狸穴の光さん1
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――師匠ぅー、電話ですよー。
一階からマサルの声が聞こえた。光生は、ちっ、と舌打ちしてキーボードの手を止めた。
「っつたく、あの馬鹿野郎が。社長っていえって、いってんだろうが」
ひとりごちりながら、眉間を親指と人さし指で揉んだ。西日がカーテン越しに差し込むだけの薄暗い部屋で、朝から慣れないパソコンを睨んでいたので、目がしょぼしょぼして背中が痛い。
――師匠ぅー。
「ああっ、うるせえっ、今行くよっ」
扉に向かって怒鳴ってから、よっこらしょ、と椅子から立ち上がった。床に積み上がった書類ファイルの山を避けながら部屋を出る。いちおう社長室としているが、実際は過去の帳簿や見積もりを押し込んだ倉庫になっているのが実態だった。
滑り止めのゴム部分が擦り減った階段を踏んで、一階に降りた。またマサルが「師匠ぅー」と呼ぶ声が聞こえた。
事務所に入ると、マサルがひとり、ソファでテレビを見ていた。ぎゃはは、と下品な笑い声を上げていたが、光生に気づき顔だけを後ろに向けた。
「あ、師匠、電話入ってますよ」
四つ並んだデスクの上に受話器が寝かせて置いてあった。光生は事務所の中を進み、受話器を手に取った。通話口を手で押さえる。
「おいマサル、誰からだ」
「はい?」テレビから目を離さず答えた。
「誰からだって訊いてんだ、こっち向いて喋れっ」
だらけた笑みを顔に残したまま「あ」とマサルが振り返った。
「誰からだ」
「ああ、すいません。正木センセイからっす」
「馬鹿かお前、それを早くいえってんだ」
正木は横浜市の公共工事関連に絶大な発言力を持っている市議会議員だ。光生の経営している『有限会社蜂谷設備』が短期間で横浜市の給排水設備指定業者になれたのも、正木の力に依るところが大きい。
光生は空咳で声を整えてから、受話器を耳に当てた。
「先生、大変お待たせして申し訳ないです」
――ああ蜂谷さん、久しぶりですねえ。元気ですか。
とても七十を過ぎているとは思えない、相変わらず若々しい声だった。
「ええ、まあ何とかやっとりますです」
――そう、それは何よりだ。ところでねえ、蜂谷さん。あなた今週の土曜日、時間あるかい?
「土曜ですか――」光生は壁に貼ったカレンダーに目を向けた。土曜日は町内会の役員の忘年会が入っていた。「何か、ありましたか?」
――いやなに。ちょっと面白い話があってねえ、君にも是非聞いてもらいたいんだよ。
「はあ……」
嫌な予感がした。正木は議員のくせに山師の気があり、胡散臭い投資話や儲け話のたぐいに目がなかった。光生も仕方なく付き合ってきたが、正木は危険を察知する独特の才能でもあるのか、今日まで大きな損害を被ったことはなかった。
光生が答えを躊躇っていると、正木が追い打ちをかけてきた。
――ああ、それとねえ。今、市の財政も大変苦しい時期に来ていてねえ、指定業者を絞りこめという声が非常に高まっておるんだ。いやあ困っておってねえ。
全く唐突といった具合で、平然と切りだしてきた。『蜂谷設備』程度の会社が、指定業者から外されたら死活問題だ。いや間違いなく倒産する。そして、それをできる力を正木は持っていた。完全な脅迫だった。
ぎゃはは、とマサルがまた笑い声を上げた。
「おいっ、テレビ消しとけっ」
――ん? どうしたね。
「ああ、いえ、何でもありません。すいませんです」
目を怒らせて、マサルに「あっちに行ってろ」と口の形だけでいった。
マサルが事務所を出ていくのを目で追いながら、椅子を引いて腰を下ろした。
――それで、どうだね。土曜日の都合は?
しょうがない、と思った。何かの投資話に付き合うはめになっても、その分、次の工事代金に上乗せして請求してやればいい。その辺りは正木も口にしないが、わかっていて声を掛けてきているはずだ。
光生は、ほとんど白くなったオールバックの髪をかき上げた。
「わかりました。どこに伺えば宜しいですか」
ため息を悟られないように、肩で息をついた。