悪女モナ2
ボックス席の馴染みの客たちに笑みを返しながら店内を進んだ。いちばん奥の暗がりの席に、ぽつんと一人で間宮が座っていた。脚を高く組み、右手をソファの背に載せてグラスに口をつけている。薄笑いを浮かべながら焦点の合わない目を左右に巡らせていた。
ずいぶん痩せたな、と思った。グラスを持つ指が枯れ枝のようだった。
「ご機嫌みたいですね」
間宮の横に立ち、笑顔のままいった。
間宮が、モナに初めて気がついたといった顔を上げ、全身を舐め回すようにゆっくりと視線を往復させた。
全身に鳥肌が立った。
「お前のほうも元気そうだな」グラスをテーブルに置いた。
「お陰様で何とか、やってます」
モナはテーブルを挟んだ向かいの丸椅子に腰を下ろした。長くついている気はなかった。
「アタシも頂いていいかしら」
間宮が黙って頷く。モナは手を上げボーイを呼ぶと、ウーロン茶を頼んだ。
「何だよ、呑まないのか」
「最近、胃の調子がおかしくって。医者から止められているんです」
「へえ、そうかい」
「ごめんなさい」
そういいながら改めて間宮を見た。着ているスーツは生地がペラペラでいかにも安物だった。無精ひげに埋もれた顔はどす黒く、痩せて窪んだ眼窩の奥の目だけがぎらぎらと光っている。馬鹿だが、いかにもお坊ちゃん然とした、かつての姿は欠片も感じられなかった。
「しばらく見ない間に、すっかりママって顔になってるじゃないか」グラスに手を伸ばし、口元に近づけた。
「あら、そんなにご無沙汰でしたっけ?」
間宮がグラスを近づける手を止め、顔を歪めた。笑っているようでもあり、泣いているようにも見えた。
「一年と二か月だ」
「ああ、そうでしたわね」
背筋に悪寒が走った。憶えてるんだ、と思った。正直、モナはすっかり忘れていた。
ボーイが運んできたウーロン茶を受け取り、形だけ乾杯してグラスに口をつけた。あと二言三言話したら席を立とうと思っていた。
「地獄だったよ」グラスを一息にあおり、テーブルの上に音を立てて戻した。
モナは薄目に水割りを作り、間宮の前に差し出した。コイツ、ちゃんと金払えるのか?
「なあ、新聞紙にくるまって寝ると暖かいって、知ってるか」
「なあに? キャンプでも行かれたんですか」
わざと、とぼけてみせた。ひどい生活を送ってきているのは、容易に想像が出来たが、まともに話につきあうつもりはなかった。そもそもモナには関係がないし、興味もない。
「ふざけんなっ」突然声を荒げた。「全部、てめえのせいだろうがっ」
客の視線がいっせいに集まったのを感じた。
「いやだ、間宮さん。少し吞みすぎちゃったかしら」
モナは笑みを崩さずいい、ボーイを呼んだ。「お水ちょうだい」
「この店を買った金、誰が出した?」
「もう、いい加減にしてください。絡み酒は嫌われちゃいますよ」
「アイツだろ? 元泥棒で今や、マルチ商法の親玉。何回寝て落としたんだ」
ボーイから水を受け取り立ち上がった。間宮の前に置き、隣に腰を下ろす。膝に手を置いた。何となく酸っぱい臭いがする。
「何、いってるのよ。そんなわけないじゃない」猫なで声を出した。
「さわんじゃねえっ」、
間宮がモナの手を払った。
「若造りの整形お化けの色仕掛けになんか、今さら引っかかるかよっ」
こめかみが痙攣し、顔が引きつりそうになる。
「楽しく飲みましょ。もしアタシが嫌なら、別の娘をつけるから」
「この、金の亡者がっ」
そう叫んで、間宮がモナにコップの水をかけた。隣のボックス席から「きゃっ」と声が上がる。
水浸しになりながら、モナは膝の上に手を重ね、目を閉じた。ここで取り乱したら負けだ。髪の毛から滴り落ちる水滴が、頬を伝い胸の谷間に流れていく。
ちくしょう、大人しくしてりゃ、つけ上がりやがって――。
「ママ、大丈夫ですか」
進藤が掛けよってきた。間宮に何かいおうとしたのを目顔で制して、差し出されたおしぼりを受け取った。ドレスの水をふき取る。
モナはゆっくりと立ち上がり、テーブルをはさんだ椅子に戻った。背を伸ばし、まっすぐに間宮に視線を据える。
「間宮さん、ここは皆さんが楽しくお酒を吞む場所です。もし別の理由でいらしているんなら、お帰りいただけませんか」
「すました顔してんじゃねえよっ」
上着の内側に入れた手を前に出した。銀色のナイフの刃が照明を受けてぎらりと光った。
モナは目を見開き、椅子から腰を上げた。
あちこちから悲鳴が上がる。グラスが割れた音が店内に響いた。
間宮がソファからゆらりと立ち上がった。
「舐めた口きいてんじゃねえぞっ、このクソアマっ」
唾を大量に飛ばしながら、叫んだ。ゆるんだ唇の端からよだれが溢れ、目の焦点が合っていない。
覚醒剤、という言葉が頭をよぎった。
「下がっててください」
進藤がモナの前に手を伸ばした。横顔から表情が消えていた。
「間宮さん、あんまりふざけてもらっちゃ困りますね」
へへっ、と間宮が笑いながら、顔を俯かせた。
「誰だ、テメエ……」下を向いたままいった。
「進藤ですよ。お忘れですか」じりじりと距離を詰めていく。
顔を上げると同時に、間宮が進藤に体ごと突っ込んだ。
一瞬のことだった。
うっ、と呻いた進藤が、間宮に覆いかぶさり、そのままずるずると滑り落ちた。うつぶせに床に倒れる。間宮の手には赤く染まったナイフが握られていた。
薄笑いを浮かべたままモナに視線を上げる。
一瞬の沈黙があった。店内の空気が凍りついた。
きゃあああああー
切り裂くような悲鳴が上がった。
「おいっ」
「警察を呼べっ」
店内が騒然となった。
モナは動けなかった。ただ目を合わせていることしかできなかった。少しでも動けば刺される、そう思った。
「おいっ、何やってんだっ」
背後から声がした。