20.カーシャの正体
画像をスクロールするように背景が変わり、気づけばカーシャの館の書斎に立っていた。
つい一日前に訪れた場所とはいえ、移動方法が移動方法だっただけに、健人は狼狽えた様子で書斎内を見回す。すると両手の拘束を解いたカーシャがソファに座るよう促してきた。
「ドクトルほどじゃないけど、私の白魔法で傷くらいは塞いであげるわ」
未だ混乱中の健人が言われるがまま素直に腰掛けると、まるで床屋で顔剃りをするかのようにカーシャが遠慮なく顔に触れてきた。同時に顔が白い光に包まれ、ガルディアから受けた暴行の痕がみるみるうちに癒えていった。
ただ甲斐甲斐しく治療してくれるカーシャに、健人は疑問を抱かずにはいられなかった。
「……カーシャさん。どうして俺を助けてくれたんですか?」
「あら? 貴方はあのまま元の世界に帰っていた方が良かったのかしら?」
「いえ……」
答えをはぐらかされるとは思わず、戸惑った健人は目を泳がせた。
また、自分がそんなことを訊きたかったわけじゃないのは、すぐに気づいた。言わねばならないことを伝えるため、彼はソファに座ったまま深く頭を下げる。
「カーシャさん。本当にありがとうございました」
「ふふ。その一言を聞けただけでも助けた甲斐があったわ」
慈悲深い笑みを浮かべたカーシャは、再び健人の顔に手を当てた。
痛みが引いたところで、健人から離れたカーシャが昨日と同じような蒸しタオル、それに水やパンを持ってきた。
「あとはこれで顔を拭きなさい。それと、お腹も満たして体力も戻さないと」
「ありがとうございます」
遠慮なくそれらを頬張っていると、書斎机に移動したカーシャが椅子に深く腰掛けた。天井を仰ぎ、まるで大仕事を終えた後のように大きく息をつく。
「あー……怖かったわぁ。それに、ちゃんとケント君を連れ出せてよかった。空間転移の呪符なんて使い道ないと思ってたけど、分からないものね」
「呪符?」
思い出した。そういえば昨日、この書斎でカーシャから変な紙をたくさん押し込まれたんだった。そのうちの一枚が残っていたのだろう。
と、椅子のひじ掛けに置かれているカーシャの手が震えていることに気づいた。
「怖かったって……カーシャさんなら、あれくらいの兵士は敵じゃないのでは?」
「何を言ってるの。そんなの無理よ、無理。なぜなら私は弱いから」
事も無げに言うカーシャに対し、健人は首を傾げた。
先ほどの兵士たちの態度を思い出せば分かる。『万能の魔女』という異名は、少なくとも人類側の城にまで轟いているのだ。悪魔だからといって、なんの力も持たない弱々しい奴が有名になったりはしないだろう。事実、カーシャの正体を知った兵士たちは足元から竦み上がっていた。
健人が納得いっていない表情を解かずにいると、カーシャがため息を吐いた。
「うーん……まあケント君なら害は無さそうだから白状するわね。私が万能なんてのは嘘。完全な嘘っぱちなのよ」
「嘘?」
そういえば、昨日も言っていた。万能だけど、なんでもできるわけじゃない、と。
「私は悪魔の中では下級も下級。上級レベルの悪魔と敵対したら、プチッと潰されるくらいに弱々しいの。だから悪魔が住む世界から逃げてきて、こんな森の中で暮らしているのよ。さらに人間や魔人にも劣るから、『万能の魔女』なんて名乗ってハッタリ効かせてるだけ。さっきだって、私のネームバリューで奴らが怯んでなかったら危なかったわ」
だとしても、健人は未だに納得しかねていた。
カーシャと出会ってからまだ二日も経っていないが、超越したその能力はいくつも目にしている。悪魔の中の力関係がどういうものかは知らないが、少なくとも人間相手なら軽く翻弄できるのではないだろうか?
「よく考えてみてね。私が今まで貴方の前で使った魔法……地形を変える魔法も、千里眼も、読心術も、空間移動も、すべて逃げ隠れするための魔法だもの。私は逃げることを第一に考えるほど弱い。今ここで貴方に襲わても、私はすぐ負けてしまうでしょうね。もっとも、即座に逃げるけど」
「……そんなことはしません」
「それを知ってるから白状したんだけどね」
軽く手を挙げたカーシャは、苦い笑みを溢した。
「まあ、私のことはどうでもいいわ。今の状況をまとめましょう。私は貴方を元の世界へ帰す義務を譲ってもらった。世界の座標もさっき確認したから、いつでも帰すことはできるわ。もちろん、今すぐに帰る気はないわよね?」
「はい。ドクトルさんにお礼を言うまでは帰れません」
「よろしい。でもドクトルも兵士たちの交渉を受けちゃったから、ウェルリア東区の砦を取り戻すまでは帰って来れない。少なくとも、作戦が終わるまでは」
脅迫まがいの交渉でドクトルを従わせたガルディアへの怒りは、すでに鎮火していた。代わりに今は、取り引きの材料になってしまった自分を悔い、ドクトルの身を案じるばかりだ。
視線を伏せ、肩を落とした健人は、カーシャに縋るようにして問いかけた。
「ドクトルさんは……大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫よ。ドクトルがいれば取り返したも同然っていうのは、決してあの兵士長の誇張じゃない。あの子は私と違って強いからね」
その言い方は健人を励ましているわけではなく、一つの真実を語っているようだった。
ふと、カーシャが水晶玉に映る何かに気づいたようだ。
「あら? どうやら兵士長がいなくても作戦が始まるみたいね。まあ、あんな無能はいてもいなくても同じかぁ」
ぼやいたカーシャが、ソファに座っている健人へと手招きしてくる。
「こっちへ来て一緒に見ましょう。ウェルリア東区の砦を奪還する作戦が始まるみたいよ」
誘われた健人も、書斎机の前へと移動する。
覗き込んだ水晶玉の中に広がっていたのは、日没を迎えた真っ暗な荒野だった。俯瞰視点から見下ろす中心に、石造りの城壁が囲む、高校のグランド程度の砦が映し出されている。
健人にとっては、何人ものクラスメイトが死んだ忌まわしき土地だった。




