。
健人の反応が意外だったのか、ドクトルも不思議そうに首を傾げる。
「何をそんなに驚いているのですか?」
「確か……ドクトルさんも未成年だったよな?」
「ミセイネン? ……というのは?」
「ああ、なるほど」
おそらくこの世界では、年齢によって成人と未成年が区別されていないのだろう。
「俺の世界では、二十歳未満はお酒を飲んじゃいけないって法律があったんだよ」
「ここ、ケントさんが住んでいた世界ではありませんよ?」
「ぐっ……まあ、それはそうなんだけど……」
「それに法律とは国や地域の秩序を守るために存在します。ここは人の手の入らない森の中。法律なんてあってないようなものです。それとも、お酒を飲むことで私とケントさんの秩序が乱れたりしますか?」
「た、確かに……」
「そもそも私、修道院にいた頃は度々口にしていましたからね」
「えっ、そうなの?」
「はい。お祝い事がある時は、一杯のぶどう酒とジャムの載ったパン。食後には菓子が与えられましたので。そしてお祝い事でなくとも、食事の前はこうやって神に祈りを捧げていたんですよ」
そう言ってドクトルは両手を組み、目を閉じた。
「主よ、心と身体の糧になる食事を用意してくださったことに感謝します。と」
「って言う割には、ドクトルさんが神に祈ってるところなんて一度も見たことないような気がするけどな」
「それはそうですよ。悪魔に身を売った者が神に祈りを捧げて、何の意味があるんですか?」
「おお……」
そういえばそうだったなと、健人は改めて思い出した。
するとドクトルは、健人から受け取ったぶどう酒の瓶を嬉しそうに頬ずりし始める。
「というわけで、今日は特にお祝い事でもなんでもありませんが、少し贅沢しちゃいましょうか」
「……ジャム程度でも渋るほど禁欲的な生活をしていたドクトルさんはどこに行ったんだろうな?」
まあ、これはこれでいいことではあるのだろうが。
すっかり言いくるめられてしまったため、荷物を片付け終えた後の夕食の卓にはしっかりとぶどう酒が鎮座していた。残りはいつも通り、パンと野菜を煮込んだスープと少量の肉である。
二人揃ったところで、ドクトルが改めて訊ねてきた。
「先ほどの話から察するに、ケントさんはお酒を飲んだことがないのですか?」
「いやぁ……実を言うと、親父とちょくちょく飲み交わしてたこともあってさ。ほんの少しだったけど」
「法律、破ってるではありませんか」
「……見逃してくれ」
「別に責めたりしませんけどね」
と言いながら、ドクトルはお互いのコップにぶどう酒を注いでいく。
注ぎ終えたところで、ドクトルが不敵に笑った。
「ケントさん。ちょっとした遊び……げーむをしませんか?」
「ゲーム?」
「同じ量を飲んで、先に酔い潰れた方が負け。というのはどうでしょう」
「えー……」
提案してくるくらいだから、ドクトルはけっこう酒に強いのだろう。対する健人はあんまり自信がない。
なのでちょっとした反論のために瓶を指し示した。
「残りこれだけしかないけど、二人とも酔わなかったらどうするんだ?」
「その時は引き分けで」
「……分かったよ」
却下できそうもなかったので、仕方なく健人もゲームに承諾した。
そして始まる、ちょっと豪華な夕食兼ゲーム。先ほどは飲酒を渋っていた健人ではあったが、決して楽しみじゃないわけではなかった。
コップに注がれたぶどう酒を見下ろしてみる。醸造方法がそれほど発達していないためか、健人の世界にあるワインほど透き通ってはいない。少し舐めてみると、酸味が強いことも分かった。
とはいえ久々の果実飲料。懐かしい味に舌が躍るようだった。
「……美味いな」
「そうですね。私もぶどう酒の価値を見極めることはできませんが、修道院で飲んでいたものよりかは上等であることは分かります」
そう言って、ドクトルは機嫌が良さそうに笑ってみせた。
アルコールが入ったためか、ドクトルの頬が少しだけ火照っているのが窺える。目が据わっているその表情がやけに艶めかしく、ドクトルの美貌を改めて実感した健人は、照れ臭さを隠すようにぶどう酒を一気に呷った。
ふと――視界が揺れる。
「ケントさん。慣れていないのなら、あまり一気に飲まない方がいいですよ」
「ああ、分かってる」
そう言いながらドクトルもまた自分のコップを空にして、さらにお互いのコップをぶどう酒で満たす。これで瓶は空になった。
「ふふ。ケントさん、そろそろ酔ってきたのではないですか?」
「いやぁ……酔ってはいるけれど、酔い潰れるまでには程遠いかな。……ドクトルさんは?」
「同じくほろ酔い状態といったところですかね。確かに酔い潰れるには量が少ないみたいです」
お互いの状態を探り合っている間にもぶどう酒を飲み干し、夕食もすべて食べ切った。無論、二人の意識は健在である。
「ごちそうさまでした。どうやら引き分けみたいですね」
「そうだな」
元々引き分け前提だったようなものだ。
勝敗があるだけがゲームではない。ちょっとした余興で何気ない夕食が普段よりも楽しくなることを知り、二人は笑い合ったのだった。
夕食を終えた健人は、早々に自室へと戻っていた。
特に吐き気などはないが、視界が妙に揺れている。あと体験したこともない眠気も。
こりゃ今日はもう何かするのは無理だなと悟りながら、健人はベッドへとダイブした。
にしても……と、食事中のことを思い出して、彼はついつい頬を緩めてしまう。
ぶどう酒を前にしたドクトルは、終始ニコニコ笑顔だった。久々にぶどう酒を飲めることが嬉しかったのか、それとも酒の力が彼女の笑顔を引き出したのか。
どちらにせよ、たまにはこういうのも悪くはない。ぶどう酒を送ってくれた人に感謝しつつ、健人は泥のような眠りへと堕ちていった――はずだったのだが、不意のノックでギリギリ意識が引き留められる。
「はーい」
ノックの主はドクトル以外にあり得ない。
もうちょっとで眠れるはずだったのに……と、少々不満に思いながらも、健人は枕に顔を埋めたまま弱々しい返事で応えた。
「ケントさん、起きていますか?」
「一応、起きてるよ」
「入ってもいいですか?」
「どーぞー」
顔を上げずに応える。
扉が開く音。用事があるのなら、そこから何か言ってくるはずだ。
そう思い意識を半分眠らせたまま待っていると、ドクトルは健人が横になっているベッドの中へと潜り込んできた。
「よいしょっと」
「へ?」
突然のことに驚いて瞼を開く健人。
目の前には、自分の胸に顔を埋めているドクトルの頭頂部があった。
「ドクトルさん。これはいったい、どういう……」
「ケントさん、今日は一緒に寝ましょう」
「一緒に寝ましょうって……」
夢じゃないよな? と思って、ドクトルの髪に触れる。
間違いなく実体がある。それに女の子特有の良い香りと柔らかな感触。これが夢であるはずはない。
落ち着け健人! ドクトルさんと添い寝したことなんて、前にもあったじゃないか!
などと自分に言い聞かせ、昂る気持ちを無理やり抑えようとする。しかし意識を集中させてしまったことで、これが未知の感触であることに気づいた。
ガッチガチに緊張したまま視線を下げる。
ドクトルが身に纏っているのは、寝巻用の生地の薄いシャツ一枚だけだった。
そうだ。前回抱き合って眠った時はいつもの分厚いローブを着たままだったし、彼女を慰める意味での添い寝でもあった。
けど、今はまったく状況が違う。ドクトルの肌の感触が直に伝わってくる。
これは……そういうことなのか? そういうことでいいんだよな!?
生唾を飲み込んだ健人は、ドクトルを抱きしめようとゆっくり腕を動かす。だが彼女の肌に触れる直前に思い出してしまった。夕食時、自分たちがどんなゲームをしていたのかを。
「ドクトルさん。もしかして……酔っぱらっちゃってる?」
「……はい。柄にもなく、少し酔っているみたいです」
ドクトルの返答を耳にした健人は、優しげな笑みを浮かべて矛を収めた。
酔っぱらっている女性に手は出せない。酒の力に任せて襲うのは悪だ、というのが健人の信条だった。それが大切な相手なら、特に。
ドクトルが正常な判断力を取り戻すまで、自分はこのお預け地獄を耐えるのみ。
そう決断し、健人は心を落ち着かせるよう深呼吸をした。
「ケントさんは酔っていますか?」
「酔ってるよ。ドクトルさんが来なかったら、もう少しで寝てたと思う」
「すみません。起こしてしまって……」
「いいよ。気にすんな」
そのおかげでこうやって添い寝できてるのだから安いものだ。
と思いつつも、再び睡魔が襲ってくる。
「私、こんな話を聞いたことがあります。酔っぱらっている時は少々大胆になり、遠慮なく本音が言えるようになるものなのだと」
「本音? ドクトルさんは、俺に対して普段じゃ言えないことでもあるのか?」
「……はい。どうしてもお伝えしたいことがあります」
健人はドクトルの頭頂部を見つめたまま、軽く顎を引いた。
酔っぱらわなければ言えないようなことなど、かなり大切な話なのだろう。そうと分かれば、聞く方としても覚悟を決めなければならない。
黙り込んだままドクトルの言葉を待っていると、彼女は健人のシャツを握りしめながら小さく漏らした。
「ケントさん。私は今、ケントさんのおかげでとても幸せです。ケントさんがいてくれたからこそ、私はまた……笑うことができました。この世界に残っていただいて……本当にありがとうございます」
「……?」
まるで今際の際みたいなセリフに、健人は訝しんだ。
これがドクトルの本音? なら、顔を合わせて言えばよかったんじゃないか? 彼女がお礼を言うくらいで恥ずかしがる性格でないことは、もう十分に知っている。
ただ酔いが回っているせいで無駄な思考に特化しているため、健人はドクトルの真意に気づくことができた。
健人がこの世界に残るということは、元居た世界のすべてを捨てるということ。それは今まで自分が築き上げてきたものだったり、友人や両親などの大切な人だったり様々である。
再び孤独になってしまう自分のために健人が犠牲になったようで、後ろめたさから面と向かってお礼を言いにくかったのだろう。
……未だにそんなことを気にしているのか。
バカだなぁと思う反面、彼女のその優しさが愛おしくもあった。
健人はドクトルの身体を包み込むように優しく抱きしめる。
「前にも言ったかもしれないけど、俺は自分の意志でこの世界に残ったんだ。ドクトルさんと一緒にいたいと……思ったんだ。だからドクトルさんが気負うことじゃないよ」
「……はい。ありがとう……ございます」
健人の腕の中で、ドクトルが身じろぎする。
顔は見えていないはずなのに、彼女が微笑んでいるのが手に取るように分かった。
落ち着いたところで、さらに眠気がやって来る。
しかし眠りへと身を任せる前に、酔いで舌の回りがよくなった健人の方からも本音が漏れた。
「俺は……弟は、嫌だなぁ」
「え?」
「俺の本音。弟の代わりじゃなくて、俺を……一人の男として見て欲しいな、って」
「…………」
あまりに唐突な要望だったためか、ドクトルは黙り込んでしまった。
ちょっといきなりすぎたかな? と思いつつも、吐き出した言葉は戻らない。そしてドクトルの返事を待っている間にも、健人の意識が遠のいていく。
だが彼女の掠れるような声は、意識の片隅でしっかりと聞き取ることができた。
「…………はい」
肯定的な、小さな返答。
安心感に満たされた健人は、心地良い安らぎの中へと堕ちていった。
夢を見た記憶がないまま目が覚めた。
眠気のせいでまったく開かない瞼をこすりながら、健人は身体を起こす。ガラスのない窓からは、すでに朝の日差しが室内を照らしていた。
「痛った……」
欠伸をしようとしたところで、頭に鈍い痛みが奔った。
そこで思い出した。昨夜、ドクトルとぶどう酒を飲み交わしたんだった。
「……これが二日酔いというやつか」
人生初の痛みに、健人は悶絶してしまった。
ふとベッドの空いたスペースに視線を移す。ドクトルの姿はすでにない。
一瞬だけ夢かとも思ったが、よくよく観察してみれば温もりと匂いと髪の毛が残っている。どうやらついさっきまでここで寝ていたらしい。
添い寝していたことを思い出し、健人は二日酔いとは別の意味で頭を抱えた。
「ああー……どうせなら、もうちょっと触っておけばよかったな」
ついついそんなことを漏らしてしまう。
半ば夢心地状態だったためか、健人もドクトルが来てからのことはあまり覚えていないのだ。彼女も同じようなものだっただろう。添い寝なんて肌と肌が触れ合うのが当たり前なんだし、記憶に残る程度には堪能しておけばよかったと後悔した。
行き場のない欲求を無理やり抑えて、ベッドから立ち上がる。
今日は日課の素振りは無しだ。そう決めてリビングへ行くと、ドクトルがすでに朝食の準備をしていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
元気そうな彼女の姿を見て、健人は呆気に取られてしまった。
あまりにも普段の様子と変化がなかったからだ。
「ドクトルさん……二日酔いとかしてないの?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「そうなのか。けっこう強いんだな」
「うふふふふ」
指摘すると、ドクトルが気味が悪いくらい上機嫌な笑みを浮かべ始めた。
同居生活もそれなりに長いからか、その笑みの意味はちゃんと知っている。アレは何か悪戯を思いついた時の笑顔だ。
「えっと……ドクトルさん? その笑いの意味を訊いてもいい?」
「ケントさんは私がお酒に強いとおっしゃいましたが、まあ弱くはないですね。ただケントさんはどうやらお忘れのようです。私が白魔導士であることを」
「はあ………………あっ!」
眠気が完全に吹っ飛ぶほどの衝撃を受けた。
ドクトルは魔法で体内の異物を浄化、除去することができるのだ。つまり好きなタイミングで自分の中からアルコールを抜くことができるのである!
あっぶねぇ! 添い寝中に変なことしないでよかったぁ!
と、心臓バックバクになる健人。
しかし忘れてはいけない。
「だったら昨日のゲームもズルしてたってこと!?」
「いえいえ。あの時は魔法なんて使っていませんでしたよ。げーむは正々堂々。普通に酔っぱらってましたしね」
「でも、いつでもできたってことでしょ?」
「もちろん」
「ゲームとして成立してねえ……」
得意げに不正を告白するドクトルに、健人も呆れてしまう。
まあ、考えに至らなかった自分にも落ち度はあるのだが。
「つーか、いつからアルコールを抜いてたんだ?」
「さあ? いつからでしょうね?」
惚けたドクトルが、クスクスといたずらに笑う。
そして何かを思い出すように、彼女は天井を仰いだ。
「それにしても昨夜の健人さん、すごく甘えてきてとても可愛かったです。ちょくちょく寝言も言ってましたし」
「えっ、ちょっと待って。俺、なんて言ってた?」
「さーて、教えませーん。私だけの秘密でーす」
笑いだすのを堪えながら、楽しそうにそっぽを向くドクトル。
これは教えてくれそうにない流れだと理解しつつも、健人は食い下がる。
「もしかして、かなり恥ずかしいこと言ってたとか?」
「どうでしょうかぁ?」
あくまでも口を割らないようだ。
もちろん、健人としてもドクトルとこういうやり取りをするのは楽しい。ただ今後ドクトルと一緒にお酒を飲む時はマジで気を付けようと、彼は誓ったのだった。




