狸穴の光さん2
土曜日。朝四時に愛車のクラウンで自宅を出た。
指定されたのは、那須高原にあるゴルフ場だった。光生は『蜂谷設備』を立ち上げるまでゴルフに全く興味がなかった。それは今でも変わらない。一度コースに出てみれば素晴らしさが分かると、半ば強引に正木に連れていかれたが、あんなだだっ広い芝生の中の小さな穴に、小さなボールを入れることの、どこが楽しいのか、さっぱりわからなかった。
家を出るときには真っ暗だった空も、東北道の那須インターチェンジを出る頃には青く澄み渡っていた。こういうのをゴルフ日和というのだろう。光生は他人事のように思いながら、ダッシュボードからサングラスを取りだした。
駐車場に入ると、白のベントレーが奥に停まっているのが見えた。煙草を喫っている男が、横で寒そうに背中を丸めている。あれば確か正木の秘書だ。光生は急いで手近なスペースに車を停め、着替えの入ったバックを引っ掛けてクラブハウスに走った。腕時計に目を落とす。朝の七時前だった。約束の時間までまだ三十分以上ある。
エントランスをくぐり、サングラスを顔からはずした。中を見まわしてみる。正木の姿はなかった。フロントで記帳を済ませ、二階のレストランに向かった。
フロアに上がると、光生は眩しさに思わず目を細めた。壁一面が切り取られた大きな窓から朝日が差し込んでいる。窓の外は常緑樹の林で、葉が光を受けて輝いていた。
改めて店内を見渡した。茶とベージュを基調とした落ち着いた内装のレストランだった。背の低いソファが適当な間隔を開けて配置され、壁にはコースの風景画が飾られている。五、六十席はありそうだが、既に半分ほどが埋まっていた。
奥の窓際の席に正木の姿があった。トレードマークの美しい銀髪をきれいに撫で付け、痩せて貧相な身体を覆い隠すように大きめのブレザーを着ている。男と談笑しているが、こちらに背中を向けているので顔は見えない。
正木が光生に気づき、こちらに小さく手を上げた。
「先生、遅くなりまして申し訳ありません」
歩きながら何度も頭を下げ、席の横に立ってもういちど深く頭を下げた。
「なに、私たちのほうが早すぎただけだ。歳を取ると朝が早くなっていかんなあ」
いえ、と正木に向かい合った男にちらっと目を遣った。
「ああ、紹介するよ。こちらはウスバさんだ。今回、いろいろと有益なお話を頂いてね」
ウスバと紹介された男が立ち上がった。その瞬間、甘ったるいコロンが微かに匂った。
「初めまして。ウスバでございます」
長身を折るように頭を下げた。見るからに高そうなグレーのジャケット、細身の体躯、長い手足、色白の肌に、少しウェーブがかった髪。年齢は三十代前半くらいか。
若いな、というのが第一印象だった。そして気障な奴。
「今後とも、お見知りおきを」
そういって薄い唇の間から覗いた歯も、真っ白だった。
名刺を交換して正木の隣に座る。揃えた膝の上に拳を置いた。受け取った名刺には『株式会社ディアマンテ化粧品 代表取締役 薄葉万起雄』とあった。住所は港区北青山。いかにもな感じだ、と思った。
「蜂谷さんはね、まだ業歴は浅いんだが、とにかく真面目な男でねえ。本来指定業者というのはある程度の業歴が必要なのだが、私が彼の経営者としてのひたむきさに惚れてしまったんだよ」正木が、わはは、と上向いて笑い、光生の肩に手を置いた。「まあ、かなり無理繰りをして指定業者になってもらったわけだ」
「その節は有難うございました」
光生は頭を下げた。正木にはこの先もずっと、頭を下げ続けなければならないだろう。
「そうでしたか。それは素晴らしいお話ですね」
薄葉が真面目な顔で正木に頷いてから、光生に笑みを見せた。いっけん冷たい印象だが、表情がよく変わる男だった。
それからしばらく取り留めもない話をした後、「先生、そろそろ」と薄葉が肘を曲げた左腕を上げた。袖から覗いた腕時計は赤や黄色の数字が奇妙に歪み、見たこともないデザインのものだった。